【第91回】みちびと紀行~鎌倉街道を往く(絹の道) みちびと紀行 【第91回】
4月28日、木曜日、7:30am、小田急線・町田駅に到着した。
新宿からは快速で約30分。
鎌倉街道も、都心からずいぶん近くなった。
まだ通勤時間には早いのか、それとも、明日からのゴールデンウイークを前に休暇をとっているのか、駅前には人がまばらだ。
今日は曇り空、歩くにはうってつけの天気。
鎌倉街道歩き旅・第8日目が始まった。
駅のそばの小さな広場に、「絹乃道」の石碑があるのを見つけた。
側面には「此の方はちおおじ」「此の方よこはま」と刻まれている。
「絹の道」とは、生糸の集散地として発展した八王子から、輸出港・横浜までを結んだ道のこと。
昭和20年代に地域の研究者によってそう名付けられたらしい。
ちなみに、それまでの呼称は「浜街道」または「神奈川往還」だ。
経由地であるこの町田も、絹とは深い関わりがある。
小田急線・町田駅の南側にある「原町田」は、江戸後期から生糸や繭の市が立ち、商人のための宿場町として栄えた。
生糸は、明治期の日本を支えた輸出品だったから、輸送路だったこの道は、日本の発展と独立を支えていたのだ。
その「絹の道」も、明治41(1908)年の、八王子と東神奈川間を結ぶ横浜鉄道(今のJR横浜線の前身)の開通によってその役割を終えた。
ちなみに、町田を通る二つの鉄道路線のうち、もう一方の小田急線が開通したのは、約20年後の昭和2(1927)年のこと。
開業から2年後の昭和4(1929)年には、「シネマ見ましょか、お茶のみましょか、いっそ小田急で逃げましょか」と歌われ、箱根観光が盛り上がる。
一方は絹の路線、もう一方は観光路線。
町田は、この二つの路線の開業によって、急速に発展していったのだ。
「鎌倉街道・上道」と「絹の道」は、町田駅の南側でいったん合流し、しばらく商店街の道となって続く。
そして「三塚交差点」で、一方は鎌倉、一方は横浜港へとそれぞれの目的地をめざして分かれていく。
鎌倉街道は右方向、JR横浜線を渡った先だ。
いざ、鎌倉!
住宅街へと続く道を歩いていった。
街道は「都道56号目黒町・町田線」となって続いていく。
この道は、武蔵国と相模国の境界となった「境川」に平行して、南北に走る。
「境川」と名付けられた川は全国に数多ある。
そのどれもが、国や藩、集落の境目を流れる川だ。
人は、川を境目と認識するものなのだろう。
川は土地と人を隔て、道は繋ぐ。
畑をよく見かけるようになった。
道の脇の小さな直売所で、おばあさんがひとり、野菜を並べている。
真っ赤なトマトが目に入り、その赤さが僕の食欲を刺激した。
「見てってよ」と声をかけられたので、寄っていくことにした。買うのは値段次第だ。
「いやぁ、美味しそうだなぁ」と日除けの内側に入ると、
「イチゴ、ほれ、こんなに赤くて美味しそうに」と言う。
僕の欲しいのはイチゴじゃなくてトマトなんだよ。
「はいはい、トマトね。もう、うちのトマトったら評判良くて、これ食べたら他のは食べられないって言うよ。全部、無農薬!息子と二人で作ってるよ。」
じゃあ、トマト少し買っていこうかな。
「はいねー。これね、千円。」と10個くらいで一山になったトマトに手をかける。
ちょ、ちょっと待ったぁ!え?千円?(たっけぇ~。)
そんなにたくさんいらないよ。こっちの少ないのは?
小盛りのやつを指すと、
「そっちは500円。少ない、少ない。お兄さん、いい体つきしてるし、それじゃ足りないよ。このトマトはここでしか手に入らないよ。せっかくだからたくさん食べて~。美味しいよ~。」
と、絶妙な調子で言う。
おばあさんは無敵だ。
そこから先は、ずっしりとトマトの入ったビニール袋を手に、街道を歩いていくことになった。
東急田園都市線を越えていく。
どことなく洗練されたデザインの車両が陸橋の下を走っていった。
すぐ先の大きな公園には、鬼ごっこでもしているのだろうか、子どもたちの元気な声がこだましている。
おや?向こうの方に何かあるぞ。
木々の間にスヌーピーの像が見え隠れしている。
その方向に向かっていくと、できたてほやほやといった感じの「スヌーピー・ミュージアム」が現れた。
僕がいた場所は「グランベリーパーク」という複合商業施設だった。
ここに、スヌーピー・ミュージアムができたのは、2019年12月のこと。
もともとは、六本木5丁目にあって、2年半の期間限定での開館予定だったものの、来場者が130万人を超すほどの盛況ぶりだったため、この南町田にリニューアル・オープンしたそうだ。
開館したと思ったら、思いも寄らないコロナ禍で、博物館の経営も苦戦したことだろう。
オリジナルのものは、カリフォルニア州サンタローザにあるチャールズ・M・シュルツ美術館。ここにあるのは、その世界で唯一のサテライト(別館)ということらしい。
なぜスヌーピーは日本で人気があるのだろう?
