【東北復幸漫歩 第3回】みちびと紀行~相馬街道を往く 東北復幸漫歩~歩くことで見えるコト~
未来への約束
金蔵院地蔵堂を出るときに、改めてお墓の意味を考えた。
さきほどの二宮尊徳の墓石の下にあるのは、尊徳の遺髪。
尊徳は、相馬の地を踏んでもいない。
けれど、ここに彼の墓を建てているのは、葬るためでも弔うためでもなく、「記憶するため」なのだ。
相馬の人々にとっては、「未来への約束」のようなものなのだろう。
そのことは、相馬市民憲章に、こう書かれていることからもわかる。
「報徳の訓えに心をはげまし、うまずたゆまず豊かな相馬をきずこう。」
この地が、なんどもなんども天災によって叩きのめされ、藩の財政や生活が困窮した時代に、上から下まで一丸となって困難を克服した記憶。
「その経験を思い出せ、自信を持て!」
子孫に、そう伝えたかったにちがいない。
食料を確保する
3月15日の全行程
次に目指すのはコンビニだ。
今日の宿泊先は、飯舘村にある「宿泊体験館きこり」。
距離は、 Googleマップ上では約36km、時間にして約8時間、と示されている。
ルート上を念入りに調べたところ、どうも飲食店や食料品店はなさそうだ。
村の雑貨屋のようなものが表示されてはいるが、閉まっている可能性が高い。
となれば、食料をあらかじめ調達しておく必要がある。
金剛院地蔵堂の500m先にコンビニがあったので、そこに寄った。
僕は美食家ではないが、栄養学的なものにはうるさい。
長距離を歩くときには、ドカ食いするのではなく、甘いものをちょこちょこと口に入れて、筋肉の疲労を回避するのが鉄則。
それが怪我を防ぎ、長時間歩行を可能とし、結果として体を絞ることにつながる。
なんのことはない、昔の旅人が峠の茶屋で団子を頬張りながら歩き続けた、あのスタイルが理想なのだ。
コンビニでは、軽くてかさばらずプロテインも確保できる機能性食品を3種類ほど。
そして定番の大福、おにぎり、黒酢のドリンク、お茶。
これらを買ってレジに向かう。
店員の女の子は高校3年生くらいだろうか、明るくて、しっかりしている。
愛想の良い店員は都会にもいるけれど、なぜかこの時は、特に温かい印象が残った。
それはたぶん、あの店員が、リュックを背負った旅姿のぼくに、ちょっとばかり好奇心を示してくれたからなのだ。
涼ヶ岡八幡神社
右手に連なる山々を眺めながら、田んぼの中をまっすぐに続いている道を歩く。
少し冷たい風に吹かれて20分ほど歩いたら、涼ヶ岡八幡神社に着いた。
参道の桜の木には、つぼみがほんのすこし色づき始めている。
この神社の創建は、建武2年(1335年)、後醍醐天皇のころ。
そして、約300年後の元禄8年(1695年)、相馬中村藩の第21代藩主だった相馬昌胤(まさたね)が、今の社殿を建立し、その壮美さから「相馬日光」と称されたと、境内の説明板にあった。
『土芥寇讎記』(どかい こうしゅうき)という、江戸時代中期(元禄期)に書かれ、各藩の藩主や政治状況を解説した書物があって、相馬藩については、「藩士は豊かではなく、風俗も宜しくない。だが義を守る」と書かれている。
「こういう率直なことを当時書けたのか」と、まず驚いたことはさておき、藩士の羽振りもよくない状況で、日光東照宮に擬せられるほどの社殿を建立した背景には、何らかの事情があったのだろうか。
相馬藩の歴史を調べると、ちょうどこの頃に藩の「格上げ」があったようだ。
第19代の相馬忠胤(ただたね)は、徳川譜代の土屋氏の養子であったことから、それまでの外様の待遇から譜代並みの扱いを受けるようになった。
そして、第23代の相馬尊胤(たかたね)の時に正式に譜代大名となる。
尊胤は、この社殿を建立した昌胤の次男なので、相馬日光と呼ばせるほどの社殿の建立というアピールが「最後のひと押し」となって、息子の譜代大名への昇格という実益につながったのかもしれない。
投資とすれば安いものだ。
『土芥寇讎記』の中で、昌胤個人への評価は「(学はないようにみえるが)実はある」と、これまた率直に記されている。
この藩主、なかなかの「くわせもの」だったに違いない。
涼ヶ岡八幡神社を出て、県道34号相馬浪江線を南下する。
行き交う車もしだいに少なくなって、歩きやすい。
道沿いの民家や神社の屋根がところどころ崩れている。
2月の地震で損傷したのだ。
キョロキョロしながら歩いていたら、前方から鎌をもったおばあさんが、しっかりとした足取りでやってくるのが見えた。
僕を見とめるやいなや、深く刻まれたしわをニコニコさせて、声をかけてくる。
「●●△☆✖️*…?」
田舎の高齢者の言葉が聞きとりづらいことは、世界共通、よくあることなのだ。
僕はわりとこういうことには慣れている。
理解するコツは、話しかけてくる相手になりきること。
僕がこの土地の古老だったら、リュックを背負った旅人にこう聞くだろう。
「どこから来たのか?」「どこまで行くのか?」「ずっと歩いてきたのか、そしてこれからも歩いていくのか?」と。
はたして、その通りの会話が成立した。
「あれまあ、それはそれは」と、この先の道順を丁寧に教えてくれる。
「寒いのに大変、お気をつけて」
こう言って、おばあさんは去っていった。
おばあさんという存在は、なぜこうも人の心を温めるのか。
歩きながら考える。
おそらくそれは、人生という歴史を歩んできた末にたどり着く、懐かしさを含んだ「包容力」と言うべきものなのかもしれない。
「旧街道と似ているな。」
そう思いながら、冬の終わりの相馬街道を歩き続けた。
筆:渡辺マサヲ