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【第94回】みちびと紀行~鎌倉街道を往く(旅のゴール) みちびと紀行 【第94回】

若々しいシニアの方の写真若々しいシニアの方
昼下がりの犬の散歩の写真昼下がりの犬の散歩
子どものキャッキャ言う声が聞こえる写真子どものキャッキャ言う声が聞こえる
梶原景時の本拠地、鎌倉のすぐ近くということは、それだけ信頼されていたということかの写真梶原景時の本拠地、鎌倉のすぐ近くということは、それだけ信頼されていたということか
男と女の写真男と女

鎌倉中央公園を出て、源氏山へと歩いていく。
休日の鎌倉であっても、市街地から外れているせいか、観光客はいない。
2本のポールを使って坂を上っていくシニア、犬と散歩する男性、ベビーカートをのぞき込む若夫婦、東屋でまどろむ男女・・・。
皆、このあたりの住人らしく、ゆったりとした時を楽しんでいた。

葛原岡神社の写真葛原岡神社
日野俊基の墓の写真日野俊基の墓

1:50pm、たどり着いた源氏山公園は、観光客でにぎわっていた。
どういう御利益でアピールしているのか、葛原岡神社には、若い男女が続々と参拝している。
この神社の歴史は意外に浅く、創建は明治21年、明治天皇の思し召しで、地元有志の人々と、全国の崇敬者の協力で建てられたとのこと。
祀られているのは公家の日野俊基。後醍醐天皇を奉り、「建武の中興」を企てた忠臣だ。
不幸にもその計画が未然に発覚して捕らえられ、最後の執権・北条高時の命令で、この場所で斬首されたという。
俊基の墓は、神社の鳥居から50mほど離れた小高い丘にひっそりとあった。

秋を待たで 葛原岡に消ゆる身の 
露のうらみや 世に残るらん

恨みをこの世に残していったことが、辞世の句からありありとわかる。
明治天皇もそれをご覧になり、神社を建てさせたに違いない。
俊基が崇敬し守ろうとした皇統は、死して550年経った今でも確かに続いている。
そのことが俊基の魂への、何よりの慰めとなっていることだろう。

源氏山公園を頼朝像のある方向へと歩く写真源氏山公園を頼朝像のある方向へと歩く
はるばるここまで参りましたよ、頼朝公の写真はるばるここまで参りましたよ、頼朝公

尾根筋を通っていくと、小さな広場の一段高い場所に、武者姿の頼朝像が現れた。
昭和55(1980)年に、頼朝の鎌倉入り800年を記念して建てられたものだそうだ。
歴史上の人物を形にするとき、製作者はどんな準備をし、どういう心構えでのぞむものなのだろう。
鎧は着ていても荒々しさはなく、都びとのような品の良さ、そして武家の棟梁としての威厳と人徳を湛えている。
こういう人物でなければ、それぞれの事情を抱えた一癖も二癖もある東国武士団を束ね、朝廷と渡り合うことなどできなかっただろう。
頼朝の姿は、たぶんこうだったのだ。

化粧坂の上から下をのぞき込む写真化粧坂の上から下をのぞき込む
これから化粧坂を登っていくグループの写真これから化粧坂を登っていくグループ

化粧坂(けわいざか)を下る。
要塞都市・鎌倉に入るには、「鎌倉七口」と呼ばれる七つの切り通しのいずれかを通らなければならない。
新田義貞軍は、鎌倉に進入する際に、軍勢を三つに分け、巨福呂坂、極楽寺坂、そしてこの化粧坂から侵入を試みた。
義貞率いる主力軍は、当初、この化粧坂から侵入を図ったが、破ることはできなかった。
鎌倉方の守りが固かったということもあろうが、この自然の要害を突破することが何よりも難しかったのだろう。
思いのほか急で、滑りやすい。「坂」というよりは「崖」だ。
はたして、馬がここを下りることはできるのか?
義経の「鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし」とは言わないまでも、攻め入るのにどれほどの勇気を必要としたことか。
岩肌が濡れ、ツルツルする道を慎重に下っていくと、下方から化粧坂をこれから上がってくる男女の一団がやってきた。
怪我のないことを祈りつつ、馬のひずめのようにヒールを鳴らしながら上っていく女性を見送った。

頼朝と政子の第一子・大姫を供養する岩船地蔵堂の写真頼朝と政子の第一子・大姫を供養する岩船地蔵堂

化粧坂を下って平地に降り立った。
落ち着きのある住宅街に、ちらほらと現れるしゃれた構えの店。
静寂に満ちた鎌倉仏教のお寺の前には、人力車を引いて行き交う真っ黒に日焼けした青年たち。
静と動、静けさと賑やかさが調和した、健康的な街並みがそこにあった。

寿福寺に参拝の写真寿福寺に参拝

寿福寺に着いた。
頼朝が没した翌年の正治2(1200)年、宋から日本に臨済宗とお茶を持ち込んだ栄西禅師を招いて、北条政子が開基したお寺だ。
ここには、政子とその息子、三代将軍・実朝の墓がある。
訪れる人は意外に少なく、静かな参道を通って裏手の墓地へと向かった。

源実朝の墓、内壁面が唐草模様の写真源実朝の墓、内壁面が唐草模様
北条政子の墓の写真北条政子の墓

墓地には、「やぐら」と呼ばれる死者の供養のための石窟が幾つもあり、その中の一つが政子、一つが実朝の墓だと言われている。
中には五輪塔がぽつんとあるだけ。
大きな権力を握った人物の墓とは思えぬほど質素なもので、それを見てなぜかホッとした。
死してようやく、権力や権謀術数とは無縁の「人並みの」暮らしに戻ることができる。
それが二人にとっての救いのように思えた。

