【第105回】みちびと紀行~北国街道を往く(上原、田切、二俣、関山) みちびと紀行 【第105回】
11:00am、関川の関所をあとに、坂道を登っていく。
関川から先、上原、田切、二俣、関山、松崎、二本木、新井の8つの宿場は、「中山八宿(なかやまはっしゅく)」と呼ばれ、山の険しい地形に加えて濃霧や豪雪に見舞われる、北国街道の難所とされていた。
今はその季節ではないけれど、代わりにギラギラと真夏のような太陽が照りつけている。
気温は27℃まで上がり、坂道が終わる頃には額から汗が流れ出した。
街道わきに、「天神社」という上原(うわはら)宿の鎮守があった。
境内には、樹高約30m のスギの大木がずっしりと屹立している。
樹齢は千年を超え、豪雪地帯にも関わらず、枝に損傷はない。
長いこと、ここを通る旅人たちから、越後と信濃の国境の目印とされてきたそうだ。
易々と切り倒されてしまう木がある一方で、こうして大樹にまで育ったものがある。
同じ木として生まれ、いったいどこで運命を分けたのだろう。
境内には他に、「親鸞聖人袈裟掛けの松」がある。
伝承では、800年前に越後国府(今の直江津)に流罪となった親鸞聖人が、たびたび戸隠を訪れた際に、この松に袈裟を掛け休息したそうだ。
今ある松はその三代目、老木となった初代の松は昭和13年に伐採され、その幹を使って親鸞聖人の坐像を作ったという。
たまたま聖人の衣を預かった松は、こうして代々大切にされている。
木々たちは不動のまま淡々と、その運命をゆだねるのみだ。
天神社を出ると、妙高山が雄大に雲間から顔を出した。
こうしてまじまじと眺めると、溶岩ドームを持つ火山だということがわかる。
最後の噴火は推定2800年前、今も火口から噴気を出し続ける活火山だ。
なるほど、バブル時代にスキーでよく行った赤倉温泉の恵みは、この火山のおかげなのだ。
ゆるやかな坂道を下っていくと、草原の上に鳥居が立つなんともさわやかな神社が現れた。
「日本一之宮 スキー神社」、鳥居の扁額にそう書いてある。
滑降スロープのような参道を登ると、それなりに古そうな社殿があった。
昭和7(1932)年に建立され、雪と雨を司る雷神と、医薬・温泉の神「少彦名命」、そして、日本で初めてスキーの犠牲者となった酒井薫氏が神格化され祀られているとのことだ。
酒井氏は、この先の高田に本拠地があった日本スキー倶楽部のメンバーで、大正3(1914)年の1月、富士山のスキー登山に挑み、8合目に向かう途中で足を滑らせて帰らぬ人となった。
初めは「スキー神社」という名に違和感があったが、なるほど、そういうことか。
スキーというかつて日本になかった道具とスポーツに対する畏敬、関連する恵みへの感謝と犠牲者への哀悼。
歴史が古いといわれる多くの神社の建立経緯は、案外こんな風だったのかも知れない。
神社が建った頃には、スキーはすでに日本に定着した文化となっていたのだ。
近くに合宿所でもあるのだろうか、スポーツ選手のようながっしりした体格の青年が、お百度参りのように、草地の境内をぐるぐると走りまわっている。
すがすがしいその姿を見送り、神社をあとにした。
先ほどからずっと下り坂が続いている。
日本海までこのまま下る一方なのかと思うほどだ。
登山でもよく言われることだが、下りこそ足運びに気をつけなければならない。
まず第一に膝を痛めないよう、軸足の膝を少し曲げる。
かかとから着地するように足を出す。
これが長く続くと結構疲れる。
雪道だったら、スキーで滑降してさぞ楽ちんだろうと思いながら歩いていく。
スキーの発明は、案外こんなところからひらめいたのかもしれない。
田切宿に入った。
二俣宿との合宿(あいしゅく)で、白田切川と郷田切川に挟まれた交通の難所にある。
あちこちから涼しい水音がする。
近くの赤倉温泉は、田切宿の庄屋が高田藩に開発を願い出たのがそのきっかけだそうだ。
文化13(1816)年に開発に着手、妙高山地獄谷から約7kmの距離を500本の大竹で結び、引湯に成功したとのこと。
当時、妙高山は「宝蔵院」という寺が管理し、入山すら禁止されていたものを、高田藩が間に入って、温泉買い入れ金として800両、商売への打撃が予想される宝蔵院所有の関の湯への迷惑料300両、計1,100両を宝蔵院側に支払うことを条件に、話がまとまった。
以後は、運営を高田藩が担う日本唯一の藩営温泉となり、田切宿との合宿をなす二俣宿は、赤倉温泉への入口の宿場として栄えた。
藩も宿場も、この赤倉温泉によって財政が潤ったのだ。
長野県でよく見かけた「筆塚」が、ここでもあちこちにある。
「よみ・かき・そろばん」などの庶民教育が徹底していたに違いない。
庶民がアイデアを思いつき、そろばんをはじいて建てた企画をもとに、藩が実施、運営する。
そんな民衆の政策参加が、江戸時代にはあったのだ。
