しのだひろえの歩っとタイム Vol.30
今はなき銀座の橋を探して~東京・銀座裏道さんぽ⑤~
この銀座の端の橋めぐりも後半。橋をめぐるだけのつもりだったのに、その場所ごとに歴史があり、ついつい長居してしまうもの。今日は前回までの「三吉橋」のあとに続く「新富橋」からの歩きを紹介する。
新富橋と新金橋
新富といえば中央区の町名である。まさにその名がついたのが新富橋。そして首都高の京橋入り口がある新金橋。
この2つ橋の歴史は比較的新しい。江戸時代、この2つの橋があった場所には武家屋敷があり橋はかかっていない。三吉橋と同様、楓川と結ぶ水路(楓川・築地川連絡運河)が開削され連絡運河ができたことにより新たにできた橋なのである。ではこの連絡運河を今も見れるかと言えば、そうではない。今は埋め立てられ首都高になっているからだ。
江戸地図1
現代地図
白魚河岸の跡に思いを馳せる
江戸地図2
江戸地図を見ながら歩みを進めると、京橋川・楓川・三十間川がつながる白魚橋あたりに到着した。白魚河岸と呼ばれる場所が広がり、三つ橋(白魚橋、弾正橋、真福寺橋)がかかっていた場所である。
きっと何か石碑があるのでは・・と探し歩いたが見つからない。首都高の真下に広がる駐車場の寒さが、一層身に染みる。そうだ、こういう時だってある。期待した割に何もないこと、人生にだってあるじゃないか。いや、きっと白魚橋の痕跡があるはずだとこちらが勝手に期待したのだ、うん。
水谷橋から城辺橋(比丘尼橋)へ。
気を取り直して水谷橋へ向かう。現在は水谷橋公園があり近くには銀座湯という銭湯まである、ちょっとした安らぎスポットである。しかしここでも橋の痕跡は見つからない。いそいそと京橋に向かう。
京橋は、銀座四丁目を挟んだ新橋と対になる橋、立派で道も広く歴史もある。
京橋のたもとにある案内板によると「京橋は、慶長八年(1603)の創建とされる日本橋とほぼ同時期に初めて架けられたと伝えられる歴史のある橋です。(原文まま)」とある。またこの案内板の横にある「きやうはし」と書かれたものが石造親柱であり『明治八年(1875年)に石造アーチ橋に架け替えられた時のものです。江戸時代の伝統路引き継ぐ擬宝珠(ぎぼし)に形をしており、詩人の佐々木支陰の筆による「京橋」と「きやうはし」の端名が彫られています。(原文まま)』とある。確かに「きやうはし」と書かれた柱のてっぺんは擬宝珠、ちょっと砕けた言い方になるが、ねぎのあたまのようなスライムのような形になっている。
「石およびコンクリート像の親柱は、大正十一年(1922)の拡張工事でアール・デコ風の端にかけ替えられた時のものです。(原文まま)」とあり、こちらも間違いなく美しいデザインである。
またこの京橋の反対側にある、史跡「江戸歌舞伎発祥の地」と「京橋大根河岸青物市場跡の碑」については、「楽しみは自分で見つけ、育てる~東京・銀座裏道さんぽ①~」の回をお読み頂きたい。
さて紺屋橋を通り抜け、城辺橋(比丘尼橋)まで歩けば東京駅と数寄屋橋をむすぶ大通りにでる。紺屋橋は公園の名前として痕跡が残っているが城辺橋には痕跡はない。
江戸地図3
外濠と京橋川の合流地点にかかっていた城辺橋からみた風景は、どんなものだったのだろうか。
あって当たり前なんてことはない。
どんなに大きな橋が架かっていようとも、時がたてば跡形もなくその存在が消えてしまう。三十間川、築地川、楓川、京橋川・・・川さえも銀座にあったことを知る人の方が少ない。今見ている風景がこの先もずっとその姿であり続けるということは、ない。私たちが気づかぬうちに多くの街は変わり新しい仕様に整えられていく。むかし足を運んだ喫茶店もレストランもいつの間にか新しいビルになっているものだ。あなたにもし想い出の街があるのなら、その街を近く歩いてみるのもよいだろう。思い出のレストランがあるのならもう一度足を運んでみることも。いい思い出をつくってくれた街を歩く。それもきっと人生を豊かにしてくれる歩っとタイムである。