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【第111回】みちびと紀行~日光街道を往く(日光街道の謎) みちびと紀行 【第111回】

街道旅の起点、日本橋の写真街道旅の起点、日本橋
日本橋にある「日本国道路元標」の複製の写真日本橋にある「日本国道路元標」の複製

2022年10月16日、6:30am。
また日本橋に帰ってきた。
ここは道路の起点、旅の起点。
姿・形が変わったとしても、日本橋が残されていてよかった。
ここに来ることで僕は街道の旅人に戻り、新たな旅へと踏み出していくのだ。

五街道(出典:日本史事典.com)の写真五街道(出典:日本史事典.com)

日本橋を起点とする五街道のうち、日光・奥州へ向かう街道を歩くのは、今回が初めて。
これまでなんとなく後回しにしていたのは、よくある日光街道の説明にモヤモヤしていたからだ。
「日光街道は、幕府を開いた徳川家康の墓所に向かう参詣道であったため、五街道のひとつとして重視されたのです。」
果たしてそうだろうか?と。
その違和感は、2021年の甲州街道の旅で、確かな疑問へと変わった。
練りに練られた軍事戦略の下で整備された甲州街道に対して、日光への「参詣道」というのは唐突すぎる。

参照:【第45回】みちびと紀行

家康が五街道の整備に着手したのは1601年、関ヶ原の戦いの翌年のこと。
その事業は早々と秀忠に引き継がれ、1604年、秀忠は五街道の起点を日本橋と定める。
大阪冬の陣の10年前のことで、いまだ徳川の天下が定まらない状況下でのことだった。
そして五街道は、次の順序で完成する。
東海道、日光道中、奥州道中、中山道、甲州道中。(「道中」は当時の呼び方。)
甲州街道は、江戸幕府がいよいよ危うくなったときの避難路としての役割が与えられたから、後回しとされたのは理解できる。
まずは、その避難路を利用することのないよう、鉄壁の守りを固めるのが優先事項だ。
となれば、なぜ日光街道は東海道に次いで二番目に整備されたのか?
あの実用主義者の家康が、日光への参詣道を優先させるというのは、どうにも腑に落ちない。

「遺体は久能山に葬り、葬儀を増上寺で行い、位牌は大樹寺に納め、一周忌が過ぎてから日光山に小さな堂を建てて勧請せよ」

こう遺言を残した家康は、五街道整備に着手した頃からこのようなことを考えていたのか?

久能山東照宮(出典:久能山東照宮HP)の写真久能山東照宮(出典:久能山東照宮HP)

その後鎌倉街道を歩き、関東・東北の地政学的なことを理解するにつれ、その理由がわかってきた。
結論からいえば、日光街道は、伊達家をはじめとする奥州勢の脅威から関東一円を防御するための「軍用道路」だったのだ。
家康は、その戦略上の重要性を認めた上で日光の地を選び、そこで守護神のように鎮座することを望んだ。
俄かに軍用道路を整備することは、仮想敵の神経を逆なでし挑発することになるだろう。
だから表向きは、家康公の墓参のための道普請ということにした。
こうすれば、どんなに街道整備に費用をかけようとも、「そこまでしなくても・・・」とは言い難くなる。家康公のご威光にケチはつけられないからだ。
日光街道は、日光東照宮ができてから重視された街道ではない。
日光街道が極めて大事な防衛線だからこそ、その戦略的重要性をさらに担保し整備を怠らないようにするため、日光に自らの霊を勧請するよう遺言したのだ。

家康の葬儀が行われた増上寺(出典:大本山増上寺HP)の写真家康の葬儀が行われた増上寺(出典:大本山増上寺HP)
位牌が納められている大樹寺、山門の向こうに岡崎城が見える(出典:Aichi Now)の写真位牌が納められている大樹寺、山門の向こうに岡崎城が見える(出典:Aichi Now)
関東の範囲(出典:コトバンク)の写真関東の範囲(出典:コトバンク)

古来、関東(江戸期以前は坂東と言った)と東北地方を分ける境界は、日光・那須連山と八溝山地の山並み、そしてその中間にある広大な那須野ヶ原とされている。
奥州勢の脅威に対する関東側の前線基地は、宇都宮だ。
奥州藤原氏の討伐に向かった源頼朝も、「奥州仕置」に向かった豊臣秀吉も、宇都宮に滞在した。
日光街道は、この宇都宮から江戸に向かう線上にある城(小山、古河など)や、兵站補給の要、そして要害となる河川(鬼怒川、渡良瀬川、荒川など)を結んでいる。
宿駅・伝馬の体制は、それら拠点間から先に整備が始まった。
街道は宇都宮から二手に分かれ、一方はそのまま奥州白河の関へと向かう奥州街道、もう片方は日光へと向かう日光街道となった。
日光街道は、途中の今市宿で、さらに日光例幣使街道、会津西街道に分岐し、前者は倉賀野で中山道に接続し、井伊家をはじめとして代々譜代大名が治める高崎藩へ、後者は北上して会津松平家が治める会津若松へと続いていく。
たとえ北方から宇都宮の砦を破って奥州勢がなだれ込んでも、いざとなればこれらの街道を通じて軍勢を繰り出し、敵の背後を脅かすことができるのだ。

埼玉県栗橋から茨城県古河へと利根川を渡った写真埼玉県栗橋から茨城県古河へと利根川を渡った

関東平野を流れる幾筋もの河川は、利根川に合流し、以前は東京湾に注いでいた。
もし敵が上流から下流へと軍勢を繰り出せば、一挙に江戸を突くことができる。
家康はこの川の流れを、現在のように銚子沖へと付け替えた。

参照:【第44回】みちびと紀行

さらに、鬼怒川の北東を流れる那珂川も、敵が利用できないように、その舟運の拠点・水戸に、水戸徳川家を置いた。
こうすることで、東関東の大河川の出口は、水戸徳川家が押さえる体制を整えたのだ。
この鉄壁の守りの前には、東北諸藩は矛を収めざるを得なかっただろう。
やがて圧倒的な力を持つ江戸幕府のもとで天下は泰平となり、軍用道路としての街道は、物流や寺社の参詣に向かう人々で賑わっていくのだ。

春日部にて、街道沿いには芭蕉の足跡があちこちにあった写真春日部にて、街道沿いには芭蕉の足跡があちこちにあった
東武野田線、街道脇に鉄道をよく見かけた写真東武野田線、街道脇に鉄道をよく見かけた

日光街道は総距離約142km、江戸からは3泊4日の行程だったといわれている。
単純に計算すれば1日35.5km。強行軍だが、なんとかやれそうだ。
思い返せば、いつも欲張りがちに歩いてしまうのが僕の悪い癖。
今回こそはのんびり行こうと思っていたけれど、長距離を歩きたくてうずうずしてきた。
しかも日光街道は、健脚・松尾芭蕉が歩いた「奥の細道」と多くの区間で重なっている。
競争心がむくむくと湧き上がる。
まあ良い。計画は大ざっぱに、その場その場で歩行距離もスピードも柔軟に決めていけばいい。
なんといっても、日光街道はほぼ平坦。
街道脇には、いざとなったら手軽に利用できる鉄道がずっと並走しているのだから。

日本橋三越前の写真日本橋三越前

さあ、出発だ。いざ、日光へ!
見慣れた日本橋三越方向の道。
日曜の朝の静かな都心の街を、新鮮な空気を吸い込みながら歩いて行った。

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