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【第45回】みちびと紀行~甲州街道を往く(日本橋~半蔵門) みちびと紀行 【第45回】

日本橋の写真日本の道路の起点、日本橋

2021年8月2日7:50am、僕は再び日本橋の上に立った。
前回の中山道の旅からすでに5ヶ月。
高まった旅への衝動を解き放つ時がきた。
さあ、これから甲州街道の旅をはじめよう。
一歩足を踏み出したら、懐かしい感覚が全身によみがえってきた。

甲府まで131kmの写真甲府まで131km

甲州街道は、江戸幕府によって整備された五街道のひとつだ。
この日本橋を起点として、甲府まで37次、さらにその先7次を経て、長野県の下諏訪までを結び、中山道に合流する。
宿場は全部で44宿、全長約208kmの街道だ。

参勤交代で甲州街道を利用した大名は、信濃の高遠藩、飯田藩、諏訪藩(高島藩)くらいのもので、大名行列の往来は少なかった。
甲州街道はほかに重要な任務を背負った道だったのだ。
東海道や中山道のように江戸と京都をつなぐのではなく、はたまた、日光街道のような参詣道でもない。
江戸と甲府をつなぐ意味とは果たしてなんなのか。

この街道は、将軍家の江戸城からの「避難路」として整備された。
家康が江戸に入る前、甲府は既に徳川の支配下に置かれ、甲府城が建造されていた。
城がほぼ完成した1590年、家康は秀吉から国替えを命ぜられて、城郭から見渡す限りの葦の原が広がる江戸城に入る。
捲土重来、江戸幕府を開いた家康は、幕府を盤石なものにするため、これでもかと言わんばかりの慎重に慎重を重ねた「仕組み」を随所に埋め込んだ。
この甲州街道という避難路も、そのうちのひとつだったのだ。
265年間も平和な時代が続くわけだ。

服部半蔵正成の写真
服部半蔵正成

主に東国の武将を仮想敵として、江戸城が攻め落とされた場合を想定した「退避シミュレーション」は次の通りだ。

将軍は半蔵門から脱出し、門のそばに屋敷を構えている服部半蔵と伊賀組の与力の導きで、全速力で甲州街道を西に逃れる。
伊賀者は、後方の追っ手を撹乱。
その間に、番町に住む一番組から六番組までの旗本「大番組」が、敵と一戦を交える。
沿道の四谷・新宿には、いざというとき砦として機能する多くの寺院が配置され、伊賀組、根来組、甲賀組、二十五騎組から成る「鉄砲百人組」が迎撃。
将軍はさらに甲州街道を西に逃走し、八王子で「千人同心」を従えて、徳川家直轄の甲府城にいったん入る。
頃合いを見て、富士川の舟運や身延道を使って一挙に南下。
そして駿府城にたどり着いて形勢を整え、反撃に出る、、、。

そんな「軍用道路」の痕跡を確かめてみたいという思いはある。
けれど、甲州街道を今回の旅のルートに選んだ一番の理由は、そこにはない。
この都会の閉塞感から抜け出して、さわやかな山々の景色を眺めながら旅ができそうだ、という期待があるからだ。

五輪のモニュメントの写真日本橋にも五輪のモニュメントが置かれていた

それにしてもこの季節、ギラギラと照りつける太陽の下を、なにを好き好んで歩いていくのか。
そんな自問自答は、オリンピックを見ていたらあっさりと吹き飛んでしまった。
すべての条件が整うことを待っていたら、いつ旅ができるかわかったものではない。
このコロナ禍の不思議な世の中が始まっても、世界のアスリートたちは不安と闘い、鍛錬を続け、大舞台でかくも美しく競技を行ってみせたではないか。
彼らが2021年の夏をとらえて自分史に刻んだように、僕もこの歩き旅を、この夏の最高の思い出にしよう。
日焼け止めを塗り、帽子を目深にかぶり、替えのマスクをポケットに入れれば準備万端。
さあ、旅のはじまりだ。

