【第75回】みちびと紀行~鎌倉街道を往く(幻の道) みちびと紀行 【第75回】
2022年3月5日土曜日、8:55am、JR高崎駅の改札を出た。
近代的な駅の構内に、「上野三碑(こうずけさんぴ)」のレプリカが、古代文明の遺物のように佇んでいる。
1300年前の日本最古の石碑で、2017年に「ユネスコ世界の記憶」に指定された。
これから歩く道のどこかで、この石碑の実物に出会えるかもしれない。
昔むかしの「幻の道」、鎌倉街道のどこかで。
鎌倉街道が「幻の道」と呼ばれる理由はいくつかある。
ひとつには、鎌倉街道の道筋を定めた文献がないということだ。
そのルートを知るには、各地に残る伝承や、正安3(1301)年に成立した「宴曲抄」など、ごく限られた史料の中の、ごく限られた箇所に現れる旅の記録を頼るしかない。
そもそも、ルートは初めから定められてはいなかったのだろう、とも思う。
この道の方が、近そうだ、馬が走りやすい、水の補給ができる、川を渡りやすい・・・。
坂東武者たちが、そんな試行錯誤を繰り返して、だんだんに出来上がっていった道なのかもしれない。
二つ目には、そもそも使われていた時代が古い上に、室町時代以降の鎌倉の「求心力」低下で、鎌倉に向かう街道が衰退してしまったということがある。
鎌倉幕府が終わる1333年から江戸時代が始まる1603年までは、270年の時の隔たりがある。
江戸時代が終わる1868年から154年後が現在なので、それよりもさらに100年以上の隔たりがあるのだ。
江戸時代の人でさえ、鎌倉に関東の拠点があったことなど、遠い昔の言い伝えのようにしか思っていなかったのではないだろうか。
江戸幕府は、初期の頃から、江戸に向かう街道を積極的に整備していったから、人も物も新たに整備された道に従い江戸に流れ、鎌倉街道はますます脇役に追いやられていったのだろう。
三つ目には、「鎌倉街道はひとつではない」ということだ。
「鎌倉街道」という名前で呼ばれ出したのは江戸期以降のことだが、各地から「いざ鎌倉」と馳せ参ずるルートは様々だ。
鎌倉に向かう道であれば、どれも「鎌倉街道」になりえた可能性さえある。
しかも、鎌倉に向かう道だけに限らず、単に「古くからある道」ということで「鎌倉街道」と呼んでいるケースもあるらしい。
目の前にある道のことを、「ああ、この道は鎌倉までずっと続いているんだな」とか、「ああ、この道は鎌倉時代の昔からあったんだろうな」とか、そんな主観的な感じ方でとらえ、使われた呼称なのかもしれない。
そのようにとらえにくい道ではあっても、現在、「鎌倉街道」として明らかに知られている主要幹線がある。
「上道(かみつみち)」「中道(なかつみち)」「下道(しもつみち)」の3本だ。
上道は、鎌倉から瀬谷、町田、府中、所沢、入間、笛吹峠、児玉、藤岡を経由して高崎へ。
中道は、鎌倉から戸塚方面に向かった後、中山、荏田、二子を経て、渋谷・赤坂方面に向かう道と中野・板橋を経由する道とに分かれ、赤羽で合流。その後は、川口、岩槻、幸手、栗橋、古河へと向かう。
下道は、鎌倉から東京湾沿いを北上し、丸子に出た後、古東海道と同じく浅草へ。その後、松戸、柏、土浦、常陸国府へと続いていった。
今回、僕が、鎌倉の鶴岡八幡宮を目指して歩いていくのが、「上道」ルートだ。
この3本の中では、最も古い道で、鎌倉初期に成立した道だと言われている。
一方、「中道」「下道」に、幹線道の比重が移っていくのは、15世紀後半、「享徳の乱」によって「古河公方」が誕生してからのことだ。
鎌倉街道の「はかなさ」は、関東における拠点の移ろいやすさの反映、ひいてはその時代の統治の不安定さを表してもいるのだ。
街道歩きを始める前は、必ず予習することにしている。
