1. HOME
  2. みちびと紀行
  3. 【第92回】みちびと紀行~鎌倉街道を往く(街道の記憶)

【第92回】みちびと紀行~鎌倉街道を往く(街道の記憶) みちびと紀行 【第92回】

街道が住宅街に続いていく写真街道が住宅街に続いていく
瀬谷神明社、緑がまぶしい写真瀬谷神明社、緑がまぶしい

住宅が軒を並べる中を、街道が続いていく。
「私は800年以上も前からここにいるのです。」
そう主張しているかのように、伸び伸びとカーブを描きながら。

伐られた木は樹齢何年だったのだろう写真伐られた木は樹齢何年だったのだろう

何の木だろうか。大木の切り株が、街道脇でその存在感を示している。
この木が伐り倒されるまでには、いくつもの物語があっただろう。
区画を造成した人も、切り株を取り去ることまではしなかった。

今まであちこちの街道を歩き、こういう場面を何度も見てきた。
新しいものを作る。その引き換えに、何かを捨てる。
その決断までの葛藤の跡が、街道脇にはある。
きれいさっぱり「亡きもの」にするのではなく、何らかの痕跡を残して。
それは、「白」か「黒」、「ゼロ」か「百」という二者択一ではない、曖昧さを秘めている。
名残惜しさを残している。

日枝社の石仏と庚申塔の写真日枝社の石仏と庚申塔

街道沿いの日枝社には、高さ35mのケヤキが、空に向かって両腕を広げるように、たくましい枝を伸ばしている。

日枝社のケヤキ、樹齢300年、高さ35mの写真日枝社のケヤキ、樹齢300年、高さ35m

樹齢300年、江戸中期に植えられたものだ。
鎌倉街道ができたのは、当時からさらに500年以上も昔のこと。
その街道が今もここを通っていることは、ひとつの奇跡なのかもしれない。
「幻の道」とは呼ばれていても、確かに道はここにある。

参照:【第75回】みちびと紀行

曲がり角の柵の中に道祖神の写真曲がり角の柵の中に道祖神

曲がり角の道祖神が、柵で守られている。
これ以上の破壊に対して予防線を張るように。
いや、守られているのは道祖神ではない。
この道祖神と共にあった、地域の人びとの暮らしの記憶なのだ。

徳善寺の山門の写真徳善寺の山門
穏やかなお顔の六地蔵の写真穏やかなお顔の六地蔵

並木の参道の先に見事な山門のあるお寺が現れた。
「瀬谷山徳善寺」、曹洞宗のお寺だ。
弘治元年(1555年)の創建ということは、川中島の戦いが行われていた頃、戦国時代のことだ。
住宅街のど真ん中に、古いお寺が今も残っている。
このお寺の境内だった土地に人びとが移り住み、このお寺と共に暮らしてきたのだ。
寺が守り伝えているもの。
それは、信仰、地域の人びとのご先祖様、そして、彼らの記憶の中の風景だ。

鎌倉街道沿いに建つ新築の家々の写真鎌倉街道沿いに建つ新築の家々

街道沿いの分譲住宅に、引っ越し屋が荷物を運び入れていた。
子どもたちのはしゃぐ声が聞こえる。
「この道は鎌倉街道と云うんだよ。」
彼らが大きくなり、誰かににそうささやく日が、いつか来るだろうか。

相鉄線をくぐる写真相鉄線をくぐる

時刻は12:50pm、ここらで昼食にしよう。
住宅街から離れて、相鉄線・瀬谷駅の方向へと歩いていく。
さて、なにを食べようか。

昆虫食いかがでしょう?の写真昆虫食いかがでしょう?

駅の構内に入ると、今日開店したというお店があった。
店内にはずらりと並ぶ大型の自販機。
「悪魔のチリソース」「だし道楽」「昆虫食」・・・。
売っているものがユニークだ。こだわりの「角度」が違う。尖っている。
「昆虫食」の自販機を覗くと、「広島こおろぎ」「山形こおろぎ」「二本松こおろぎ」・・・同じこおろぎでも値段が違うのはなぜだろう。
日本人はおおかたの商品に飽きてしまい、こんなユニークなものでなければ、新たな消費欲を刺激することができなくなったのか。
話のタネに、この昆虫を昼食にしようかとふと思ったが、やめた。
歩いた後は、やはり炊き立てのご飯に決まりだ。
僕の消費欲は、目新しさなどではなく、直接、食欲に結びついている。

世野の原の鷹見塚の写真世野の原の鷹見塚

レバニラ炒め定食をたらふく食べ、中華料理店を出ると、駅前の通りの向こうに、築山のようなものがあるのに気づいた。
「世野(せや)の原の鷹見塚」と説明板が立っている。
慶長年間(1596~1614年)に徳川幕府によって築かれた鷹狩りの指揮所で、5代将軍綱吉の時代からしばらく「生類あわれみの令」で中断したものの、8代将軍吉宗の代に復活し、幕末までここで鷹狩りが行われていたそうだ。
鎌倉街道沿いでは、ここ以外に、武蔵野台地で鷹狩りの形跡を見た。
「いざ鎌倉」と武士が馳せ参じた道沿いで、ゴルフに興じる人々が会話を交えるように、舞い飛ぶ鷹の様子を見ながら、武士が武士らしく活躍していた古い時代の話をしていたのかも知れない。

