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猫ちゃん
しのだひろえの歩っとタイム Vol.29

未来のために、今をどう歩むのか~東京・銀座裏道さんぽ④~

いま、私は銀座の端の橋を歩いている。きっと目の前を歩いている誰も、私がそんな歩き方をしているなんて思ってもいないだろう。

車が流れる築地川

前回に続き「汐先橋」からV字を描くように「新尾張橋」に向かう。ここまできて浜離宮恩賜庭園に足を伸ばさないのは惜しい気もするが、この橋めぐりの方が今の私には重要だ。前回の踏切跡のような出会いがこの先も待ち構えているかもしれないし、もうアドレナリンがでっぱなしなのである。

新尾張橋の写真

グレーのビルが立ち並ぶ中にみえてきたのが「新尾張橋」だ。首都高にかかる橋で、下には車が流れている。

銀座新橋の写真

江戸時代には築地川だった首都高。橋から猛スピードで走る車を見ていると手が震え足がすくむ。そういえば私は高所恐怖症だった。

このあたりは江戸時代は尾張徳川家の築地下屋敷のあった場所であり、明治時代には海軍施設になったという場所である。実は今の場所よりも下流に本来の「尾張橋」があったが昭和40年に撤去され、その後改めて架け替えたのがこの「新尾張橋」である。江戸地図と現代地図をみると明らかだ。

現代地図の写真現代地図
江戸地図の写真江戸地図

ここからしばらくは、築地川にかかった橋を見つける歩きとなる。

千代橋の写真

「千代橋」は、ちよばしではなくせんだいばし。モダンな雰囲気のあるこの石造りの橋は、関東大震災後の帝都復興事業で架橋された復興橋梁である。

江戸地図の写真2

「采女橋」は旧二ノ橋、うぬめばしと読む。橋のたもとに采女橋公園もあり、江戸地図をみると采女ヶ原という地があるのが分かる。

采女橋の写真

東京都立図書館のサイトによると「享保(きょうほう)9年(1724)まで、今治藩主(いまばりはんしゅ)松平采女正定基(まつだいらうねめのしょうさだもと)の屋敷があったことにちなみ、つけられた名前です。大火により屋敷が麹町(こうじまち)に移った後、空き地となっていたところに馬場がつくられ、周囲は歓楽地として発展しました。小屋掛け、葭簀(よしず)張りの小屋、講釈師・浄瑠璃・水茶屋(みずぢゃや)・楊弓場(ようきゅうば)などが軒をならべる繁盛ぶりであったということです。(原文まま)」。采女ヶ原はかなり栄えた街だということが伝わってくる。

万年橋の写真

「万年橋」は、歌舞伎座と築地卸売り市場とを結ぶ橋。

祝橋の写真

「祝橋」には築地川祝橋公園がある。

亀井橋の写真

「亀井橋」に入ると、すこし人通りが少なくなってきたようだ。

三吉橋の写真

「三吉橋」の手前には石碑が。石碑を読むと「この橋は、築地川の屈曲した地点に、楓川と結ぶ水路(楓川・築地川連絡運河)が開削され、川が三叉の形となった所に、関東大震災後の復興計画の一環として、昭和4年12月に三叉の橋が架けられました。(原文まま)」
とある。また三島由紀夫の「橋づくし」の文章が記され、この三吉橋もその舞台のひとつだと分かる。なるほど。この橋の存在は初めて知ったが、なかなかに有名な橋なのかもしれない。

三吉橋の手前の石碑の写真1
三吉橋の手前の石碑の写真2

未来のために、今をどう歩むのか

橋をひとつひとつ巡っていくと、思わぬ発見があるもの。特に今回歩いた橋は関東大震災の爪痕の大きさを感じさせるものも多く、現代の風景とはまったく違う銀座を想像させる。関東大震災直後の銀座はどのような街だったのか、復興の時代を人々はどのように暮らし何を思ってきたのか。人々の逞しさや「今の幸せは、過去によって成り立っている」そんなことを思わされた橋ばかりだった。であれば、今の私たちはどう歩めばいいのか、ひとりひとりがどこに向かって歩を進めればよいのか。未来の幸せのため、今をどう歩むか。そんな壮大なテーマを考えさせられる橋めぐりである。きっと目の前を歩いている誰も、私が歩きながら、そんな壮大なテーマについて考えているなんて思ってもいないだろう。

<出典>

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