【第86回】みちびと紀行~鎌倉街道を往く(新田義貞の進軍) みちびと紀行 【第86回】
入間川のほとりから先は、鎌倉幕府を倒した新田義貞ゆかりの場所が、街道沿いに次々に現れる。
「いざ鎌倉!」
幕府を守るため鎌倉に馳せ散じた坂東武者たちのかけ声が、鎌倉に攻め登る義貞軍の号令へと、その意味合いを変えていく。
ここから先は、鎌倉時代の終演を辿る旅になっていくのだろう。
元弘3(1333)年5月8日、義貞は、強引に税を取り立てようとした幕府の徴税使を斬首し、上州新田荘(現群馬県太田市)の生品神社で幕府打倒の軍を旗揚げする。
当初150騎だった義貞軍は、利根川を越える頃には2千騎、碓井川を越えてさらに5千騎と、その後も児玉、菅谷、笛吹峠と、鎌倉街道を南下しながら軍勢を増やした。
「太平記」によれば、ついには20万7千余騎の大軍に膨れ上がったという。
さすがにそれは一桁違うだろうとは思うものの、それほど驚異的な「増殖スピード」だったということなのだろう。
そして義貞は、旗揚げからたったの2週間で鎌倉幕府を滅ぼしてしまった。
約150年間続いた鎌倉時代も、その終わりのなんとあっけないことか。
国や政権は、往々にしてその内部から崩壊することを、世界史は伝えている。
その例に漏れず、東国武士団に担ぎ上げられた鎌倉幕府は、朝廷でも西国武士でも、襲来したモンゴル軍でもなく、屋台骨だった坂東武者自身によって倒されてしまった。
義貞軍と幕府軍との最初の戦いは、ここから南西に行った小手指ヶ原で行われた。
合戦が行われたのは5月11日、両軍とも多数の死者を出す激戦で、決着がつかぬまま日没となり、鎌倉勢は三里退き久米川に、義貞も三里退き、この入間川の一帯に陣を敷いたという。
その本陣があった場所、「徳林寺」に向かう。
この寺には、新田義貞の守護仏、聖観世音菩薩が安置されている。
かつて源頼朝が、石橋山の戦いで死を覚悟した際、「死してこの観音像が見つかるのは恥辱」と、髷に入れていた守り本尊を岩窟に残していったように、義貞もここに守護仏を残し、決死の覚悟で鎌倉へと進軍していったのだ。
おや?これは何だろう。
徳林寺の境内をまわっていたら、ずらりと並んだ「貫通石(かんつうせき)」の展示を見つけた。
貫通石とは、トンネル工事で左右から掘り進んで貫通させる際に、最後に掘削した岩石のかけらのこと。
意志(石)を貫き、難関突破の証として、安産や学業成就のお守りにしたり、工事関係者への記念品として配布するものだそうだ。
大がかりなトンネル建設プロジェクトでも、菊池寛の「恩讐の彼方に」のような、手堀りの掘削事業でも、ひとつの事業をこつこつと成し遂げたことを証明するその石は、背後のストーリーもあわせて、確かに尊く思えた。
いったい何個あるのか、ここに集結している全国津々浦々の石は、日本人が血と汗と涙で国土を切り拓いた歴史の証明なのだ。
僕が歩いて通った、甲州街道の笹子隧道や、下田街道の天城隧道の石も、ひょっとしたらこの中にあったのかもしれない。
義貞の愛馬をつないだ「駒つなぎの松」がある「八幡神社」を参拝してから、西武新宿線・狭山市駅の反対側に抜けた。
地域名で言えば、「武蔵野台地」と呼ばれるエリアに入っていく。
そこから先は「つつじ通り」という名前でも呼ばれる、「埼玉県道50号所沢狭山線」を進む。
歩道幅が十分に確保されていて、安心してキョロキョロと見回しながら歩いていった。
県道沿いに、「七曲井(ななまがりのい)」という県の史跡が現れた。
「まいまいず井戸」とも呼ばれる武蔵野台地特有の井戸で、ここ以外にもいくつかあるらしく、和歌や文学作品では「ほりかねの井」として、武蔵野の歌枕となっている。
昔は「竪堀り井戸」を掘る技術がなかったので、こうして螺旋状に掘り下げて井戸を作っていたそうだ。
この街道を通る人々や馬たちが、ここで喉の渇きを潤したことを想像しながら、しばらく井戸の景色を眺めていた。
入曽駅のそばの跡地に、大きなケヤキの木がぽつんと残されていた。
明治7(1874)年に開校し、137年後の2011年3月31日に閉校した、入間小学校があった場所だ。
ケヤキの木は学校のシンボルとなっていて、地域の人々の声によって、閉校後も残されているとのことだ。
そういえば、僕が通った高校のシンボルもケヤキだったことを思い出し、学校樹木の選定基準のようなものがあるのだろうかと、少し調べてみた。
学校内で特に目立つ樹木
ケヤキの「けや」は、「際だって目立つ」「美しい」といった意味の「けやけやし」に由来する。
ケヤキの別称は「槻(つき)」。「強き木」の略。
辞書にはこうあった。
