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【第122回】みちびと紀行~日光街道を往く(宇都宮~徳次郎) みちびと紀行 【第122回】

5:00am、起床。
温泉、サウナ、冷水浴を繰り返し、身体中の細胞が目覚めた。
日光街道歩き旅・第4日目が始まる。
さあ、歩き出そう。

宇都宮市街を流れる田川の写真宇都宮市街を流れる田川

ホテルをチェックアウトし、田川に沿って歩いていく。
昔から氾濫を繰り返してきた「暴れ川」だというが、今は穏やかに朝の宇都宮の街を流れている。
川がある街というのは、それだけで旅情をかきたてる。
きっとそれは、流れ行く水に、時の移り変わり、そして旅人の姿を重ねているからなのだ。

宇都宮二荒山神社に参拝の写真宇都宮二荒山神社に参拝

街の中心にある宇都宮二荒山神社(うつのみやふたあらやまじんじゃ)へと向かう。
もともと「宇都宮」とは「二荒山神社」の別名だ。
その名の由来には諸説あり、下野国一之宮の「いちのみや」がなまって「うつのみや」になったという説、日光から遷して祀ったことから「うつしのみや」と呼ばれたものが転じたという説、そして天皇に従わない者を「討つ」武神(豊城入彦命)を祀っていることからという説まである。
どれもそれらしく思えるが、「二荒山なくして宇都宮はない」ということは言えそうだ。
「二荒山(ふたあらやま、ふたらさん)」とは日光男体山の別名で、古来信仰の対象となってきた。
そして、「二荒」を音読みした地名が「日光」なのだ。

大通りに面した鳥居をくぐり、急な石段を登っていく。
朝の静寂の中での参拝、といきたいところだが、落ち葉を吹き飛ばす機械(「ブロワー」というらしい)がけたたましい音を立てている。
石段の上では、神主さんたちが、せっせと神事の準備。
何やらせわしなかった。

神事の準備中の写真神事の準備中

この神社の御祭神は「豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)」、東国平定のために派遣された崇神天皇の皇子だ。

参照:【第121回】みちびと紀行

以後、この神社には、東国を「鎮める」ためにやってきた代々の武将たちが祈りをささげてきた。
平将門の乱の平定に当たった、藤原秀郷、
前九年の役に参じた、源頼義・義家父子、
奥州藤原氏の征伐に向かった、源頼朝、
「奥州仕置」にやってきた、豊臣秀吉、
そして徳川家康……
家康が日光山に祀られるずっと以前から、ここは東日本を治めるための聖地だった。
日光東照宮へは、小山宿の先で「壬生道」を通って行く方が近い。
けれど、「東国の安定」という家康の遺志を引き継ぐためには、祭祀のことにおいても、この宇都宮を経由する必要があったのだ。

自転車通学の列の写真自転車通学の列

大通りから日光街道の入り口へと歩いていく。
途中から始まる上り坂をものともせず、通学の中高校生たちが自転車で走りすぎていく。
宇都宮宿の本陣があった場所は、脇道の大きな銀杏の木の辺り。
奥州街道と日光街道との追分も、その近くにあった。

宇都宮宿本陣跡に立つ大イチョウの写真宇都宮宿本陣跡に立つ大イチョウ
日光街道と奥州街道の追分の写真日光街道と奥州街道の追分
自動販売機の隣に「蒲生君平先生誕生之地」の碑の写真自動販売機の隣に「蒲生君平先生誕生之地」の碑

追分の脇には、「蒲生君平先生誕生之地」という石碑が建っている。
江戸中期に町人の子として生まれ、幼少期から祖先・蒲生氏郷に恥じない人になろうと学問に勤しんだ人物だ。
その勉学スタイルは、書物の中に埋もれるようなものではなく、実地見聞と実践を常とした。寛政7年(1795)にはロシア軍艦の出現を聞き、北辺防備の薄さを憂えて陸奥への旅に出かけ、寛政8年(1796)からは近畿地方へ赴き、天皇陵の調査を行なった。
なかでも特筆すべき彼の功績は、『山稜史 』を世に出したことだ。
当時荒廃しきっていた天皇陵(山稜)を調査したもので、彼の死後、文久2年(1862)に、これをもとに宇都宮藩の建議によって76ヶ所の天皇陵が修復されるに至った(「文久の修陵」)。
今、「これが天皇陵だ」と特定できるのも、「前方後円墳」という言葉があるのも、彼の功績なのだ。

