【第115回】みちびと紀行~日光街道を往く(千住大橋~荒川土手) みちびと紀行 【第115回】
千住大橋の先、車往来の激しい国道4号線から、旧日光街道は右へと分岐していく。
日本橋を出て一つ目の宿場町、千住宿に入った。
「やっちゃ、やっちゃ」と競りの掛け声から「やっちゃ場」と呼ばれた青物市場跡を過ぎると、しだいに通りがにぎやかになってくる。
看板、貼り紙、ごちゃごちゃした風景の中で、目を凝らしながら昔の街道の手がかりを探す。
あった。
「一里塚跡」、「千住高札場跡」、小さな碑がひっそりと。
その控えめな姿が、まるで都会の雑踏のなかで会った郷里の友人のようで、なにやら愛おしく思えた。
街角の信用金庫の前に芭蕉の木像が立っている。
脚の筋肉が張り、背筋もぴんとして若々しい。
「おくのほそ道」には、人生最期の旅への思いが込められているだけに、芭蕉には老人のイメージがあった。
けれど、旅立ったときは46歳。
現代の感覚で言えば、この木像のようにまだまだ若かったのだ。
それなのに、早くも人生の終わりを強烈に意識していたのはなぜだろう。
江戸時代、日本人の平均寿命は30〜40歳くらい。
早くに老け込んでしまうということではない。
災害や病気、栄養不足、そしてなにより乳幼児の死亡率の高さで、こんなにも短かった。
つまるところ、生存率が低かったのだ。
医療や保健衛生もおぼつかず、死をごく身近なものとして意識していたはず。
従容として死を受け入れる覚悟を持ちながら、「生きてるだけで儲けもん」と割り切り、あんがい楽天的に暮らしていたのかもしれない。
千住宿の中心は、北千住駅西口を出てすぐの「宿場町通り」にあった。
品川宿、板橋宿、内藤新宿とあわせて「江戸四宿」と呼ばれたなかでも、千住宿は抜きん出て規模が大きかった。
隅田川、荒川、綾瀬川の合流地点から近く、江戸への物資の流通拠点だったことがその理由のようだ。
当時の繁栄ぶりが今も目の前で展開されているかのように、街に人々が大勢くりだしている。
今から20年ほど前、2002年から2005年5月まで、僕は隣町の町屋に住んでいて、ここにもよく来たことがあったが、その頃はこんな盛況ではなかった。
商店街はシャッター街になりそうな気配があったし、高齢者が圧倒的に多い街だった。
ところが今や、街を歩く人の多くは若者たち。商店街もどことなくオシャレで活気がある。
どうやってとった統計なのかよく知らないが、北千住は「穴場だと思う街ランキング」で5年連続1位なのだという。
なるほど、うまいことを言う。僕もすっかり見くびっていた(失礼!)。
この街が大きく変化し始めたのは、ちょうど僕が去った後、2005年の8月からのこと。
まずは、つくばエクスプレスの開業によって、北千住駅と若者の街・秋葉原がつながった。
続いて、2006年には東京藝術大学の千住キャンパスの開校を皮切りに、続々と大学が増え、今や5つの大学を擁する学生の街へと変貌した。
北千住駅は、世界の鉄道駅利用者数ランキングで、新宿、渋谷、池袋、大阪梅田、横浜に続いて6位。
1日に約150万人が利用する大型駅になった。
街は生き物だ。
新しい血が巡り、古きものに新たな魅力を注ぎ込みながら、生まれ変わっていく。
これまで歩いた街道では、宿場町の衰退に胸が痛むことが多かったけれど、ここは違う。
この街の未来を思い浮かべ、ワクワクしながら通りを歩いた。
時刻は正午を過ぎたところ。
魅かれる飲食店がずらりとあったけれど、ここまでちょこちょこ口に入れながら歩いてきたので、空腹感はない。
脚を休めるタイミングが来るまで、どっかりと腰を落ち着けるのはあとにした。
街道歩きをずっとやってきて、歩き方だけでなく「食べ方」を意識し始めたのはここ2、3年のこと。
「歩きながら、ちょこちょこ食べるべし」
2021年に東北の相馬街道を歩いたとき、かねてからの経験則を忠実に実践してみて、その効果を身をもって知った。
( 参照:東北復幸漫歩【第3回】 )
以来、途中でへたることなく、筋力や意識に支障をきたすこともない。
うれしいことに、体型も締まった。
なんのことはない。
茶屋に寄っては団子を食べ食べ歩き続けた、昔の旅人の真似をすればよかったのだ。
宿場町通りも、本陣跡から東へ400メートルほども行けば、人通りは少なくなる。
おっ、団子!
千住名物、「かどや」さんの「槍かけ団子」だ。
水戸光圀公が休息したという近くのお寺に、家来が槍を立て掛けた松があったことから、こう名付けたらしい。
ちょこちょこ食べるのにはちょうど良い。
こしあんとみたらしの串団子を一本ずつ買って、店の軒先で味わう。
ほどよい甘さとなめらかな餅の食感、僕の舌が喜んでいる。
きっと、相当美味そうに食べていたのだろう。
買い物帰りとおぼしき母親と子どもたちが通りかかり、子どもが団子をねだりだした。
母親はとうに買うと決めていたのか、「買いましょう」とあっさり。
店の前の僕らを見て、今度は女性の集団が吸い寄せられてきた。
先客の磁力、食欲の連鎖、集まる集まる。
数分のうちに店はにぎやかになった。
さあ、食べ終わった。お役目終了。
名物団子とともに、ちょっとした「福の神」気分も味わった。
宿場町通りの突き当たりは、下妻街道との追分だった。
ここから、綾瀬川、中川沿いを北上し、野田、水海道、下妻、下館、益子を経由して喜連川まで。
約150km続く、日光・奥州街道の脇往還だ。
平安時代末期には存在した古道で、源頼義・義家父子の奥州平定の際には、この道が使われたという。
歩くたびに、歩きたい道が増えて悩ましい。
一説には、500以上もあるという日本の街道。
人生の旅を終えるまでに、いったいいくつの道を歩くことができるだろうか。
荒川土手にやってきた。
日光街道は、千住新橋を渡っていく。
河川敷では、サッカーの試合。その隣では野球の試合。
家族たちが土手の法面に座って、声援に熱を上げている。
ああ、なんだろう。この懐かしさは。
橋の途中から眺めていて、「3年B組金八先生」の世界だと気づいた。
あのドラマは、この荒川土手の風景なくしては成立しなかっただろう。
どんな事件が「荒谷二中」に巻き起ころうとも、物語の最後にはこの土手の朝の日常風景が映し出され、生徒たち、そして取り巻く大人たちの人生は続いていくのだ。
ドラマの主題歌を口ずさみながら、海へとゆるやかに流れゆく川を越えていった。