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【第79回】みちびと紀行~鎌倉街道を往く(塙保己一) みちびと紀行 【第79回】

丹荘駅のホームの写真丹荘駅のホーム

8:05am、JR八高線・丹荘駅に着いた。
鎌倉街道歩き・第2日目の始まりだ。
都心から約2時間、ローカル線の電車と駅のたたずまいが、旅の気分を盛り上げる。
広大な関東平野を縦断する鎌倉街道では、これといったランドマークに恵まれず、地理的位置を実感するには、なかなか骨が折れる。

神川町の位置の写真神川町の位置

降り立った神川町の位置を、駅にある地図でようやくつかんだ。
今、僕は、埼玉県の北東の縁にいるのだ。

神川町は梨の生産地だの写真神川町は梨の生産地だ

丹荘駅からいったん北へ逆戻りして、神流川(かんながわ)の岸辺の、前回群馬県側から見た鎌倉街道の渡河地点を目指して歩いていく。
途中、梨園が次々に現れた。
もう少し時期を遅らせれば、白く可憐な花々が咲いて、さぞ美しかったことだろう。
神川町では、隣の上里町(かみさとまち)とともに、江戸時代から梨を栽培してきたという。
上野国・前橋から梨の栽培法が伝わり、神流川がもたらす水はけの良い肥沃な土壌にも合って、梨の栽培が発展したそうだ。

神流川の渡河地点はこの辺りだろうか写真神流川の渡河地点はこの辺りだろうか
この道を鎌倉街道と思うことにした写真この道を鎌倉街道と思うことにした

神流川のほとりについた。
鎌倉街道の渡河地点だと思われる場所を示すものは、何も残されてはいない。
度重なる神流川の氾濫で、古くからの道は消えてしまったのかもしれない。
古い野仏が並んで立っている道を、鎌倉街道だと思うことにして、ここから南へと進んでいく。

金讃神社(出典:神川町観光協会)の写真金讃神社(出典:神川町観光協会)

神川町は、古代から特別な地域だったのだろう。
それは、金讃神社(かなさなじんじゃ)がこの辺りにあることから推察できる。
奈良・平安朝の昔、都から各国に派遣された国司は、任国に着くと、まずその国の主要な六柱の神様にお参りする習いがあった。
武蔵國の場合は、小野神社(多摩市)、二宮神社(あきる野市)、氷川神社(大宮市)、秩父神社(秩父市)、金讃神社(神川町)、杉山神社(横浜市)の六柱。
六社がどのように決められたのかは知らないが、神々が手厚く祭られていた時代であればなおのこと、大切な場所に社が置かれたはずだ。

「金讃」は、砂鉄を意味する「金砂(かなすな)」だとされ、神流川も、砂鉄の採集地「鉄穴(かんな)」が語原だと言われている。
以前、山の辺の道を歩いたとき、日本最古の神社・奈良の大神神社(おおみわじんじゃ)が、「製鉄」と関連がありそうだということを知った。
そして、ここで再び製鉄に関わりがある神社が登場したということは、偶然ではないように思えた。

参照:【第23回】みちびと紀行

丹党の安保氏の館跡があった写真丹党の安保氏の館跡があった

武蔵の国には、「武蔵七党」という武士団がいて、この辺りにはそのうちの「丹党」という一族が勢力を持っていたらしい。
だから最寄り駅も「丹荘」というわけだ。
武士団の成立過程には、やはり「馬」があり、牧畜に好都合な河岸段丘には「牧」が作られ、その管理者の中から、多くの中小武士団が生まれた。
彼らは次第に「秩父氏」や、そこから分かれた「畠山氏」などの有力な武士団と結びつきながら、次第に大勢力となっていく。
武士政権・鎌倉幕府の担い手は、この風土なくしては語れない。

