【第99回】みちびと紀行~中山道を往く(坂本宿~軽井沢宿) みちびと紀行 【第99回】
横川の関所から約20分、上信越自動車道をくぐると、坂本宿が見えてきた。
時刻は12:50pm、増していく陽射しと傾斜のせいで、汗が吹き出す。
碓氷川と霧積川に挟まれた土地の上手から、道路中央寄りの水路をつたって豊富な清水が流れ落ちてくる。
そのゴボゴボという音が響きわたり、喉の渇きを誘った。
坂本は、寛永2(1625)年、幕府が住民を高崎藩と安中藩から移住させて、新たに作った宿場町だ。
その経緯には、参勤交代を取り仕切る各藩役人の、「裏方業務」の苦労がからんでいた。
大名行列は、他藩の行列とかち会わないタイミングでの通行を要求される。
大名同士が、もし出会ってしまったら大変だ。
一方が道を譲らなければ通れない細道であれば、どちらの側が道を譲るべきか、どちらが「格上」かが取り沙汰され、事と次第によっては、藩の威信に関わる事態となる。
碓氷の峠道と横川の関所、この2つの難所があるこの地域は、手配役人たちの頭痛の種だったのだ。
坂本宿の誕生は、彼らの心労を劇的に減らしたはずだ。
一直線の通りとその両側にずらりと並ぶ家並みは、見るからに計画的で、その秩序だった景観は、ハプニングを治め治めて進んできた実直な藩士たちには、頼もしく思えたことだろう。
宿場の利用は増え、やがて、本陣2軒、脇本陣2軒、最盛期の旅籠40軒と、大きな町に発展した。
時代は移り変わる。
幕末となり、賑わっていた坂本宿も、参勤交代の廃止で大名行列の往来が途絶える。
さらに明治となり、アプト式鉄道の敷設が追い打ちをかけ、町は急速に寂れていった。
明治41年の真夏、若山牧水は、軽井沢から碓氷峠を越え坂本宿に入った。
たった一軒の宿屋に無理を言って泊まったと、手記に残されている。
血管が養分を運ぶように、人や物の行き来あってこその宿場町。
当時23歳、昇り調子の牧水にとって、この町は、ただ秋の到来を印象づける場所だったようだ。
坂本宿を過ぎると、勾配がいよいよきつくなってきた。
ヘアピンカーブを始める国道18号線から外れ、「旧中山道」の道しるべに従って山道を進んでいく・・・
突然、獣害除けの電線に、行く手を阻まれた。
以前ここを通ったときにはなかったものだ。
昨年旅した甲州街道でも、同様のことに出くわしたのを思い出す。
ますます増えていく獣害、ますます忘れ去られていく旧街道。
地元の人からすれば獣害は死活問題だろうから、まあ仕方がない。
でもこの道、京都まで続いているんだけどなぁ。
と、ぼやきながら撤退した。
( 参照:【第61回】みちびと紀行 )
国道18号線に戻り迂回すると、この先の分岐を示す道路標識が現れた。
右折すれば、秘湯「霧積(きりずみ)温泉」まで行けるらしい。
角川映画「人間の証明」のワンシーンを思い出す。
立ち止まってあたりを見回していたら、廃線コース「アプトの道」がそばを通っているのに気づいた。
しかもその近くには、創業250余年という名物「力餅」のお店、「玉屋」がある。
旧中山道をそのまま通っていたとしたら気づかなかったはずだ。
偶然の発見をくれた、あの電気柵に感謝した。
力餅、買っていこう。
「はい、いらっしゃーい!」
店に入れば、椅子に座ってテレビを見ていたおばさんの元気な声。
12個入りの力餅を注文すると、「今作るから待っててねー」と奥に入っていった。
待っている間に、水をいただく。
「磨かれた水」とでも言うのだろうか、乾いた喉にスッキリと入っていく。
調子に乗って何杯もゴクゴクと飲んでいたら、「お待たせー」と奥からおばさんが出てきた。
お水、美味しいですね。
「そうでしょう。ここはやっぱり源流のそばだから。はい、どうぞ。」
力餅の包み紙には「碓氷貞光の力もち」とある。
足柄山の金太郎や、僕のご先祖様・渡辺綱と一緒に、大江山の鬼退治をした人物だ。
「安政遠足(とおあし)」では、ゴールの碓氷峠で、この餅が藩士たちに配られたそうだ。
碓氷峠に着いたら、僕もそこで、この力餅をいただくとしよう。
「今から登っていくの? まあ大丈夫か、日暮れ前には越えられるはずだから。 熊鈴は持ってる? え?持ってない? 熊が出るかもしれないよ。でもラジオとか音鳴らしていけば大丈夫だからね。」
元気なおばさんの言葉で力が出た。
口笛でも吹きながら歩いていけばいいさ。
では、行ってきます!