橋梁を渡る国道を見上げながら、谷筋の北国街道を進んでいく。
辺りに店はなく、飲み水の調達を心配し始めたところで、ちょうど「名水・大田切清水」の汲み場を見つけた。
残り少なくなったペットボトルの水を飲み干し、新鮮な清水で満タンにする。
さあ、これでひと安心。気持ちに余裕ができた。
きらきらとまぶしい田園風景を眺め、口笛を吹きながら歩いていく。
途中から、舗装が茶色に変色した道になった。
どうやら道の真ん中の消雪パイプから吹き出る水に原因がありそうだ。
(あとで調べたら、地下水に含まれる酸化鉄が原因らしい。)
雪国の暮らしを知らない僕にとっては、あらゆることが興味深い。
茶色い道にみちびかれながら、関山宿へと入っていった。
「関山神社」と刻まれた石柱が街道わきに立っている。
鳥居から石段を登っていくと、深い歴史を持っていそうな重厚な気配が漂いはじめた。
それもそのはず。この神社が創建されたのは和銅元年(708年)のこと。
山岳信仰の聖地、妙高山の里宮として裸行上人によって建てられ、神仏習合の修験道の拠点の一つとして栄えていたらしい。
名前は今でこそ「関山神社」となっている。
けれどかつては、神道の神々を仏の仮の姿と見なす本地垂迹説に基づいて「関山権現」と呼ばれ、江戸期以後は、天台宗の「宝蔵院」が別当として、この辺り一帯を所領化していたということだ。
ここには6世紀末に百済からやってきたと伝わる秘仏の観音菩薩像がある。
今年、善光寺の7年に一度の御開帳に合わせて、その仏像が公開されたそうだ。
同じく百済からやってきた善光寺の本尊・一光三尊阿弥陀如来とともに、この北国街道沿いに百済仏があることが興味深い。
そういえば、そもそもなぜ皇極天皇は、この地域に日本最古の仏像を移したのだろう。
( 参照:【第102回】みちびと紀行 )
日本海と内陸をつなぐこの古道は、今わかっている以上に、かなり重要な役割を果たしていたのかもしれない。
森の中の社殿に参拝し、境内をまわると、「重巡洋艦妙高 分祀記念碑」があるのを見つけた。
太平洋艦隊の軍艦「妙高」には、この関山神社の神霊が御霊分けされていたのだ。
以前、埼玉の氷川神社の境内で、軍艦「武蔵」の碑を見つけたことを思い出す。
( 参照:【第37回】みちびと紀行 )
この神社の霊験のせいか、軍艦妙高は終戦時まで使用可能な状態で見事に残った。
ただ、引き渡しを受けたイギリス海軍が扱いかねて、終戦を迎えたシンガポールで止水弁を開き、マラッカ海峡に沈んでしまった。
境内は結構広い。
「宝蔵院」の道しるべがある方向へ進んでいくと、歴代の院主が眠る墓所、続いてその下方にある宝蔵院庭園跡に出た。
ここにはかつて、南北に約31m、東西に約12mの寺があったが、明治初期の廃仏毀釈によって、見る影もなくなってしまった。
今は、庭園跡に残された縁石が、かつて寺が建っていた場所をむなしく示している。
鵜飼秀徳著「仏教抹殺」(文春新書)
廃仏毀釈については、山の辺の道にあった「内山永久寺跡」を見て以来興味をもち、その後いくつか文献を読んで調べていた。
( 参照:【第27回】みちびと紀行 )
日本人のメンタリティの片鱗が様々に現れていておもしろい。
日本での廃仏毀釈は、明治の元号になる直前の慶応4(1868)年4月、「神仏分離令」の太政官布告が出されたことを発端に、その後数年にわたって全国的に行われた。
もともとの主旨は、あくまでも神道と仏教を分離することにあって、明治政府は仏教の排斥を意図してはいなかった。
ところが、この解釈と実施方法が地域によって様々で、次第に、江戸時代に権力の側にあった仏教寺院を排斥する様相を呈してきた。
ある地域では、当時の為政者が主導する政策として強引に廃仏が実施され、またある地域では庶民の運動として廃仏が盛り上がり、あるいは、その陰で仏教を擁護し、ゆかりのものを守り抜くことも行われた。
僕は、歴史の遺産をないがしろにするような輩には腹が立つし、徹底的に廃仏を行った跡を見るのがつらい。
「ルサンチマン」とでもいうのか、憎しみが見え隠れする、その負のエネルギーがたまらないのだ。
その反対に、街道脇の神社の鳥居の横に、石仏がちょこんと並んで置かれているのを見ると、思わずにんまりする。
きっと当時の村人が、「一応、上からの命令には従いましたよ」と言わんばかりに神社の境内から石仏を移動させ、あとで申しわけなさそうにお供えしながらお参りしたにちがいない。
日本人とは、ときに熱を帯び過激に走ることもあれば、一方で融通無碍に振る舞うことも忘れない、複雑な民族なのだ。
時刻は3:20pm、関山宿をあとにする。
もうすぐ茶色に染まった街道を、傾いていく日が褐色に照らすだろう。
蛇行しながら続く坂道を、今晩の宿がある新井宿を目指し、足運びに気をつかいながら歩いていった。