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【第81回】みちびと紀行~鎌倉街道を往く(武士の鑑) みちびと紀行 【第81回】

男衾駅に着いた写真男衾駅に着いた
荒川沿いの道を行く写真荒川沿いの道を行く

8:23am、東武東上線・男衾駅(おぶすまえき)のホームに降り立った。
鎌倉街道歩き旅・第三日目のスタートだ。
天気予報は、終日「晴れ」。
今日3月20日は、東京で桜の開花が予想されている。
ここ埼玉県寄居町でも、桜は咲くだろうか。
荒川沿いの並木道、まだ芽吹かない樹々を眺めながら、桜の花を待ち遠しく思った。

渡河の目印、川越岩が今も残る写真渡河の目印、川越岩が今も残る
鎌倉街道の案内柱の写真鎌倉街道の案内柱

鎌倉街道の渡河地点だった浅瀬がある場所には、800年も昔の鎌倉武士が川を渡るときの目印とした、「川越岩(かわごしいわ)」が今も残っている。
街道はその先、アイリスオーヤマ埼玉工場のわきを通り、平安時代に創建された「普光寺(ふこうじ)」へと向かう。

関越自動車道の向こうに男体山が見える写真関越自動車道の向こうに男体山が見える
辺り一面、春の風景の写真辺り一面、春の風景だ

ここで一旦街道から外れて、「畠山重忠公史跡公園」へと寄り道をすることにした。
「武士の鑑(かがみ)」と言われた重忠。
その人物にゆかりの深い場所を外すわけにはいかない。
菜の花に彩られた春めいた道を行くと、遙か遠くに雪を抱いた山が見えた。
あれは確か、昨年中山道を歩いたとき、地元の人にその名を教えてもらった、日光の「男体山」だ。

参照:【第41回】みちびと紀行

畠山重忠公史跡公園、のぼり旗には「武蔵武士の鑑」の写真畠山重忠公史跡公園、のぼり旗には「武蔵武士の鑑」

「畠山重忠公史跡公園」に着いた。
この辺り一帯が「畠山庄」。
秩父から移ってきた重忠の父・重能(しげよし)は、ここに館を定め、以後「畠山氏」を名乗った。
ちなみに、この重能がいなければ、のちの木曾義仲はこの世にはいなかっただろうと言われている。
畠山重忠は、この場所で生まれた。
NHK大河ドラマの影響だろうか、バイクツーリングの青年や、マイカーで来た家族たちが、思い思いに園内をまわっていた。

畠山重忠公墓所の写真畠山重忠公墓所
中央の五輪塔が重忠公の墓だと伝わる写真中央の五輪塔が重忠公の墓だと伝わる

重忠の墓と伝えられている五輪塔に手を合わせながら、はたして「武士の鑑」とはどのような人物だったのだろうかと思いを馳せる。
剛勇にして文武両道に優れ、礼節の誉れ高く、情に厚い。そのうえ眉目秀麗、筋骨隆々の男前。
北条氏の謀略によって42歳にして散った身でありながら、その北条側の視点で記録された歴史書「吾妻鏡」でさえも、重忠は好ましく描かれている。
一の谷の合戦の「鵯越の逆落とし」では、愛馬「三日月」を労りつつ、背負って崖を降りた。
そんな逸話が残っていることが、彼が勇猛さと優しさを兼ね備え、愛された人物だったことの傍証だ。
重忠の人望が厚かったことは、北条氏にとっては、気が気ではなかっただろう。
放っておけば、いつかは「反北条」の旗印として担ぎ上げられることは必至。
かくして重忠は粛正された。
それは、皮肉にも、彼が正真正銘のヒーローだったからに違いない。

見よ!この勇姿を!の写真見よ!この勇姿を!

重忠が「武士の鑑」と言われ、死後も「ロールモデル」であり続けたことは、日本にとって幸運なことだった。
日本のサムライが、謀略家で無教養で残虐非道な人間だらけだったら、どれだけ民が苦しんだか知れない。高度な精神文化も生まれていなかっただろう。
それが、武士政権ができたてホヤホヤの時代、当然「武士道」という言葉すら無かった時代に、模範とすべき人物像が早々と登場したのだ。
「鑑(かがみ)」とは、ものの形をうつすもの、鏡に映した真の姿、手本、いましめ。
「吾妻鏡」は「東鑑」とも記される鎌倉初期の歴史書で、その名には「武士社会の教本」の意味もこめられていたのだろう。
北条本、吉川本、島津本と、その写本は戦国武将たちに読み継がれ、なかでも小田原北条氏の写本は、黒田官兵衛の手に渡り、後に徳川家に献上され、家康生涯の愛読書になったと言われている。
その「吾妻鏡」の中で、ヒーローとして描かれた畠山重忠。
彼の生き様・魂は、徳川家を通じて、後世の武士階級の心の中で生き続けていったはずだ。

畠山重忠公の菩提寺、満福寺の写真畠山重忠公の菩提寺、満福寺

史跡公園からさらに寄り道をして、畠山氏ゆかりの場所を訪れる。

井椋神社の写真井椋神社

重忠公が再興し、菩提寺とした「満福寺」や、重忠の祖父・重綱が、元々の在所の秩父から勧請した「井椋神社(いぐらじんじゃ)」を訪ねると、昔の人々がいかに祖先を敬い、「縦糸」のような系譜を大事にしてきたかが伺えた。
武家にとって、一族と所領は、やはり最優先事項なのだ。