塙保己一の旧宅の写真塙保己一の旧宅

JR八高線に寄り添うように、鎌倉街道が続いていく。
やがて、本庄市児玉町保木野という地区に入った。
ここは、江戸時代に活躍した盲目の学者、塙保己一(はなわほきいち)の故郷だ。
延享3(1746)年、保己一は百姓の家の長男として生まれる。幼名は寅之助。
5歳の時に肝の病にかかり、7歳の時に失明する。
記憶力に優れた少年で、手のひらに指で書いてもらって文字を覚え、15歳のときに、母親が亡くなったことがきっかけで、銅銭23文が入った形見の巾着を持って江戸に出た。

当道座のしくみの写真当道座のしくみ

江戸幕府は、「当道座(とうどうざ)」という組織を整備して、盲人の就業を奨励していた。
大まかに、「検校(けんぎょう)」「勾当(こうとう)」「座頭(ざとう)」など、73の位階がある自治的なピラミッド型組織で、職業訓練がここで施された。
検校の位ともなれば、15万石程度の大名と同等の権威と格式を持っていたという。
保己一は、この当道座に入り、検校の雨富須賀一の弟子となる。
そして、3年後に名を「保木野一」と名乗った。
検校の名を一覧で見ると、ほとんどの名前に「一(いち)」と付いているから、これにならって故郷の名に「一」と加えたのだろう。
その名がやがて「保己一」という名に改められる。
保己一は、学問以外は案外不器用だったようで、あんま・鍼・琴・三味線などの修行をするも、どれも上達できず、悲嘆に暮れて自殺を試みたこともあった。
けれど、師匠に告げた学問への想いが認められ、精進を重ね、ついに「群書類従」の編纂に着手することになった。

塙保己一記念館では、群書類従を手に取って見ることができる写真塙保己一記念館では、群書類従を手に取って見ることができる
群書類従ができるまでの写真群書類従ができるまで

塙保己一の歴史的な功績を知るには、彼が編纂した「群書類従」がいかに重要かということを理解する必要がある。
当時、古書は、全国各地に散逸し、誰かが正しく管理しなければ、失火による焼失、お家断絶による紛失が免れない状況にあった。
書物の重要性を実感していた保己一は、いつでも、どこでも、誰でも、必要な書物が読めるように、そして、先人から託された書物を次世代に伝えられるようにと、これら書物を集め、整理し、版木で印刷して複製することを思い立った。
これが「群書類従」の編纂作業ということだ。
保己一は、全国各地から書物を集め、門弟に書写させて読ませ、その内容を吟味し、収録するという作業を延々と続け、文政2(1819)年、彼が74歳のときに、全666冊の「群書類従」が完成する。
編纂を開始してから41年の歳月がかかった。
保己一の事業は、その後弟子たちに綿々と引き継がれ、ようやく昭和47(1972)年に「続群書類従」として完結するのだ。
「群書類従」には、古代から近世末期までに書かれた法律・政治・経済・教育・史学・文学・音楽・美術・言語・遊芸・飲食など多岐にわたる分野の書物が網羅されている。
いま僕らが、神話の時代から江戸期に至るまで、日本の歴史を振り返ることができるのも、各時代の先人たちの暮らしに思いを馳せることができるのも、そして、新たな研究者が、正しく歴史を解釈・検討することができるのも、この「群書類従」あってこそなのだ。
世界を見渡せば、ここまで豊富に古書に辿れる国は珍しい。
歴史とは、民族の宝。
日本に塙保己一がいて、本当に良かった。

龍清寺のカヤの大木の写真龍清寺のカヤの大木

保己一の家の裏には、幼いころ遊び場にしていたという真言宗のお寺・龍清寺があった。
境内には、「飛龍之榧(ひりゅうのかや)」と呼ばれるカヤの大木が、雲がたなびくように葉を繁らせている。
ここには次のような逸話が残っている。
今から300年前、上野国新田郡にいた「袋算」という修行僧が、師僧からこう告げられる。
「これより旅に出て、己が聖地だと思う場所にとどまり、この榧の実を蒔け。きっと霊木となって、その地を救うだろう」と。
袋算は旅の果てにこの地にたどり着き、ここを修行の地と定めて榧の実を植えたところ、見る見るうちに大木となり、大量の実は灯油の原料となって、村人の生活を潤したということだ。