インターネットで調べてみると、スヌーピーが登場する漫画「ピーナッツ」のストーリーにその理由を求めている記事が多かった。
けれど、人気の大きな要因は、その「抜け感」があって余白の多い線画によるものだと僕は思っている。
強く太い線と細くはかない線が生み出す、人間味のあるキャラクターたち。
ごちゃごちゃと書き込んだりしない、シンプルで余白の多い世界。
日本画に慣れ親しんだ日本人には、それが洗練されたデザインとして見えるのだと思う。
時刻は10:30am。
昼ご飯にはまだ早いが、ここで先ほどのトマトを食べてしまおう。
公園の水場で洗い、ベンチに座って真っ赤なトマトにかぶりつく。
んぐぅ~、美味い!
と思う前に、プシュー!とズボンの上に汁が飛び散ってしまった。
しかも股間のところに。
「ピーナッツ」の登場人物、ルーシーがこの場にいたら、大いに皮肉を言われるところだ。
トマトを3つほど食べ、そそくさと洗面所に行って応急処置をする。
さあ、出発だ!
大判ハンカチを前掛けのようにひらひらさせながら、再び鎌倉街道を歩き出す。
街道は国道246号を越え、独特のカーブを描きながら住宅街を抜けていく。
住所表示を見たら「横浜市瀬谷区」、いつのまにか神奈川県に入っていた。
群馬県の高崎から、埼玉県、東京都と南下。ゴールが近づいている。
「北向地蔵」の右を入っていくと「中屋敷一丁目」。
懐かしい風景へと入っていく。
大きな邸宅でもあるのだろうか、高い生垣が続いている。
しばらく歩くと、「瀬谷銀行跡」が現れた。
これが銀行?
案内板を見ると、この邸宅の中に地域の人々のための銀行があったという。
明治期、瀬谷村では養蚕業が盛んだった。
明治20年後半からは製糸場が続々と設立され、さらなる産業の発展のため、瀬谷村の村役だった小島政五郎が中心となり、明治40(1907)年に瀬谷銀行が開業する。
銀行の本店は政五郎の自宅におかれ、その後30年間、昭和10(1935)年に鎌倉銀行に合併されるまで、地域の振興に貢献したとのことだ。
またしても、絹の登場。
いったいなぜ、日本の生糸は世界でもてはやされたのだろう。
調べてみると、明治期の世界市場において、生糸は、日本にとって「勝算のある」輸出品だったことがわかる。
当時の絹製品の最大の消費地はヨーロッパ。現地でも生糸を生産していた。
ところが1845年頃から、欧州では「微粒子病」という蚕の病気が流行し、生産量が大幅に落ち込んだ。
一方、生糸の最大の輸出国だった清(中国)は、アヘン戦争や太平天国の乱で国内は混乱状態。生糸の輸出は滞っていた。
世界的な品不足の状況下で、欧州の商人が開国したばかりの日本に行ってみると、良質な生糸が手に入ることがわかる。
日本は空白の欧米市場に、生糸を売り込むのだ。
それは単に、「時の運を得た」ということではない。
遅くとも奈良時代までには全国に広まっていた養蚕の技術。
皇室をはじめとし、村々においても代々伝えられた、養蚕にまつわる伝統・文化。
そして、蚕や生糸、絹を運んだ街道という下地があってこそ成立する、サクセス・ストーリーなのだ。
蚕の吐く細い糸、養蚕地と市場・港を結ぶ細い道、これらが今の日本を作ってきたことを振り返り、静かな感動に包まれた。
どこか懐かしい風景の中を、街道が続いていく。
道とは「繋ぐ」もの。
高崎から鎌倉まで、過去と現在を繋ぎながら歴史を紡ぎ、今こうして、僕はこの道を歩いている。