地神塔三叉路の写真地神塔三叉路

再び、鎌倉街道へと戻った。
住宅街がまだまだ続いていく。
昭和の終わり頃から平成にかけて、農地から宅地へと一斉に造成されてできたような、よくある風景。
けれど面白いのは、そこにちらほらと、古い石仏や道祖神、地神塔、庚申塔の類が残されているということだ。
まるで、寝た子を起こさぬよう、そっとそのままにしておくように。
古いもの、新しいものが、一緒に風景におさまっている。
いっせいに変わるのではなく、徐々に少しずつ、新しいものへと入れ替わり、街道の景色としてなじんでいく。
明治維新と敗戦後に経験した「性急な新旧交代」「タテ糸の断絶」という例外はあれど、このじわじわとした新陳代謝の妙は、日本らしさの一面だろう。

この三叉路にも石仏や道祖神があった写真この三叉路にも石仏や道祖神があった
新築の家が建つと、セットバックで道が広がる写真新築の家が建つと、セットバックで道が広がる
中原往還の瀬谷問屋場跡にある宗川寺の夫婦銀杏の写真中原往還の瀬谷問屋場跡にある宗川寺の夫婦銀杏

「宗川寺(そうせんじ)」で中原街道と交差した。
この道は、江戸城と平塚中原(現在の平塚市御殿)の「中原御殿」を結ぶ、東海道の脇道だ。
江戸への近道でもあり、大名行列の煩わしさを嫌った、庶民の利用が多かった。
瀬谷の問屋場はこの辺りにあって、貨物の運送の仲継ぎをしていたらしい。

柳明地区には、かつて商家が並んでいた写真柳明地区には、かつて商家が並んでいた

境川のほとり、柳明(りゅうめい)地区を歩いていく。
川向こうは、「鎌倉殿の13人」の一人だった侍所の長官、和田義盛の領地だった場所だ。
江戸時代、ここは「江戸柳明(えどやなみょう)」と呼ばれ、街道筋に商家が建ち並んでいた。
先ほど歩いていた住宅街と違い、そこはかとなく懐かしさがこみ上げてくるのは、僕の子ども時代の風景がそこにあるせいか。
それとも、人びとが行き来した街道の形跡が濃厚にあるせいなのか。

東海道新幹線の高架をくぐる写真東海道新幹線の高架をくぐる
上飯田せせらぎ緑道が鎌倉街道沿いに整備されている写真上飯田せせらぎ緑道が鎌倉街道沿いに整備されている
石畳風の緑道が良い雰囲気の写真石畳風の緑道が良い雰囲気

東海道新幹線の高架をくぐった先へと、街道が続いていく。
「上飯田せせらぎ緑道」と名付けられた小径は、住宅街の路地を縫うように、石畳の模様の路面で僕を導いてくれた。

参照:横浜市泉区ホームページ

下飯田地区を歩いていく写真下飯田地区を歩いていく
田園風景の中を通る写真田園風景の中を通る

時刻は5:00pm。だいぶ日が傾いてきた。
朝の曇り空が、いつの間にか透き通るような青空となり、もうすぐオレンジ色に染まろうとしている。
下飯田地区に入ると、辺りはすっかり田園風景となった。
農業の担い手がいなくなれば、農地が造成され、ここも新しい住宅街になっていくのだろうか。

左馬神社の前の不動明王の写真左馬神社の前の不動明王
相鉄いずみ野線・ゆめが丘駅の前は、造成工事中の写真相鉄いずみ野線・ゆめが丘駅の前は、造成工事中

左馬神社の脇の道から鎌倉街道を離れ、今日のゴール、相鉄いずみ野線・ゆめが丘駅へと歩いていく。
駅前の売り出し中の分譲地には、新築の家がぽつりぽつりと建ち始めていた。
来年の後半、ここには大規模集客施設が出現するという。

参照:泉ゆめが丘大規模集客施設

今見ている風景は、やがて記憶の中だけのものとなる。

今日の太陽が沈んでいく写真今日の太陽が沈んでいく

5:30pm、ゆめが丘駅に着いた。
町田駅を出発してから所要10時間、歩行数43,000歩、距離にして約33kmの歩き旅だった。
境川と平行した道だったせいか、全区間が平坦な移動で歩きやすかった。

電車を待ちながら、今日の旅を振り返る。
出会ったもの、感じたことのありったけを、記憶にとどめるために。
そして次回迎えるフィナーレを、大きな感動で満たすために。

ページトップ