この学校創立時の明治期は、独立独歩の精神が求められていた時代だから、ケヤキが植えられた背景は理解できる。
この木は、生徒へのそんな願いを込めて植えられ、「あの木のように」と目を向けられながら、生徒の模範になっていたのだろう。
埼玉県の高等学校における樹木の調査報告書「学校造園の樹木に関する調査研究」では、ケヤキは、ヒマラヤスギ、サクラに次いで3番目に「学校内で特に目立つ樹木」として挙げられていた。
けれど現代では、樹木の由来やストーリー性よりも、「病虫害が少ない」「手入れが用意」などの実利的な条件で学校樹木が選択されているようだった。
樹木がシンボルにはなりにくい時代に、この先なっていくのかもしれない。
(参照: https://www.jstage.jst.go.jp/article/jila1934/47/5/47_5_147/_pdf )
学校増援樹木の選択条件
この小学校の跡地には、入曽駅前再開発とのからみで、いずれ複合商業施設が建設されるそうだ。
いつかまたこの街道を歩くとき、ここにケヤキの木が残っていたらいいな。
通りすがりの旅人の勝手な願いだ。
街道沿いに茶畑を目にするようになった。
茶どころの狭山らしい風景だ。
「色は静岡 香りは宇治よ 味は狭山でとどめさす」
と、古くから歌い継がれている茶摘み唄があるそうだ。
その「味の狭山」では、茶葉の栽培、加工、販売までを各々の農園が一括して行う、「自園自製自販」というスタイルをとっている。
なるほど。そうであれば、美味いお茶作りに精を出す甲斐があるというものだ。
日本人にとって身近すぎた緑茶も、きっとコーヒーや紅茶のように、その時々でこだわりながらブランドを選ぶ時代に入っていくだろう。
その時は、海外からお茶の愛好家たちがやってきて、自分に合った茶園を求めて、狭山じゅうを歩きまわっているかもしれない。
西武新宿線の線路を越えて、鎌倉街道は、新所沢駅前に続く大通りへと変わっていく。
街全体が西武ファンであるかのように、通りにライオンズの旗がひるがえっていた。
新田義貞が進軍の途中で武運を祈ったという新光寺に寄り、そこから南へとのびる道を行く。
「旧鎌倉街道」の道しるべが、一見何の変哲もない住宅街の道を歴史の舞台へと変える。
確かにこの道は、高崎から鎌倉までつながる街道、歴史を紡いだ道だったのだ。
時宗の寺「長久寺」から先は、「八国山(はちこくやま)緑地」と呼ばれる丘陵地へと歩いていく。
途中の公園の隅にある「武蔵國悲田処跡(むさしこくひでんしょあと)」という説明柱が、平安時代初期、ここに旅人の救護施設があったことを示している。
荒涼とした武蔵野を通る旅は困難で、旅人の中には、病気や飢えで倒れる者も多かった。
そこで、天長10(833)年、武蔵国府の下級役人6名が、自分たちの収入の一部を割いて、多摩と入間の郡境に食料や薬品を備えた家を建て、旅人たちを救いたいと申し出た。
こうしてできたのが「悲田処」というわけだ。
「武士の鑑(かがみ)」は、畠山重忠で決まりだとして、「役人の鑑」というものがもしあるのだとしたら、この6人は、まちがいなくその筆頭に置かれるべき人物だろう。
ロールモデルは大事だ。
標高90メートルの八国山を登っていく。
狭山丘陵の東端に位置し、かつてここからは、上野(吾嬬)、下野(日光)、常陸(筑波)、相模(箱根・大山)、駿河(富士)、伊豆(天城)、甲斐(多波)、信濃(浅間)の八ヵ国の山を望むことができたそうだ。
ここは、アニメ映画「となりのトトロ」に登場する「七国山」のモデルになった場所でもある。
辺り一面ブナ科の広葉樹に囲まれて、秋になれば、小径にトトロの好物のどんぐりが落ちていそうだった。
新田義貞軍と鎌倉方が戦った二番目の合戦「久米川の戦い」は、この八国山の南端で行われた。
義貞は、前夜に入間川のほとりで短い休息をとった後、にわかに進軍し、八国山の上で陣を張った。
その義貞が指揮をとったのが「将軍塚」と呼ばれる場所だ。
義貞軍はここから奇襲をかけ、鎌倉軍を撃破し、鎌倉方は、多摩川沿いの分倍河原まで後退する。
鎌倉街道を南へ向かって歩くことは、義貞軍の進軍ルートを辿ること。
その進軍スピードのすさまじさを実感できた。
5:10pm、今日のゴール、西武新宿線・東村山駅にたどり着いた。
西大家駅を8:00amに出発してからここまで、所要9時間、歩行数45,000歩、距離にして34.4km。
春の気候も安定し、心地良い歩き旅だった。
さあ、次はどんな人や景色に出会えるだろうか。
ますます鎌倉街道にのめり込んでいく自分を、微笑ましく思った。