この寺を遊び場とした保己一少年も、きっとこの話を聞かされていたはずだ。
夜の読書に欠かせない灯火も、目の見えない保己一にとっては必要なかっただろう。
けれど、上野国の師僧が託した榧の実が、修行僧に運ばれて大木となり、大量の実をつけたように、保己一の編纂した群書類従は、多くの学者を国じゅうに育て、国史を一本の大木のように系統づけることに成功したのだ。

鎌倉街道が続く写真鎌倉街道が続く
「この道は鎌倉街道」の文字、ありがたい。の写真塙保己一記念館に立ち寄る

保木野を出て、再び鎌倉街道を辿って児玉へと至る。
ここには、本庄市児玉総合支所が入る「アスピアこだま」に隣接して、「塙保己一記念館」がある。
入ってみると、資料が豊富で、展示もわかりやすく整理されていて、保己一への理解がいっぺんに深まった。
僕はこれまで、塙保己一という人物のことを深くは知らなかったのだけれど、戦前の教科書には必ずと言っていいほど取り上げられていた人物だったということだ。
以前、下田街道を歩いたとき、「江川坦庵」という、もう一人の「消された偉人」を知った。なぜこれらの人物が対象になったのだろうか。別の新たな興味が湧いた。

参照:【第73回】みちびと紀行

ヘレン・ケラーの展示があった写真ヘレン・ケラーの展示があった

おや?なぜここにヘレン・ケラーの展示があるのだろう。
戦後教育を受けた世代には、日本人の塙保己一よりも断然知名度がある、三重苦を克服した「奇跡の人」だ。
彼女は、昭和12(1937)年に来日して、塙保己一の坐像や愛用の机にも触れたということだ。
ヘレンは、次のような言葉を残している。

「私は子どもの頃、母から塙先生をお手本にしなさいと励まされて育ちました。今日、先生の像に触れることができたことは、日本における最も有意義なことと思います。先生の手垢の染みたお机と、頭を傾けておられる敬虔なお姿とには、心から尊敬を覚えました。先生のお名前は流れる水のように伝わることでしょう。」

なんと、ヘレンは、子どもの頃から塙保己一について熟知していたのだ。
ヘレンいわく、「流れる水のように伝わる」はずの保己一の名を、日本人である僕らは「堰き止められて」いたわけだけれど、こうして普遍性を持った人物を改めて知ることができたことは、街道歩きの収穫だった。

ヘレン・ケラーが触ったという塙保己一の坐像(複製)の写真ヘレン・ケラーが触ったという塙保己一の坐像(複製)

ヘレン・ケラーが来日時に触ったという塙保己一の坐像を改めて眺めてみる。
こくりと首を傾げた柔和な顔立ちからは、「総検校」というピラミッドの頂点に立つ人間というよりは、そんな権力もどこ吹く風という、さわやかで温かい人柄を感じた。
触っただけで「敬虔なお姿」と感じ取ったヘレン・ケラーも、また凄い。
彼らには、特別に備わった「感性」があるのだろう。

「ふしのすそのにて(富士の裾野にて)」という保己一が作った和歌の展示があった。

「ことの葉の およばぬ身には 目に見ぬも 中なかよしや 雪のふしのね」
(和歌の力のない私にとっては、雪の富士山の絶景を表現することができない。だから、目に見えなくても、かえって良かったのだ。)

人にはそれぞれ置かれた立場と境遇がある。
そして、一人ひとりができることは限られている。
そこに己の役割を見出し、自分の人生を歩いていけばいいのだ。
そんなことを言わんとしているのだと、勝手に解釈して、再び街道を歩き始めた。

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