北町奉行所跡の写真北町奉行所跡

甲州街道は、五街道のうち、唯一江戸城に接する道だ。
日本橋を出てすぐ、コレド日本橋の交差点で右に曲がり、皇居方面に向かっていく。
東京駅日本橋口のとなり、大丸の社員通用口の脇に、遠山の金さんでおなじみの「北町奉行所跡」がひっそりと残っている。
甲州街道は、この前を通っていたらしい。
通勤の人々が行き交う東京駅構内の連絡通路を、遠山の金さんの鼻歌をマスクの下で口ずさみながら、丸の内に抜けていく。

東京駅丸の内側の駅舎の写真東京駅丸の内側の駅舎、深谷のレンガで造られた

レンガがふんだんに使われた丸の内側の駅舎は、いつ見ても優雅で美しい。
「このレンガの一つ一つが、あの深谷の工場で作られたのか」と、前回訪れた中山道の深谷宿を思い出して、いっそう愛着がわいた。
まじまじと駅舎を眺める僕の横を、オフィスに向かう人々が、日陰を伝いながら急ぎ足で通り過ぎていった。

和田倉門の写真和田倉門、江戸時代はここまで海だった

丸の内のオフィス街を抜けると、和田倉門に突き当たった。
伊達政宗が作った門で、几帳面に積み上げられた石垣が美しい。
「和田倉」の名前の由来は、海を意味する「わた」から来ているそうだ。
「わたの原」「わだつみ」の「わた」だ。
江戸時代は、日比谷の入り江がこの門の近くまで来ていたらしい。
ここが江戸時代の湾岸エリアだったのか。
ここから今の湾岸エリアまでの距離が、この大都会の歴史を物語っているように思えた。

日比谷に向かってまっすぐ進む写真日比谷に向かってまっすぐ進む

甲州街道は和田倉門を左に折れ、皇居の外堀に沿って一直線に伸びていく。
皇居の景色とは、なんと壮大なのだろう。
大都会の真ん中に、大自然があるようだ。
誰彼なしに、東京の街を自慢したくなる。
この景色、世界のアスリートたちにも見せてあげたかったな。

霞ヶ関の官庁街の写真桜田門の前にある霞ヶ関の官庁街

日比谷壕の角で右折し、さらに外堀の周囲を歩いていく。
左手に見える日比谷公園の緑がとぎれ、霞ヶ関の官庁街に変わった。
桜田門を過ぎると、とたんに皇居ランナーが増えてきた。
ここを走っている人たちは、ほかの場所で鍛錬を積んでからやってくるのだろうか、皆、均整のとれた体つきをしている。
全身に汗を浮かべながら、涼しげな顔で颯爽と走り過ぎていった。

三宅坂から見た桜田門の写真三宅坂から見た桜田門

桜田門から先は上り坂だ。
すれちがう皇居ランナーたちも、膝を痛めないように慎重に駆け下りていく。
三宅坂を、井伊直弼の屋敷があった辺りで振り返ると、桜田門の背後にそびえるビル群の向こうから入道雲がわきあがっていた。

半蔵門の高い土手の写真半蔵門の高い土手が見えてきた

国立劇場を左手に眺めながらさらに上っていくと、ダムのような高い土手をもつ半蔵門が見えてきた。
このあたりは武蔵野台地から続く尾根の突き当たりだ。

半蔵門の写真鉄柵の向こう、土手を渡ると半蔵門

半蔵門の警備は見るからに厳重だ。
この門は今でも鉄壁の守りを保っているのだ。
おそるおそる半蔵門の写真を撮る。

新宿通りの写真アスファルトが溶けそうな新宿通り

振り返ると、目の前にまっすぐ、「新宿通り」という名前で甲州街道が続いている。
時刻は9:20am、ペットボトルの水を口に含んだら、闘志がわいてきた。
さあ、行くぞ!
陽炎がゆらゆらと立つアスファルトの道を進んでいった。

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