【第47回】みちびと紀行~甲州街道を往く(内藤新宿~笹塚) みちびと紀行 【第47回】
正午前の新宿の街を歩く。
新宿の面白さは、街のその変化にある。
いつもどこかで何かの工事が行われていて、この先もずっと変わり続けることを宿命づけられているかのようだ。
次はどんな街の姿が現れるのか、興味が尽きない
花札の8月札「芒に月」いわゆる「坊主」
新宿がある場所には、かつて広大なススキの原野を見渡す「武蔵野」の風景が広がっていた。
「武蔵野」という言葉は、万葉集の時代から使われていて、日本の原風景のひとつ、そして「月の名所」とされてきたようだ。
ちょうど花札の「坊主」が武蔵野の典型的な風景で、江戸時代は花札自体を「武蔵野」と呼んでいたこともあるらしい。
どういうわけか「新宿には月が似合う」と思っていたけれど、あながち勘違いではなかった。
この武蔵野の原野が、今の新宿に発展するには、鍵となった2つの歴史的なできごとがある。
ひとつは、この甲州街道に「内藤新宿」という宿場が置かれたこと。
そしてもうひとつは、「新宿駅」が誕生したこと。
新宿は、「交通の要衝」として発展した街なのだ。
西森聡著「そうだったのか、新宿駅」
明治期の富国強兵を支えた輸出品、北関東産の生糸と絹織物は、従来、鉄道で上野に運ばれ、荷車に積み替えられて新橋に向かい、再び鉄道で貿易港の横浜に運ばれていた。
けれど輸送量が増加するにつれて、この鉄道と荷車の積み替えがネックになってきた。
上野~新橋間で鉄道を連結することも検討されたが、そうなると、日本橋や神田など、密集した商業地域が邪魔になる。
そこで浮上したのが、人口が希薄な武蔵野地域を経由して、赤羽から品川まで鉄道を結び、そこから横浜まで既に結ばれていた路線に連結する案だ。
工事は実施され、現在の赤羽線(埼京線)と山手線の品川までの区間が完成し、板橋、新宿、渋谷の3駅が設けられた。
板橋は中山道との、新宿は甲州街道や青梅街道との、渋谷は大山道や矢倉沢往還との交点に当たる地だったためだ。
こうして新宿駅が誕生する。
(参照:西森聡「そうだったのか、新宿駅」交通新聞社新書 p.36)
新宿駅には、その後、西武線、甲武鉄道(現在の中央線)、京王線、小田急線など、東京の西部地域を結ぶ鉄道が連結された。
そして、1923年9月1日、新宿駅が巨大化する原因となるできごとが起こる。
関東大震災だ。
一面が崩壊・焼失した下町に対して、地盤が固く人口も希薄だった武蔵野台地の被害は少なかった。
東京の人々は、西の郊外に移住を始め、そこから鉄道で通勤する流れが生まれた。
ターミナルとなった新宿駅周辺には、百貨店やカフェ、映画館が次々に誕生し、1927(昭和2)年、新宿駅の乗降客数は5万7千人となり、日本一になる。
戦前の1929(昭和4)年に発表された、「昔恋しい銀座の柳~」で始まる「東京行進曲」は、4番で新宿について歌われる。 歌詞はこうだ。
「シネマ見ましょか お茶飲みましょか いっそ小田急(おだきゅ)で逃げましょか
変わる新宿 あの武蔵野の 月もデパートの屋根に出る」
東京行進曲
当時「小田急(おだきゅ)る」という言葉が大流行したらしく、その「◯◯る」という現代にも通用しそうな言葉遣いが、昔と今の距離感を一挙に短くしてくれる。
戦後を迎え、人々は、空襲で焼け野原になった東京から西に移住し、西部に新しい街が次々に生まれた。
ターミナルの新宿駅はますます巨大化し、今では乗降客数は350万人、世界一の乗降客数を誇る駅になった。
新宿駅南口を過ぎて、甲州街道をまっすぐ歩いていく。
やがて、右手にそびえるビル群が見えてきた。
バブルまっただ中の1986年、高校を卒業してはじめて上京してきた僕にとって、この新宿西口のビル群は、東京のシンボルだった。
東名高速を走る高速バスで、林立するこのビル群が遠くに見えたとき、人生の新しい「章」が始まるかのようで、まさに胸が高鳴ったことを覚えている。
この高揚感は、東京で生まれ育った人には分からないだろう。
ここに来れば、いつか自分は何者かになれる。
そんな期待を抱いて人々が集まる街、それがこの東京だ。
やがて左側に「正春寺」が見えてきた。
この寺は、二代将軍徳川秀忠の乳母だった「初台局(はつだいのつぼね)」の菩提寺だ。
今に残る「初台」の地名は、この乳母に由来しているとも、または、太田道灌が築いた1番目の砦が「初台」と呼ばれ、ここにあったからとも言われている。
おそらく、その「どちらも」なのだろう。
半蔵門からここまで甲州街道を辿ってくると、この場所に真っ先に砦を築きたくなる理由がわかるような気がする。
一方、初台局については資料が少なすぎて調べきれなかったけれど、彼女はこの場所に知行地を授かっていて、「明石の君」や「淀殿」と同じように、地名にちなんだ呼ばれ方をしていたのかもしれない。
彼女は、三代将軍家光の乳母だった春日局とは比べるべくもなく、際立った存在ではなかったようだ。
けれど、その控えめなところが、家康の敷いた既定路線を順当に守るべく運命づけられた秀忠にとっては、乳母としてふさわしかったのだろう。
初台から先、甲州街道は首都高という高架の「屋根」の下、一直線に西に向かっていく。
ちょうど日射しが遮られて、真夏に歩くには助かったけれど、交通量の激しい大きな道は、どうにも風情がなさすぎた。
甲州街道には3つの「線」が並行している。
この首都高・中央高速道、京王線、そして玉川上水だ。
その玉川上水は、初台から先、幡ヶ谷、笹塚と暗渠化され、上部が緑道になっている。
きっとその木陰を行く方が、気持ちよく歩けたことだろう。
ちょっと失敗した。
このあたりの甲州街道は、大きな道を建設して跡形もなくなってしまったのか、昔の面影を探すことがとても難しい。
「笹塚」の地名の由来となった塚のあった場所も、あまりにも存在感がなくて通り過ぎてしまうところだった。
ひっそりと隠れるようにあった説明板には、このあたりには直径1メートルほどの盛り土(塚)があって、笹に覆われていたことから、このあたり一帯を笹塚と呼ぶようになった、と書かれている。
地名の付け方とは、たいがいはこうした簡単なものなのだろう。
そして、その素朴な名付け方が、この地域が昔「武蔵野」と呼ばれた、見渡す限りの原野が広がる場所だったことを示しているように思われた。
時刻はちょうど正午になった。
この暑さで、食べたいものがなかなか思いつかない。
ああでもない、こうでもないと道の両側をちらちら見ながら歩いていくと、インド料理の店があった。
暑いときには、暑い国の料理を食べるのが一番だ。
そう考えると、スパイシーなカレーが無性に食べたくなってくる。
さっとドアを開けて、手早く注文して、香り立つ美味しいカレーにありついた。
お店の名前は「RENU」、ベンガル語で「花の真ん中のハチがとまって足に花粉がつくところ」という意味らしい。
自分がここに一時「羽を休めている」ことが、確かにハチみたいに思えて可笑しくなった。
しばらくエネルギーを充填。
汗が引いたところで、気合を入れて、ギラギラとした太陽の下へと、再び飛び出していった。