1. HOME
  2. 東北復幸漫歩~歩くことで見えるコト~
  3. 【東北復幸漫歩 第1回】みちびと紀行~相馬街道を往く
東北復幸漫歩~歩くことで見えるコト~

【東北復幸漫歩 第1回】みちびと紀行~相馬街道を往く 東北復幸漫歩~歩くことで見えるコト~

街道を歩く。
この行為ほど、その土地の風土・文化・生活の理解を助けてくれるものはない。
その暮らしを作ってきた人々と同じ歩幅、同じ目線で歩いてみる。
ずっと昔から、人々が行き交った街道をたどる。
道すじ、距離、休みどころ、街道が運んだもの、それぞれの意味を確かめながら。
その積み重ねられた歴史が、今の暮らしをつくっている。

旅の構想

「塩の道」の標識の写真峠道に「塩の道」の標識が残されていた

2021年3月、僕は、相馬から二本松につながる街道を踏破しようと考えた。
この街道は、「相馬街道」あるいは「奥州西街道」と呼ばれている。地元では「塩の道」の方が通りが良いのかもしれない。
かつてはこの街道を通って、相馬の沿岸でつくった塩が、馬の背に載せられ、山々を越え、内陸の二本松まで運ばれていった。
僕は、自分をこの「塩」に見立てて、相馬から二本松まで歩こうと思い立ったのだ。

相馬街道は、あまり知られてはいない。
ルートマップも無さそうだ。少なくとも、ネットの検索には引っかからなかった。
知らない街道を歩くには、それなりの準備がいる。まずは情報集めだ。
国立国会図書館のオンライン検索で探してみたら、見つかった。
1983年に福島県教育委員会が調査したレポート、「相馬街道(奥州西街道)中村ー本宮」が所蔵されていたのだ。

街道の面影の写真街道の面影が今も残る

相馬街道は、江戸期に相馬藩が、隣の二本松藩に話を持ちかけて、その協力を得て開発した道らしい。
目的は主に2つ。
1つ目は、参勤交代の際のショートカットをするためだ。
相馬藩主は、江戸に向かうときは、水戸を経由する奥州浜街道を使い、帰路は、別ルートで奥州道中(奥州街道)を北上してから、右方向に折れて、この相馬街道を通って自国に戻った。こちらの方が3里(約12km)ほど近道だったようだ。加えて、現代の僕らと同じように、行きと帰りで同じ道をたどるのはつまらないという思いもあっただろうか。
2つ目は、相馬の物産を内陸の藩に運んで交易するためだ。
相馬藩で生産される海塩は、相馬藩の財政の半分を担っていた。行き先は二本松、そしてさらに奥地の会津にまで至っていたらしい。塩ばかりでなく、相馬で水揚げされる海産物や、主に台所で使われた特産の陶器(相馬焼)も運ばれていった。

月日の経過とともに、やがて、この街道の利用が増えていく。
相馬藩には、原釜港から江戸や蝦夷地までの航路があり、廻船問屋があった。
二本松藩は、米を相馬街道経由で運ぶことにして、廻船で江戸に送った。
冬季には、この街道を通って会津の屋根葺き職人が相馬に出稼ぎにやってきて、帰りには、海産物を背にして帰っていった。
相馬野馬追が行われるころには、その見物のために、内陸からこの街道を人々が通っていった。おそらく皆んなで民謡を歌いながら、ウキウキと出かけていったのではないだろうか。
そんなエピソードを知るごとに、僕はすでにこの街道を旅しているようなワクワク感に浸っていった。

Googleでルートマップ作りの写真Googleでルートマップ作り

相馬街道のだいたいのルートは以下の通りだとわかった。

相馬中村城 → 上栃窪 → 助け観音 → 八木沢峠 → 関沢 → 飯樋 → 山木屋 → 上戸沢 → 白髭 → 小浜 → 大平 → 二本松

今の福島県の行政区分でいえば、相馬市 → 南相馬市 → 飯舘村 → 川俣町 → 二本松市、となる。
これらの地名をGoogleマップでつなげれば、いちおうルートマップができるわけだ。

こうしてできたルートマップによれば、歩行距離は77.7km、所要時間は16時間53分。
さすがに通しでいっぺんに歩くのはしんどいので、中間地点、ちょうど飯舘村役場の周辺で宿泊先を探したところ、一軒、「宿泊体験館きこり」という飯舘村の施設に宿泊できることがわかった。
相馬街道のルートと思しきところからは外れているが、まあいいか。
これで、とにかく旅の構想ができあがった。
1日目は、相馬中村城を出発して、八木沢峠を越え、飯舘村で1泊。
2日目は、飯舘村から出発して、二本松を目指す。ここでもう1泊。
3日目は、二本松市内を散策しながら、二本松城まで行ってゴール。

復興エリアの推移(2011年4月)の写真2011年4月時点
復興エリアの推移(2017年4月)の写真2017年4月時点
出典:福島県企業立地ガイドHP 「復興エリアの推移」

ここで、「そういえば」と気づいたことがあった。
宿泊予定地の飯舘村といえば、東電福島第一原発の事故の際に、不運にも風がこの村の上空を通り、放射能が運ばれてしまったところだ。
そのため、飯舘村は「計画的避難区域」に指定され、全村が避難を強いられたのだった。
現在は、一部の「帰還困難区域」を除いて避難区域は解除され、避難した村民の帰還がすでに始まっている。
あの東日本大震災から10年後の今、この地域は一体どのようになっているのだろう。
その現状を知るには、この街道歩きはうってつけの機会だ。

さあ、歩き旅の準備は、おおかた整った。
あとは、体調管理と天候を祈るだけだ。

かつて塩田があった写真ホテルの前に、かつて塩田があった
ホテルの食膳の伏せ紙の写真ホテルの食膳の伏せ紙、松川浦の製塩風景だった!

前日は、相馬市松川浦の「ホテルみなとや」さんに宿泊した。
「明日は、相馬から二本松を目指して歩くんですよ。相馬街道っていう塩を運んだ道があるようで。」
「えー?二本松まで?歩きで?」と女将さんに驚かれながら、「昔、相馬に塩田があったそうですが?」と尋ねる。
「ああ、それでしたら、目の前ですよ。」
なんと!図らずも僕は、かつての塩田の真向かいに泊まっていたのだ。
ホテルの朝食のお膳にかぶせてあった「伏せ紙」が、渋いデザインで気に入ったので、とっておいたのだが、よくよく見ると、その版画絵が松川浦の製塩の様子を描いたものだった。ところどころに、製塩かまどの煙が描かれている。
自分を「塩」に見立てた「塩の道」歩きは、こうして完璧なシナリオでスタートしたのだった。

JWA 健康ウォーキング指導士 みちびと マサヲ
筆:渡辺マサヲ
ページトップ