1. HOME
  2. みちびと紀行
  3. 【第118回】みちびと紀行~日光街道を往く(杉戸~古河)

【第118回】みちびと紀行~日光街道を往く(杉戸~古河) みちびと紀行 【第118回】

幸手市に入る写真幸手市に入る

国道4号線をひたすら歩いていく。
飲食チェーン店のポール看板は、次から次へと、幸手市に入ってからもまだまだ現れ続ける。
人が外に出て行き来しなければ、外食産業は成り立たない。
とすれば、飲食店の数は、社会の活力を示す有効な指標なのかもしれない。

飲食チェーンの世界シェア・ランキングは、1位スターバックス、2位マクドナルド、3位サブウェイなのだそうだ。

参照:deallabのHP、2023年の記事より

日系企業では、「すき家」を展開する「ゼンショー」が6位でようやく顔を出す。
米国の外食産業の規模には圧倒される。
けれど、日本の外食のレベルの高さは、接客の良さも含めて海外ではますます知られるところとなっているから、この先日系企業も世界を相手に善戦するのだろう。
あの広大な米国大陸で、モータリゼーションの発達とともに米国の外食文化が形成されてきたことを思うと、翻って日本の外食文化を形作ったものとは、いったい何だったのだろう。
接客という観点で、チップの習慣がないということは、日本では食事の提供と接客は一体のものと考えられていたはずだ。
であるならば、宿場で旅人をもてなし、ときに客の取り合いで店同士、宿場同士がしのぎを削った「街道文化」、特に現代の旅館の原型となった「旅籠」にそのルーツがあるのかもしれない。
そんなことを思いながら、騒々しい国道を歩き続けた。

日光御成道との合流地点、右が御成道、左が日光街道の写真日光御成道との合流地点、右が御成道、左が日光街道

やがて旧日光街道は国道から外れ、あたりは静かになった。
田畑の広がる道を進んだ先は、街道の分岐点。
左手、西側から「日光御成道(にっこうおなりみち)」が現れた。
日光御成道は、中山道の本郷追分から、岩渕、川口、鳩ヶ谷、岩槻を経て、幸手宿手前のこの場所で日光街道に合流する。
別名を「岩槻街道」と言い、その前身は、古都鎌倉から古河(こが)まで続いていた「鎌倉街道・中道(なかつみち)」だ。
第三代将軍家光のときに整備され、以後徳川将軍家は、この道を使って日光社参をするようになる。
将軍家は3泊4日で日光入りしていたが、日光街道の宿場町で泊まるには、行列の規模の点でも護衛の点でも、はなはだ心もとなかった。
そこで将軍は、既存の城に泊まることにする。
1泊目は岩槻城、2泊目は古河城、3泊目は宇都宮城、最終日は日光山へ。
日光街道から外れていたのは、このうち岩槻城のみ。
その岩槻を経由するルートが、御成道というわけだ。
ゴールへの道はひとつではない。
そのことが、街道歩きを面白く味わい深いものにしている。

幸手宿の街並みの写真幸手宿の街並み
明治天皇行在所跡の写真明治天皇行在所跡
幸手宿本陣跡の写真幸手宿本陣跡

日本橋から6番目の宿場町、幸手宿に入った。 もともとは古河公方の家老、一色氏が治めた土地だったが、江戸期以後は幕府の直轄領となり、交通の要衝として栄えた。
街道沿いには、八代将軍吉宗が日光社参の際に昼食をとった寺や、明治天皇が宿泊した行在所跡が残され、宿場の雰囲気が今も漂っている。
街灯にあしらわれた桜のデザインは、この近辺に桜の名所があることを示しているのだろう。

権現堂堤の桜並木の写真権現堂堤の桜並木

幸手宿を出ると、再び交通の激しい国道4号線に合流した。
ため息をついたのもつかの間、やがて広大な駐車場の向こうに「権現堂堤」が見えてきて心が躍る。
あそこに登れば、美しい風景が広がっているに違いない。
騒々しい道から逃れるように、長々と横たわる堤防へと向かっていった。

