【第124回】みちびと紀行~日光街道を往く(今市~日光市街) みちびと紀行 【第124回】
10月22日、土曜日、5:30am起床。
日光街道歩き旅の第5日目、そして最終日が始まる。
宿をチェックアウトして、電車で下今市駅へ。
そして、昨日の終了地点、小倉歩道橋へと歩いていく。
空気が澄んでいるせいか、日光連山がくっきりと見える。
あの山の中腹に、家康が眠っているのか………
いや、待てよ。
そういえば、彼はどこに眠っているのか。
「久能山に葬り、葬儀を増上寺で行い、位牌を大樹寺に納め、一周忌が過ぎてから日光山に小さな堂を建てて勧請せよ」
こう遺言した家康の魂は、いったいどこにあるのだろう。
6:40am、昨日の終了地点、小倉歩道橋に着いた。
昨晩、真っ暗な中を歩いてきた並木道の杉は、こんなにも大きかったのだ。
空に伸びる杉の梢を見上げながら進んでいくと、ほどなくして今市の追分が現れた。
「追分地蔵尊」を挟んで向こう側は、以前歩いた中山道の倉賀野宿を起点に、佐野・鹿沼を経由して延びてきた「日光例幣使街道」。
東照宮への供物を携え朝廷から派遣された勅使は、あちらの道を通ってきたのだ。
( 参照:【第95回】みちびと紀行 )
さて、今市宿に来たからには、やっておかなければならないことがある。
敬愛する二宮尊徳のお墓にお参りするのだ。
福島県の相馬街道を歩いたときには、尊徳の遺髪が納められているお墓に出会った。
(参照:【東北復幸漫歩第2回】みちびと紀行~相馬街道を往く)
そしてここ、尊徳終焉の地・今市では、報徳二宮神社の境内に、尊徳の亡骸が葬られている。
日本人の特筆すべき強みのひとつは、「与えられた『場』をより良くしよう」と努める精神だ。
「こうすればもっと便利なのに」「これを片付ければきれいになる」
社会を構成するほぼ全ての人が、こうした問題意識をもち、やがて知恵と工夫で、それぞれの持ち場を「できる範囲で」より良くしてしまう。
一挙に変革を求めるのではなく、今よりもベターなことを積み重ね、理想に近づける。
こうした「カイゼン」の実践は、元をたどれば二宮尊徳に行き着くのだ。
尊徳は晩年、幕府の命により、旧日光神領89ヶ村の復興事業を行う。
嘉永6年(1853)、ペリーが浦賀に来航した年から事業を始め、3年後の安政3年(1856)、その70年にわたる生涯を閉じた。
死期を悟った尊徳は、弟子たちにこう言い残す。
けれど尊徳の遺言は守られず、遺された人々は、ここに墓石を立て、社を建立し、尊徳を祭っている。
日光山に小さなお堂を建ててもらうはずだった家康の遺言はどこへやら、やがて壮麗な東照宮が作られたことと重なる。
死後のことは、故人の希望とは別に、遺された人々の思い次第。
尊徳の遺髪を納めたお墓が、彼を敬慕する相馬の人々のそばにあることも、日本のあちこちに家康を偲ぶ場所があることも、きっと根っこは同じ。
どんな形の墓であろうとも、どこに墓があろうとも、つまるところ故人は、遺された人々の思いの中で生き続けるのだ。
今市宿の大通りを歩いていく。古い街並みは残っていない。
というのも、戊辰戦争の際に、ここでは大規模な戦闘が行われ、街が焼失してしまったのだ。
日光例幣使街道、そして会津西街道とつながる今市は、戦略上の要衝で、官軍も幕府軍も、ここを押さえにかかった。
日光街道設計当初の想定通り、幕府軍は、会津西街道を通じて会津藩からの援軍を得た。
ただ、ひとつ違っていたことは、「敵は北からではなく西からやってきた」ということだったのだけれど。
今市宿の外れから、「日光杉並木街道」と名付けられた並木道が始まった。
ここからは、杉並木の「最終形」とでもいうべきか、まるでローマの柱廊のように道幅が狭まり、杉の巨木が左右から迫ってくる。
土曜日の今日は、ぞろぞろと人が列を成しているのではないかと若干心配していたが、杞憂に終わった。
一人静かに、杉並木の荘厳さを味わいながら歩いていく。
しばらく行くと、前方に人影が見えた。年輩の男性のようだ。
追いついて挨拶すると、男性は散歩の途中で、この先にある「だいや川公園」まで歩くのが日課なのだという。
「特に夏は、この並木道を歩くのが気持ちいいんです」
そう言って、ときどき杉の梢を見上げながら、リズミカルに歩いていく。
「それにしても、この杉並木は迫力がありますね。もしこの一本一本がほかの場所に単独で植わっていたとしても、そこはちょっとした名所になるでしょうね」
一緒に歩きながらそう言うと、うれしそうにこう話す。
「ええ、一本一本大切にされていますからね。ほら、木の幹に名札が見えるでしょう」
僕もそれが気になっていた。法人名だったり、個人の名前も多い。
「あれは杉並木オーナーといって、1千万円を預けると、杉の木の里親になれるのです」
聞けば、寄付とは違い、預けた1千万円は、必要な時にまるまる返してもらえるのだという。運営団体は預かったお金の運用益を杉並木の保全の費用に充てているのだ。
( 参照:日光杉並木オーナー制度 )
「ああ、それが砲弾打込杉です。あそこに弾痕が見えるでしょう」
男性が立ち止まって説明してくれる。
ここでは戊辰戦争の時に戦闘が開かれ、官軍から弾丸が撃ち込まれたのだそうだ。見るからに痛々しい。
この杉並木は、神君家康公に捧げられたものとして、伐ったり傷つけたりした者はかつて厳罰に処された。
けれど、250年間にわたって外様に甘んじてきた西の官軍にとってはそんな気遣いは無用。
ましてや体制の変革期は、古い伝統や価値観などは、たちまち反故にされてしまうのだ。
「それでは、お気をつけて」
男性が公園の方向へと去り、また一人になった。
しだいに勾配があがっていく道を静かに歩いていく。
ゴールが近づいている。
そう思うと、これまで辿ってきた道がいとおしい。
並木道はところどころ途切れ、車道と重なり出す。
やがて、杉並木の向こうに日光の市街地が見えてきた。
にぎわう人びとの気配。
ああ、ついにここまで来てしまった。
秋の土曜の行楽日和、どっと繰り出した人々にとまどいながら、東照宮の参道へと足を踏み出した。