撮影スポットの順番待ちの写真撮影スポットの順番待ち
JR横須賀線を越えて、鎌倉中心部への写真JR横須賀線を越えて、鎌倉中心部へ

9日間に及んだ鎌倉街道歩き。
いよいよ、ゴールの鶴岡八幡宮が姿を現すだろう。
踏切待ちの人力車の後に付いて、その場所へと向かっていく。

鶴岡八幡宮は、人、ひと、ヒトの写真鶴岡八幡宮は、人、ひと、ヒト

横大路の角を曲がったとたん、人混みに圧倒された。
鶴岡八幡宮の参道は人の渦だ。
頭がクラクラする。
前を行く人に歩調を合わせ、じりじり進んでいくうちに、冷や汗が吹き出てきた。
「我慢、がまん、拝殿に参拝してゴールだ」と自分に言い聞かせる。
けれど、石段を登っている途中で、居ても立ってもいられない心持ちになり、意を決して離脱してしまった。
人酔いしたせいだけではない。
ここをゴールにしてはいけない。そんな気分にさせられたからだった。

この歩き旅で頼りにしたガイドブック。とても使いやすかった。写真
この歩き旅で頼りにしたガイドブック。とても使いやすかった。

そういえば、僕はいつから鶴岡八幡宮をゴールと定めてきたのだろう。
思い返せば、深い理由などなかったのだ。
明らかなことは、僕がこれまで歩いてきた鎌倉街道・上道のゴールに、今日の鶴岡八幡宮はふさわしくない、ということだった。

街道旅を楽しむ人は、ゴールにたどり着くことと同じくらい、いや、それ以上に、そこに至るまでの過程を大切にしている。
歩き旅の醍醐味は、まさに「道中」、道の途中にある。
その道中の楽しさは、目的地があってこそ高められ、持続する。
けれど、その道中の経験、心の変化によって、ゴールが変わることもあり得るのだ。

思えば、これまで歩いた街道では、ゴールは自然に定まっていた。
東海道だったら、日本橋からスタートすれば、ゴールは三条大橋。
下田街道は、下田港から北上すれば、終点は三島大社で決まり。

参照:【第64回】みちびと紀行

自分を「塩」に見立てて歩いた東北の「塩の道」・相馬街道の場合は、塩田があった松川浦から、塩荷の届け先だった内陸の二本松を目指した。

参照:【東北復幸漫歩】みちびと紀行

これまですんなりと終点の場所を定め、達成感に満たされながらゴールインしたのに、今回はどうしたことだろう。
どこへ行けばこの旅を終えられるのだろう。

大蔵幕府跡、ここで政治が執り行なわれていた写真大蔵幕府跡、ここで政治が執り行なわれていた

この旅のゴールとしてふさわしそうな場所へと、心のまま、足の向くまま歩いていく。

「大蔵幕府跡」に着いた。
今、そこには小学校がある。
鎌倉時代が幕開けした時には、ここに幕府が置かれ、政治を執り行っていた。
ここであれば、鶴岡八幡宮よりもゴールにふさわしいような気がする。
「いざ鎌倉!」と坂東武者たちが馳せ参じたのは、この場所だったはずだから。
けれど、この場所で終われそうにない。僕の心が「違う」と言っている。

頼朝の墓の写真頼朝の墓

源頼朝の墓へと向かう。
大蔵幕府跡から山側へと、通りをまっすぐに行った突き当たりにその墓はあった。
鎌倉時代を切り拓いた人物の墓は、ゴールとして申し分ないだろう。
鎌倉街道・上道を整備したのは、確かに頼朝の命令だったから。
石段を上った先の頼朝の墓前には、観光客がびっしり。
ちょうど人力車の若者が、「このお墓はね」と、子どもに説明しているところだった。
ここではないな、ゴールは。

腹切やぐらへと向かう写真腹切やぐらへと向かう

時刻は4:15pm。
ほかにどこへ行けば良いのだろう。
公園のベンチに座り、スマホのGoogle Mapを丹念に調べていく。
おや?ここは?
「北条高時腹切やぐら」という地点に目が留まった。
ここだ!
僕の直感が、ここをゴールにせよ、と言っていた。

東勝寺跡は草木のみの写真東勝寺跡は草木のみ

腹切やぐらへと歩いていく。
静かな路地に入り、人影を見かけなくなった。
この先にかつてあった「東勝寺」は、北条一族の菩提寺のひとつだった。
義貞軍に攻め入られた際には、北条高時以下、一族・家臣がここに立て籠もり、自ら火を放ったそうだ。

腹切やぐらへの道は、崩落の危険から通行止めの写真腹切やぐらへの道は、崩落の危険から通行止め

目指す「腹切やぐら」は、東勝寺跡の突き当たりにあった。
鎌倉幕府の滅亡の時に自刃した、北条氏一族郎党870余名の墓所とされている。
ここが、ゴールだ。
崩落の危険があるということで、ロープが張られた先には行けなかったけれど、ここで十分。
僕の心は満たされている。
この鎌倉の「動脈」として機能した街道は、最期にその路上に義貞軍を進軍させ、ひとつの時代の役割を終えたのだ。
やぐらのある方角へと深く一礼し、手を合わせた。
さあ、帰ろう。

家路への写真家路へ

5:07pm、帰路につく観光客で満員となった、JR湘南新宿ラインに乗り込む。
9日間に及んだ鎌倉街道歩きの旅は、総歩行数395,900歩、距離にして303.5km。
また一つの旅が終わった。
「旅の終わり方」
車窓を走り去る風景を眺めながら考えていたのは、ずっとそのことだった。

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