鶯の瀬の写真鶯の瀬

井椋神社の裏手は荒川のほとりで、そこには「鶯の瀬」と呼ばれる浅瀬がある。
畠山重忠が、荒川の向こう側から帰る途中で豪雨に遭い、洪水で渡れないでいるときに、一羽のウグイスが鳴いて、この浅瀬を教えてくれたということだ。
確かにここだったら渡れそうな気がする。
川面から遙か遠くに目を移すと、男体山がくっきりと見えている。
重忠はこんな清々しい景色を見ていたのか。

散歩の男性が去っていく写真散歩の男性が去っていく

ちょうど散歩でやってきた男性がいたので、挨拶をすると、「やあ、どこから来たの」と会話が始まった。
鎌倉街道を歩いてここまで来たことを告げると、「あ、それ『いざ鎌倉』って言って使った道だろ?俺ぁ地元だけどそれしか知らなくて。畠山って言っても、実はあんまり知らねえんだ。馬を担いだってだけで。」
と、照れながら話している。
「でも街道歩けばいろんなことが頭に入ってくるんだろな。」
飾り気のない誠実な語り口が、この会話を楽しいものにした。
鎌倉街道を歩いているということで、僕のことを歴史研究家か教育者かと思っていたらしいので、こちらも正直に、「いえ、実はこれまで全く知らないことだらけで、いちいちスマホとか使って調べながら歩いているんです。いろいろ分かってくると楽しくて」と伝えると、
「それはいいねぇ。なんか楽しそうだなぁ。わけわかんねぇかもしれないけど楽しそうだ。俺も歩いてみようかな。」と言ってくれた。
自分の好きなことに興味を示してくれるというのは嬉しいものだ。
「では、気をつけて」と去っていく男性の後ろ姿を、にんまりとしながら見送った。
いつかどこかの街道で出会えたらいいな。

関越道の向こうに浅間山が見えた写真関越道の向こうに浅間山が見えた

鎌倉街道の道筋へと引き返す。
途中、関越自動車道をまたぐ道で、雪を被った浅間山が見えた。
昨年の今頃、中山道の深谷を歩いたとき、渋沢栄一の生家からも同じように真っ白な浅間山が見えた。
「武士の鑑」畠山重忠と、渋沢栄一は、同じ景色を見ていたのか。

参照:【第41回】みちびと紀行

普光寺境内横の鎌倉街道案内柱の写真普光寺境内横の鎌倉街道案内柱

「普光寺」に着いた。
「鎌倉街道上道」の案内柱が境内横に建っている。
かつて街道を通った旅人も、ここに参詣していたのだろう。

普光寺境内に集められた供養塔の写真普光寺境内に集められた供養塔

境内には、昭和54年に通路を造成する際に出土したという鎌倉時代の供養碑が集められてあった。
街道沿いを戦場にして戦った武士や、行き倒れになった旅人たちを供養したものだという。
街道で起こるできごとを見守り続けたお寺なのだ。

寄居町の指定天然記念物、塚田三嶋神社のヤブツバキの写真寄居町の指定天然記念物、塚田三嶋神社のヤブツバキ

普光寺から先、田園風景を眺めながら歩いていく。
塚田三嶋神社のヤブツバキが、散り落ちてなお美しい。
願わくば、こんなふうに人生を終えたいものだ。

鎌倉街道が続いていく写真鎌倉街道が続いていく
百万遍供養塔があった写真百万遍供養塔があった
柳澤家とゆかりの深い高蔵寺の写真柳澤家とゆかりの深い高蔵寺

「高蔵寺」という大きなお寺があった。
赤と白に塗られて、そんなに古そうには見えないが、戦国武将だった柳澤信俊が慶長年間に開いた寺ということだ。
信俊は、もともと武田信玄・勝頼に仕えた家臣で、柳澤家は「武川衆(むかわしゅう)」という、山梨県北杜市武川町あたりにいた武士団だった。
武田家の滅亡によって、お家を守る一世一代の決断が信俊にゆだねられ、彼は徳川家康に従うことに家運を賭けた。
以後、家康の関東入府とともに武蔵国鉢形領内に所領を得て、柳澤家は、関東に根を下ろす。
やがて時代は下り、この信俊の孫が、5代将軍徳川綱吉の時代に権勢をふるう。
元禄時代の立役者「柳澤吉保」だ。
武家の本分は、一族と所領が続くこと。
信俊もそのように思い、この寺の墓の下で子孫の繁栄を喜んでいるだろうか。

今市の子育て地蔵尊の写真今市の子育て地蔵尊
地蔵堂のよだれかけの写真地蔵堂のよだれかけ

高蔵寺のすぐ先、鎌倉街道が大きくカーブするところに、今市の地蔵尊があった。
地蔵堂の中には、像高3.1メートルの、室町時代に作られた木造の地蔵尊が安置され、地元では「子育て地蔵」として厚く信仰されているらしい。
お堂の格子窓に、色とりどりのよだれかけが括られている。
「どんな時も、人生を歩み、幸せに育ちますように」
一枚一枚に真心を込めて、親の願いが書かれている。
振り返って眺めると、よだれかけの集合体が、何かの芸術作品のように美しく尊く見えた。

四ッ山城へと続く道の写真四ッ山城へと続く道

時刻は12:30pm。
そろそろお腹が空いてきた。
辺りに飲食店が見あたらず、ちょうど地蔵堂の向かいにコンビニがあったので、そこで食料を調達することにした。
そういえば、これから向かう場所は、「四ッ山城」という山城だ。
山の上で食べたらさぞ気持ちよいだろう。
と、名案が浮かんだ。
行き当たりばったりの歩き旅だけれど、それでもうまくおさまるものだ。
おにぎりが入ったリュックを背負い、カーブを描きながら続く道を、春の陽光を浴びながら歩いていった。

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