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【第88回】みちびと紀行~鎌倉街道を往く(武蔵野の道) みちびと紀行 【第88回】

住宅街を鎌倉街道が通る写真住宅街を鎌倉街道が通る

小平市小川東町から、津田塾大学がある津田町まで、鎌倉街道は、住宅街をまっすぐに突っ切っていく。
昔このあたりは、武蔵野台地の中でも特に水に乏しい地域で、旅人たちは相当難儀したらしい。
ところが江戸初期、一面のススキの原野だったこの武蔵野を一変させるできごとが起こった。
承応2(1653)年の「玉川上水」の開削だ。
多摩川の上流から武蔵野を横切って江戸まで、上水路を引くことが計画された理由は、人口が急増する大都市・江戸の水不足を解消するためだった。

多摩川取水堰に建つ玉川兄弟の像の写真多摩川取水堰に建つ玉川兄弟の像

指揮をとったのは、多摩川沿い農家、あるいは町人だったといわれる庄右衛門と清右衛門、後に「玉川」の姓を与えられた「玉川兄弟」。
2度の失敗の後、3度目の挑戦で、彼らはついに、多摩川の羽村から四谷までの高低差92.3m、全長42.74kmの水路を引くことに成功する。
江戸期だけでなく、明治・大正・昭和に至るまで、この上水路は、都民の主要な生活用水源だった。
今ある大都市・東京は、玉川上水の偉業なくしては語れない。

青いネットの向こうはブドウ園の写真青いネットの向こうはブドウ園

玉川上水完成の2年後、地域の郷士、小川九郎兵衛は、幕府から開拓の許可を得、玉川上水から引いた分水路によって新田開発に成功する。
小川村の誕生だ。
それ以後、ススキの原は、新興農業地帯へと変貌した。

街道沿い、青いネットの覆いの中には、なにやら果樹が植えられている。
巨峰、バイオレット、富士の輝き、紅伊豆・・・。
それぞれの木に掛けられた名札から、それがブドウの木であることを知った。
いったいどれだけ多くの品種を植えているのか。
隅々まで丹精された箱庭のような農園が、生産量よりも質や希少価値にこだわる「都市農業」の特徴を表しているようだ。
小川村誕生以来培われてきた開拓精神は、今も受け継がれている。

鎌倉橋を渡る写真鎌倉橋を渡る
多摩川から四谷まで玉川上水が続いている写真多摩川から四谷まで玉川上水が続いている
国分寺市に入った写真国分寺市に入った
信号機にスズメの巣があった写真信号機にスズメの巣があった

「鎌倉橋」を渡って、玉川上水を越えた。
その先は再び府中街道へとルートをとる。

恋ヶ窪はかつて宿場町だった写真恋ヶ窪はかつて宿場町だった
悲恋の逸話が残る姿見の池の写真悲恋の逸話が残る姿見の池

JR武蔵野線の踏切を渡り、「恋ヶ窪(こいがくぼ)」という地域に入った。
この辺り一帯は多摩川がつくった谷の一つで、水に乏しい武蔵野台地には珍しく湧水があり、原始から人が住み着いていた。
かつてあった鎌倉街道の宿場町には、「夙妻太夫(あさづまたゆう)」という遊女がいて、「武士の鑑」畠山重忠と恋に落ちた。

参照:【第81回】みちびと紀行

重忠はその後、西国へと平家との合戦に向かったが、留守中、太夫に横恋慕する男が、重忠は戦で討ち死にしたと吹き込んだ。
深く悲しんだ太夫は、「姿見の池」に身を投げたという。 自死は、愛する男性との思い出をも消してしまった。

JR中央線沿いの道の写真JR中央線沿いの道
桜色の道を行く写真桜色の道を行く
武蔵台遺跡公園を東への写真武蔵台遺跡公園を東へ
伝鎌倉街道を行く写真伝鎌倉街道を行く
ワクワクしながら切り通しを歩く写真ワクワクしながら切り通しを歩く

姿見の池のすぐそば、JR中央線・国分寺駅を越えていく。
「武蔵台遺跡公園」を東に行くと、「伝・鎌倉街道」の切り通しが現れた。
昔の街道の様子がそのまま残っているようで、しばらくタイムスリップした気分になる。
その先、視界がぱっと開け、「武蔵国分尼寺跡」が現れた。

武蔵国分尼寺跡の写真武蔵国分尼寺跡

8世紀中頃(奈良時代)、国内は相次ぐ飢饉や災害、疫病の流行で、人々は苦しんでいた。
聖武天皇は、仏教の力で人々を苦しみから解放するため、全国に国分寺(僧寺と尼寺がセット)を建立するよう命じる。
武蔵国では、国府(現・府中市)に近く、都へ通じる道・東山道武蔵路沿いでもあるこの場所に、国分寺を置くことになった。
武蔵国分寺は、全国の国分寺の中でもとりわけ大きく、敷地は東西1.5km、南北1.0kmに及ぶ。
奈良の東大寺が、東西・南北と各800mなので、それを上回る規模だ。