特に、「幻の道」となると、事前の情報収集は欠かせない。
どんな特性を持った道なのか、その道の成り立ちの経緯を知っていれば、たとえ道を失ったとしても、その情報をもとにルートを推察することができるからだ。
福島県の相馬街道を歩いたときがそうだった。
その道が、奥州の「塩の道」と呼ばれていたことは、道を特定する際にとても役立った。
(参照:東北復幸漫歩 )
今回、この鎌倉街道・上道を歩くにあたって、大いに参考になった文献がある。
木村茂光氏の「頼朝と街道」という本だ。
この本を読んで、なぜ鎌倉街道が群馬県の高崎を一方の起点としているのかが、はじめてストンと胸に落ちた。
その理由はこうだ。
そもそも鎌倉は、古代の東西交通の基幹道路からは外れていた。
東西を結ぶ道として、僕らが真っ先に思い浮かべる「東海道」が主流になるのは、実はもっと後のこと、いくつもの大河川を制御し、渡河する技術が整ってからのことだ。
それまでの主要ルートは、京都と奥州の平泉を信濃国・上野国経由で結ぶ「東山道」だった。
都市は、物流とつながることでその求心力と成長力を得ることができる。
平泉の経済力は鎌倉を圧倒し、軍事力の源泉として大きな脅威だったのだ。
そこで、鎌倉から、東山道との結節点・高崎までを街道で結ぶことで、鎌倉が主要物流ルートとつながり、京都・平泉間の物の流れを鎌倉へと呼び込むことが可能となる。
そして、巨大都市・平泉を弱体化させ、東国の支配を盤石にすることができる。
これが鎌倉街道・上道が誕生した経緯だ。
それさえ分かれば、あとは何とかなるような気がした。
ルートがどのようにつながっていたかは、歩きながら確かめていけばいい。
僕は考古学者や歴史学者ではないのだから、「幻の道」をきっちりとたどることに意識を傾けることはやめよう。
すっかりと様変わりしてしまったであろう景色を眺め、道の変化や、街道の名残りを楽しみながら、昔の板東武者だったらどの道を通りたいと思うだろうかと、気持ちをシンクロさせながら進んでいけばいい。
さあ、歩こう。
天気予報によれば、今日は一日じゅう晴れ、気温は17℃まで上がるらしい。
高崎の市街地では、4月17日まで、「花のページェント」という、街を花で彩るイベントをやるそうで、今日はその初日だ。
行く先々で、職人さんが、花の飾り付けで大忙しだ。
テレビで必死に「コロナ禍」を叫んだとしても、季節ごとに花は咲き、花を愛でる人の心は変わらずにある。
マスクの下で笑いながら行き交う人びとを眺めていると、一時期ヒステリックになっていたことが、遠い過去のように思えた。
高崎駅から約10分ほどで高崎城址に着いた。
古くは和田城と呼ばれ、平安時代末期に、この地の豪族・和田義信が築いたのが始まりだ。
この辺り、遠い昔には「東山道」、江戸期以降は「中山道」として、東国と京都を結ぶ道が通り、しかも、ここから新潟県長岡市の寺泊までつながる「三国街道」が交差する。
和田城は、その交通の要衝を押さえる場所に位置しているのだ。
時代が降って、小田原征伐以後、徳川家康が関東入りし、慶長3(1598)年に家康の命で井伊直政がこの地に入ると、「和田」から「高崎」へと改名された。
土塁と堀に囲まれた内側には、高さ102.5mと、群馬県で2番目に高い高崎市庁舎と、公園がある。
飛んできて、水飲み場にたまった水をついばむ小鳥。
土塁の上に咲き誇る梅、桜の木の小さなつぼみ。
確実に、春が訪れている。
じっとハトを見守る親子に「平和」を感じながら、一方では、所領と一族が安泰であることを願い、一族の未来のために、命をかけて鎌倉に馳せ参じた武士たちを思う。
この街道を歩きながら、僕は何を発見し、何をつかみ取ることができるだろう。
「いざ、鎌倉!」
旅は始まった。