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東北復幸漫歩~歩くことで見えるコト~

【東北復幸漫歩 第2回】みちびと紀行~相馬街道を往く 東北復幸漫歩~歩くことで見えるコト~

歩き旅 第一日目、相馬中村城を出発する

相馬中村城の水掘の写真相馬中村城の水掘

2021年3月15日、8:00am、スタート地点の中村城址に着いた。
ここは、260年間にわたって、相馬中村藩6万石の藩主の居城だった。
土塁と水掘が何重にも築かれて、見るからに堅固な城だ。
仮想敵だった伊達氏も、これを見れば迂闊に攻めるわけにはいかなかっただろう。
築城時にあった天守閣は、わずか59年後に落雷で焼失し、以後は再建されていない。
こういう話は全国各地にあり、天守閣への落雷は、たぶん日本の城の宿命なのだ。

相馬氏は、福島県の浜通り地域北部を、約740年間にわたって治めてきた名家で、薩摩の島津氏に並び、日本でも指折りの、歴史の古い領主だった。
関ヶ原の戦いを経た後も、そのままこの地の領主であり続け、名君と呼ばれる藩主を何人も輩出して善政が敷かれ、領民も、領主や藩政に敬意を払っていたようだ。
この相馬が、学問や文化、伝統芸能が栄えた地域であることが、何よりの証明だ。
僕はまだ実物を見たことはないけれど、「相馬野馬追」の伝統行事の規模の大きさと、それが千年以上にわたって催されていることから、この地域の人々の誇りと団結力を窺い知ることができる。

相馬中村神社の石段の写真相馬中村神社の石段
社殿にも、馬、馬、うま!の写真社殿にも、馬、馬、うま!

相馬街道を歩き始める前に、中村城址にある相馬中村神社に、旅の無事を祈願しようと、お参りすることにした。
参道には、「相馬」になぞらえているのか、躍動感のある馬のオブジェがずらりと並んでいる。
ひんやりとした空気をかきわけながら、急な石段を登っていくと、神々しい社殿にたどり着いた。
主祭神は、天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)、日本神話では世界の始まりに登場する神様だ。
相馬氏は代々、北極星を神格化した妙見菩薩を信仰しており、神道では天之御中主神が同一視されている。
二礼二拍手一礼すると、気持ちも整ってきた。
さてと、そろそろ歩き出そう。

相馬に生きる二宮尊徳の精神

中村城址にある尊徳の像の写真中村城址にある尊徳の像

まずは、ここから歩いて15分ほどの金蔵院地蔵堂をめざす。
ここには、二宮尊徳の墓がある。
墓といっても、その墓石の下にあるのは尊徳の遺髪で、二宮尊徳自身はこの相馬の地を踏んではいない。
彼がその人生をかけて系統立てた、「仕法」と呼ばれる藩財政改革・農村振興策は、彼の愛弟子によってこの地に根を張り、実績をあげた。
尊徳は、相馬では藩主から民衆に至るまで「二宮尊徳先生」と呼ばれるほど親しまれ、崇敬されているのだ。

相馬藩は、江戸後期に、天災や飢饉につぎつぎと見舞われ、特に天明の飢饉は深刻で、人口の3分の2が亡くなるほどだったという。
相馬藩の財政は、家臣や領民の救援のために藩の財宝を放出したため、逼迫していた。
そこで、第12代藩主相馬充胤(そうまみちたね)は、尊徳の復興策を「興国安民法」として藩の政策に採り入れた。相馬では、通称「御仕法」と呼ばれている。
その立役者となり、藩主に「仕法」を採用することを進言したのが、相馬藩士で、のちに二宮四大門人の中の一人となる富田高慶(とみたたかよし)だ。