土手の上は桜の並木道。
土手を降りると、広い畑が広がり、その一隅でヤギが草を食んでいた。
この辺りはかつて、利根川の氾濫にたびたび見舞われた場所だという。
もしこの堤防が決壊すれば、大江戸八百八町の半分が水浸しになる。
代々そう言い伝えられてきたそうで、堤防の建設・補強が長年にわたって行われてきた。

江戸期を通じた利根川の流れとの戦いも、明治期になってようやく落ち着き、大正9年からは堤防の上に桜の植樹が始まった。
全盛期では6kmにわたって約3千本の桜があったらしく、やがて権現堂堤は桜の名所として知られるようになる。
昭和7年には、東武浅草駅から幸手駅まで、桜見物のための臨時列車が運行されるほどのにぎわいを見せたそうだ。

菜の花畑の写真菜の花畑
春の権現堂堤(出典:幸手市観光協会HP)の写真春の権現堂堤(出典:幸手市観光協会HP)

そして戦争が訪れる。
戦時中でも桜並木は大切にされ、花見も行われていた。
しかし、昭和20年の日本の敗戦とともに、桜の木は進駐軍によってことごとく伐採されてしまった。
同様の話は、世田谷の桜新町、京都府立植物園、高知の牧野植物園などあちこちに残っている。
GHQ本部から、ある時期に統一的な指令が出たのかもしれない。

けれど、日本人はそこで屈服はしなかった。
まだ占領下にあった昭和24年、当時の幸手町長・栗田亀造氏と公民館の職員が、桜を植え始める。
こつこつと植えられた3千本の苗木は1kmにわたり、そのうち残った3分の1が、今見る桜並木として、毎年花を咲かせている。
土堤も桜並木も、ここにある風景は、この土地の人間の不屈の精神によって造り上げられたものだったのだ。

中川を渡る写真中川を渡る

権現堂堤を振り返りながら中川を渡る。
橋のたもとで旧日光街道は左へと外れ、のどかな道に変わっていった。
筑波道との追分に立つ石碑、瓦屋根の古民家、田んぼの間を抜ける道。
初めて来たのに懐かしく感じるのは、それが特定の場所の景色ではなく、かつてどこでも見かけたことのある、ひとつの「時代の風景」だからなのだろう。
しみじみと歩き続けるうちに、日がだんだん傾いてきた。

左、日光街道、右、筑波道の写真左、日光街道、右、筑波道
追分の道標の写真追分の道標
なつかしい風景の写真なつかしい風景

日が傾いてきた写真日が傾いてきた

東北新幹線が横切る写真東北新幹線が横切る

静御前の墓の写真静御前の墓

時刻は4:00pm、7番目の宿場町、栗橋宿に入った。
JR栗橋駅の前に静御前の墓があるということで、街道から少し外れるが行ってみることにした。
入り組んだ住宅街を抜けてたどり着くと、駅前なのにひっそりと、彼女の墓が現れた。
ここに、なぜ?
静御前の死の経緯・場所については諸説ある。
ここでは、以下のような話が伝わっている。

義経と別れた静御前は、一旦鎌倉に連行され、その後は京都に戻っていた。
そこに義経一行が平泉に行ったという消息がもたらされる。
急ぎ義経を追って平泉へと向かう静御前。
どこをどう辿ったのか、この先の古河まで行ったところで義経の死を知る。
泣く泣く京都に戻ることにした静御前。
しかし彼女にもう生きる力は残っていなかったのか、病を得てこの地で没したということだ。

京都からここまでの道のりが、彼女の愛情の深さを思わせる。
一途な愛、純粋な心は、時代を超えて胸を打つ。
そしてその心に共感できるということは、「今も昔も人間の本質は変わらない」ということの証しでもある。