蒲生君平が6歳から学び始めた延命院の写真蒲生君平が6歳から学び始めた延命院

蒲生君平は、林子平、高山彦九郎とともに「寛政の三奇人 」と呼ばれた。
誰がそう言い始めたのかは知らないが、興味深いのは次のことだ。
『海国兵談』を著し海防論を唱えた林子平は、「尊皇」には行き着かなかった。
京都三条大橋の東端で、御所に向かって平伏する銅像で有名な高山彦九郎は、明確な「対外危機意識」を持っていなかった。
それが、林よりも30歳、高山よりも20歳若い蒲生君平に至って、ようやく「海防論」と「尊王論」が一人の人物に合流するのだ。
そもそもなぜ、この二つの思想が「尊王攘夷」と一括りになるのか?
そのヒントが、この蒲生君平にはある。
外部から呑み込まれる脅威を意識することと、己は何者かと自身のアイデンティティに目覚めることは、きっとどこかで繋がっているのだ。

桂林寺にある蒲生君平の墓の写真桂林寺にある蒲生君平の墓

清住町通りは朝の渋滞中の写真清住町通りは朝の渋滞中
宇都宮で初めて見た「日光街道」の標識の写真宇都宮で初めて見た「日光街道」の標識
松原交差点から日光街道を望む写真松原交差点から日光街道を望む

渋滞する車の横をすり抜け、松原の交差点で国道119号線に出た。
そこにあるのは「日光街道」の標識。もはや「東京街道」ではない。
ここから先は、宇都宮市民も認める、日光へと向かう街道なのだ。

参照:【第121回】みちびと紀行

杉並木が始まった写真杉並木が始まった

いよいよ、日光街道の代名詞、杉並木の道がはじまった。
ただし、両側に杉並木を目にして進むのは、人ではなく車。
人間は中央の平らな道ではなく、杉の大木の根が張る凹凸のある側道を進んでいく。
まあ、それも一興。

上戸祭の一里塚の写真上戸祭の一里塚

光明寺に立ち寄る写真光明寺に立ち寄る
12代目の静桜の写真12代目の静桜

途中、光明寺 というお寺があった。
この寺には、源義経を慕って奥州へと向かう静御前が立ち寄り、守り本尊の薬師如来を土中に埋め塚を築き、携えていた桜の杖をさして武運を祈ったという。
のちに、その杖から桜が芽吹き、「静桜」として信仰を集めるに至った。現在の桜は、その12代目ということだ。
栗橋駅のそばにあった静御前の墓を思い出す。
こうしてこの街道沿いに足跡がいくつも残っているということは、やはり彼女は、義経を追って京都から歩いてきたのだ。
彼女がどこまで北上したのかについては、多少食い違いがあるけれど。

参照:【第118回】みちびと紀行

面白そうな場所!の写真面白そうな場所!

光明寺を出て、その山門のわきの掲示に目がいった。
「若竹の杜 若山農場」、いったいなんだろう、これは?
案内にあったQRコードで調べると、なにやら面白そうだ。よし、寄り道しよう。

「若竹の杜」の入り口の写真「若竹の杜」の入り口

光明寺から10分ほど歩き、若山農場の「若竹の杜」に着いた。
入場料を支払った際にもらったリーフレットには、おおよそ次のようなことが書かれている。

若山家がここに入植したのは、江戸初期の寛文10年のこと。
当時この地には水がなく米作に適さなかったので、他の作物栽培に代々取り組んだ。
今より3代前の当主の頃、今日の若山農場の礎となるタケ(筍)とクリの栽培に至る。
24ヘクタール(東京ドーム5個分)の圃場には、竹林と栗園が広がっている。

けれど、ここの売りは農産物にとどまらず、その「景観」や「体験」にまで及ぶようだ。
「孟宗竹の林の中では、市川海老蔵の『おーいお茶』や中井貴一の『ミキプルーン』のCM。その先の、もう少し明るい色をした金明孟宗竹の林では、『るろうに剣心』や『キングダム』の撮影が行われました」
係の女性の説明に、期待がふくらむ。
どれ、入ってみるか。

参照:「若竹の杜」HP

竹林の道が始まった写真竹林の道が始まった
この孟宗竹の林の中で数々のCMが撮影された写真この孟宗竹の林の中で数々のCMが撮影された
幾何学的な美しさの写真幾何学的な美しさ
『るろうに剣心』の撮影が行われたという金明孟宗竹の林の写真『るろうに剣心』の撮影が行われたという金明孟宗竹の林
タープが張ってある写真タープが張ってある

広大な栗園を抜けると、竹林の道が始まった。林というよりも森だ。
竹林の美しさについては、京都の嵐山になんども行ったので知っているつもりだった。
けれど、竹の森の中に吸い込まれそうになるこの感覚は、初めてのものだ。
前後左右、そして上方。
直線から成る幾何学模様の異世界に迷い込んだようで、ゾクゾクする。
約30分の散策を終え、「若竹の杜」を出てからも、しばらくその余韻が続いた。
グゥー………。
突然、現実的な感覚が走る。胃袋は正直だ。
さあ、どこかで腹ごしらえ。
炊きたてのご飯をイメージしながら、凸凹の杉並木の道を歩いていった。

ここで野宿ができるらしい写真ここで野宿ができるらしい

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