高慶は、天明の飢饉の直後、なんとかこの惨状を解決する手立てはないかと、志を立てて江戸に上り、当初は儒学者の塾生となって猛勉強を始めた。年齢は17歳だった。
その学問期間中に、下野国(現在の栃木県)芳賀郡から来ていた門生から、二宮金次郎という者が、芳賀郡で農村振興策を行って実績をあげていることを教えられた。
「これぞ我が師」と、すぐさま意を決して書籍を売って金に換え、芳賀郡物井村に尊徳を訪ねる。
けれど尊徳は、能書きだけで実践しない人間は大嫌い。
「その典型が儒者だ」という先入観を持っていたのか、儒学を学んできた高慶に会おうともしない。
高慶もあきらめず、2km離れた隣村の農民の家に仮住まいし、数ヶ月間にわたって尊徳を訪ね続けた。
尊徳も、その真心に打たれて、ついには面会を許し、門人に加えた。
以降、尊徳は、この弟子に愛情を注ぎ、惜しみなく仕法の真髄を伝授する。
高慶も猛勉強して、やがて尊徳の一人娘、二宮文子を妻として伴い、相馬に帰国するのだ。

相馬仕法についての写真神田古書街で見つけた本、相馬仕法について詳しく書かれている

尊徳の「仕法」の特徴は、たとえれば、「最初は小さな歯車を回してこそ、大きな歯車も後から回るのだ」ということを、身近な実践を繰り返して証明することにある。
はじめは農民にもわかりやすく、納得できることで、しかもやりやすいものから手をつけていき、その成果を示して、賛同者、協力者を増やしていく。
その中で、技術力、資金力、なにより自信をつけさせ、やがて大事業につなげる。
まさに実践家、尊徳ならではの手法だ。

帰国後、高慶は、妻文子と、同じく尊徳の門人となった甥の斎藤高行とともに、仕法の普及につとめ、藩主相馬充胤や家老たちも、良き理解者として、終始支援した。
やがて領内のすみずみまで、実践を重視した「御仕法」が浸透していき、藩全体がまさに一丸となって復興に取り組む、強靭な精神風土が形成されていったのだ。

瓦屋根がくずれた民家の写真瓦屋根がくずれた民家をよく見かけた

中村神社を出て右方向へ、キョロキョロと歩いていくと、ところどころ民家の瓦屋根が崩れているのを見かけた。
体育館の屋根の点検をしている人たちがいたので、声をかけた。
「2月の地震で屋根が壊れたんです。ここにきてまた地震なんて。」
よそ者の僕に対して愛想よく話してくれるので、申し訳ない気持ちになった。
何度も何度も災害がやってくる。そして復興に力を尽くす。
それはこの地では、「御仕法」が行われた江戸後期にも、経験済みのことだったのだ。
「頑張ってください」なのか、「頑張りましょう」なのか、去りぎわのあいさつが、筋金入りの災害復興のプロに対して、不遜すぎる気がして定まらない。
結局、「お気をつけて」と言うしかなかった。
もっと気のきいた言葉が見つかればよかった。

金蔵院地蔵堂の写真地蔵堂も2月の地震で損傷があった

やがて金蔵院地蔵堂についた。
嫌な予感がしていたが、ここも2月の地震で損傷していた。
灯籠のてっぺんが石段の上にころげ落ちている。
気をつけて石段をのぼっていくと、その先に見えてきた。
二宮尊徳のお墓が、
崩れている…。

木の立て札の写真木の立て札だけ修復しておいた

どうにか直せないかなと思って、墓石をつかんで頑張ってはみたものの、普段の筋トレに手を抜いているせいか、びくともしない。
仕方がないので、根元から折れていた「二宮尊徳の墓」と書かれた木の立て札だけを、あれこれ工夫して立たせておいた。
僕の敬愛する二宮尊徳。
NHKに、「大河ドラマにしてくださいよ」と投書までした尊徳。
力が及ばず、すみません。
けれど、まずは、やりやすいところから手をつけるのが鉄則ですから、木の札だけで許してください。
と、念じながら手を合わせた。

JWA 健康ウォーキング指導士 みちびと マサヲ
筆:渡辺マサヲ
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