「いってらっしゃーい。途中で私たちが店やってた跡があるからねー。」
と、見送られた。
「私たち」とは、先祖の人々も含めての「私たち」だと後で知って、温かい気持ちになった。
峠道の入り口に着いた。
時刻は1:30pm、さあ、これから碓氷越えだ。
峠は標高956メートル、利根川水系と信濃川水系を分ける分水嶺で、降った雨は、一方は太平洋へ、他方は日本海へと流れていく。
横川と峠の標高差は、569メートル。
峠の向こう側の軽井沢との標高差は、わずか17メートル。
極端な片勾配になっているのだ。
群馬県側に力餅屋があるわけだ。
京都側から来る人は楽だろうなぁ、と羨みながら、口笛を吹くのもおっくうになって、延々と続く山道を黙々と登っていく。
江戸時代に整備された中山道は、それよりもはるか昔に都と陸奥国を結んでいた東山道をベースに作られた。
碓氷峠も古くから「境界」として意識され、万葉集にも何首か歌われている。
上野国の防人が防衛任務に向かう途中で、置いていく妻のことを思って歌った歌だ。
もう戻ることがないかも知れない。
碓氷を越える時に、そんな気分になったのだろう。
白村江の戦いに敗れた朝廷は、遠く離れた東国から防人を徴用し、最前線の九州・筑紫の国へと送っていた。
この道は、その防人たちが通っていった道でもあったのだ。
突然、眼下に坂本宿の街並みが広がった。
夢中になるというのはすごい。
いつのまにか、こんなに高くまで登っていたとは。
視界の限られた山道では得られない達成感が、ここでは感じられる。
辿って来た道を眺めて、胸にグッと来た。
「四軒茶屋跡」が現れた。
先ほど寄った玉屋さんのご先祖が、力餅を売っていた場所はここだ。
「大丈夫、日暮れ前には越えられますよ。熊が出るかもしれないから、口笛でも吹きながら行ってくださいよ。」
餅を頬ばる旅人に、そんなことを言って励ましていただろうか。
杉木立ちを抜けると、「山中学校跡」に出た。
明治11年、明治天皇御巡幸のときには、ここに児童が25人いて、25銭の奨学金が御下賜されたということだ。
ここには確かに生活の場があった。
その先には、錆つき棄てられたバス。
旅人の往来で活気があった頃の峠道を思い浮かべてみる。
それにしても、僕が峠を越えるあいだ、誰一人としてすれ違わなかった。
今や、この峠道は、それほど寂しい道になってしまった。
道幅が広がり、勾配も緩くなった。
車の轍がくっきりと見える。
時刻は4:00pm、峠道を登り始めてから2時間半、ついに碓氷峠に到着。
峠の熊野皇大神宮に参拝し、ここまで無事に来れたことへの感謝を伝えた。
この神社には、群馬県と長野県の県境が走っている。
社殿も、上野国側にひとつ、信濃国側にひとつずつ。
中央の拝殿の賽銭箱もひとつずつ。
納める税金の関係なのだろうか、ここまで徹底しているとなんだか人間界の都合に付き合わされているようで、神様に申し訳ない気がする。
あとで調べたら、群馬県側にあるのは新宮、長野県側は那智宮と、それぞれ別の神様を祀っているということで、問題はないようだけれど。
若い参拝客が結構いたのが意外だった。
おそらく軽井沢から車で寄ったのだろう。
長野県側のチャラチャラした神社に入って、お守りを買っていった。
「日本武尊・吾嬬者耶(あづまはや)・詠嘆の地」
群馬県側には、そう書かれた場所があった。
残念ながら眺めはそれほどでもない。
これもあとで調べてわかったことだが、5分ほど歩いた展望台にいけば、パノラマの景色が広がっていたらしい。
ヤマトタケルはこの場所で、相模灘に消えた妻の弟橘姫(おとたちばなひめ)を偲び、「あづまはや(ああ、我が妻よ)」と言った。
それ以後、これより東にある国のことを「あづま」と呼ぶことになったという。
「あづまはや」
妻を思ったヤマトタケルが、九州に向かった防人たちに重なる。
「あづまはや」
僕は僕で、日本橋から歩いてきた中山道の道のりを思った。
旅の終わりが近づいた。
軽井沢宿へと峠を下っていく。
あっさりと終わった坂道の先には、これまでとは全く違った華やかな街。
小型犬をベビーカーに乗せて、女性グループが闊歩していく。
パステルカラーの看板、気取ったお店、田原俊彦の唄に出てきそうな「テレフォンボックス」・・・。
場違いなところに来てしまった。
居心地の悪さに、追い立てられるように駅へと向かう。
さあ、急いで新幹線をつかまえよう。
5:30pm、軽井沢駅に着いた。
磯部温泉からここまで、所要9時間半、歩行数42,000歩、距離にして32kmの歩き旅だった。
駅の売店であわてて缶ビールを買うと、数分も待たないうちに東京行きの新幹線がやってきた。
火曜日の今日は、自由席がガラガラ。
シートを倒して、缶ビールを開け、今回の旅の余韻に浸るとするか。
あ、しまった。
そういえば、碓氷峠で「力餅」を食べるのを忘れていた。
玉屋のおばさんのことを思い出し、作り立てのうちにいただかなければ悪い気がする。
よし、ではここでビールと一緒に食べて、無事にゴールしたことを祝おう。
座席シートのトレーに並べた、軽井沢の地ビールと力餅。
異質なもの同士が、そっくりそのまま、上州から碓氷峠を越えて軽井沢へと抜けた旅路を物語っているようだった。