お気に入りのドリンクで充電の写真お気に入りのドリンクで充電

いよいよ辺りが暗くなってきた。
梅酢ドリンクを買ってごくごく飲み干し、早足モードで古河宿へと急ぐ。
もう芭蕉たちの足取りに追いつこうなどとは思わないことにした。
彼らの健脚ぶりには脱帽だ。

栗橋関所跡の写真栗橋関所跡

栗橋の関所跡にたどり着いたのはちょうど5:00pm、小学生の下校を知らせる放送が町に響き渡る頃だった。
「板東太郎」と呼ばれ、この広大な関東平野を作った大河川・利根川は、もう目と鼻の先だ。
江戸幕府は、防衛上の理由で利根川に橋を架けず、旅人はこの関所を通った後、船で向こう岸へと渡っていた。

さらば埼玉県!の写真さらば埼玉県!

利根川橋を渡っていく。
橋のすぐ上流は、利根川と渡良瀬川の合流地点。
長い長い年月を経て、利根川の主流はこの場所へと導かれた。
自然と人との戦いを思いながら、橋の上から暮れていく夕空を眺めていた。

胸に染みる風景の写真胸に染みる風景

すっかり暗くなってしまった写真すっかり暗くなってしまった
復元中の中田の松原の写真復元中の中田の松原

向こう岸に渡る頃には、辺りはすっかり暗くなってしまった。
幸い歩道がきちんと確保され、街灯に照らされて明るい。
リュックから懐中電灯を取り出すには及ばない。
古河にとった今晩の宿を目指して、黙々と歩いていく。

古河公方公園に立ち寄る写真古河公方公園に立ち寄る

「中田の松原」を抜けたところで、決断を迫られた。
このまま日光街道を歩き続けて古河の宿にたどり着くか、はたまた迂回して「古河公方公園」に寄って行くべきか。
室町から戦国時代にかけて、一大勢力を築いた古河公方の拠点にはぜひ行ってみたい。
けれど行ったところで、おそらく暗くて何も見えないだろう。宿にも早く着きたい。
さんざん迷った末、古河公方公園へと方向転換した。
迷ったときは、とりあえずやる(行く)。
それが僕の経験から導き出された流儀なのだから。

懐中電灯を灯しながら進む写真懐中電灯を灯しながら進む

古河公方公園の中に入っていく。
まあ、行ったら行ったで何とかなるだろう。
と、たかをくくって足を踏み入れてはみたものの、しゃれにならないくらい真っ暗だ。
ここで、ついに懐中電灯の登場。
ライトで照らしながら、ゆっくりと進んでいく。
目指すは最後の古河公方、足利義氏の墓所だ。

最後の古河公方・足利義氏の墓所の写真最後の古河公方・足利義氏の墓所

はてさて、今どこにいるのだろう。
真っ暗な公園の中で一人さまよっているうちに、事態は肝だめしの様相を呈してきた。
同じ場所をぐるぐる歩いているようで、身震いしていると・・・
あった!
照らし出された石碑には「史跡・古河公方足利義氏墓所」の文字。
その先にあるのが墓石なのだろう。
もうここで十分。ここには日を改めてまた来ることにしよう。
眠りを邪魔してすみませんでした。
と、向こうの墓石に遠くから手を合わせて、早々に立ち去った。

古河宿に入った写真古河宿に入った

心臓の鼓動がようやく落ち着き、日光街道へと戻っていく。
街の灯りが温かい。
時刻は7:00pm、ついに今晩の宿、「津賀屋」さんにたどり着いた。
「お待ちしてましたよ」
にこやかにご主人に迎えられて、心が安らいだ。
もう安心だ。今日はここでぐっすり眠れる。
旅人はこうして、その日その日の宿に癒される。
訪日外国人が絶賛する日本の接客文化は、きっとこうした旅から生まれ、数々の一期一会を通して磨かれてきたものにちがいない。

北越谷駅からここまで所要12時間半、歩行数67,000歩、距離にして51km。
日光街道歩き第2日目の夜は、こうして古河宿で静かに更けていった。

ページトップ