資料館にあった銅造観音像、白鳳時代後期(7世紀末)のものと推定の写真資料館にあった銅造観音像、白鳳時代後期(7世紀末)のものと推定

伽藍を構成する七重の塔は、その礎石から推定すると高さは68mだったというから、15階建てのビルに相当する。
昔、街道を行き交う人びとの目には、武蔵野のススキの原の地平線上に、この塔が忽然と姿を現す光景が映ったのだろう。
今も残っていたとしたら、東京観光では外せない見どころになっていたはずだ。
けれど、当時どんな事情があったかは知らないが、この古代寺院は、新田義貞軍が「分倍河原の戦い」で敗走する際に火をかけられ、灰燼と化してしまった。
義貞は、その翌年、お詫びとして黄金300両を寄進し、跡地に小さな薬師堂を建てたものの、壮麗な武蔵国分寺を灰にした史実は、そのまま後世に伝えられる。
鎌倉幕府を倒すという歴史的な大事業を成した人物でありながら、なんという汚点。
足利尊氏や楠木正成という「ライバル」と比較して、義貞が後代の人びとからかえりみられることが少なかったのも、この一件が大いに影響しているように思われた。

講堂跡のあたりの写真講堂跡のあたり

しばらく国分寺跡界隈をぶらぶら歩いた。
散った桜の花びらが地面を覆い、息をのむほどに美しい。
七重塔跡、金堂跡、講堂跡・・・。
人々は、それぞれの場所で桜を愛でながら、それがさも日常の風景であるかのように、静かに通り過ぎていく。

ここに七重塔があったことをこの子らは知っているだろうかの写真ここに七重塔があったことをこの子らは知っているだろうか
辺り一面、桜色だった写真辺り一面、桜色だった
東芝府中事業所の北門で街道が途切れる写真東芝府中事業所の北門で街道が途切れる
府中刑務所の写真府中刑務所

時刻は4:00pm。
鎌倉街道沿いの国分尼寺跡に戻り、今日のゴール、府中駅へと歩いていく。
激しく車が行き交う東八道路を渡ると、街道はその先、東芝府中事業所の北門でいったん途絶える。
かつての街道は、この事業所がある敷地の中を縦断していた。
北門を左に折れ、府中街道へと迂回すると、目の前には5.5mの塀に囲まれた日本最大の府中刑務所が現れた。
これが府中刑務所か・・・。
と、先へと進もうとしたところで、「そういえば」と思い踵を返した。
確かここは、僕がまだ幼い頃に大騒ぎだった「三億円事件」が起こった場所だったのだ。

三億円事件が起こった場所の写真三億円事件が起こった場所

「三億円事件」。 日本の犯罪史上、最大の謎の一つとされるこの事件は、昭和43(1968)年12月10日の朝、府中刑務所の北側の監視所付近で起こった。
東京芝浦電気(現・東芝)府中工場の従業員4,525人に支給されるボーナス2億9,430万7,500円を積んだ現金輸送車が、白バイ隊員に扮した男に、車ごとまんまと持ち去られたのだ。
当時の3億円は、大卒者の初任給で現在の価値に換算すると、約20億円に相当する。
犯人の目撃情報も、遺留品も多数あることから、当初、この事件は早期に解決するものと思われていた。
が、なんと、迷宮入りしてしまった。
その敗因は、つまるところ「思い込み」であったことが、数々の関係者の証言で明らかになっている。

日本犯罪史上最も有名な「モンタージュ写真」は、実在の人物の写真だった写真
日本犯罪史上最も有名な「モンタージュ写真」は、実在の人物の写真だった

その犯行当日は、奇しくも(?)警視庁の「歳末特別警戒」の初日。
各要所で迅速に検問が実施されたものの、犯人は捕まらなかった。
警察は、犯人が強奪した車で逃走を続けているものと思い込み、同型車種の車を発見することに力点を置いてしまったからだ。(実際、犯人は国分寺跡まで逃走した後に、車を乗り換えていた。)
事件の11日後、12月21日には「モンタージュ写真」が公開された。
ところが、なんとこの写真、通常のモンタージュ写真のように顔のパーツを組み立てたものではなく、容疑者として浮上した人物に酷似した実在の人物(故人)の写真にヘルメットだけを合成し、遺族にも内緒で無断でつくったものだった。
当時の捜査員は、この手配写真に似ているかどうかを大きな判断基準とし、それが実在の人物の写真だと知ったのはだいぶ後になってからだったという。
また、そもそも犯人の顔を見たとされる現金輸送車に乗っていた4人の銀行員も、警察に容疑者の顔を見せられて、記憶が引きずられた可能性が大だった。
「モンタージュ写真」の公開によって提供された膨大な情報は、かえって捜査を撹乱した。
124点にもおよぶ多数の遺留品も、これらの多くが盗難品であることがわかり、大きな労力と時間を割いたにも関わらず、決め手とはならなかった。
今にして思えば、この犯人は、「思い込み」という人間の特性を器用に操り、煙幕のようにして闇に消えてしまったのだ。
「思い込み」と「思考停止」は、ほぼ同義。
盤上のゲームのように、意図をもって使えば、相手の目をそらさせ、撹乱することもできる。
思い込みとは、かくも恐ろしいものなのだ。

僕らが今、そうだと思っていること。
それはいつから、どのような手続きで、そう思うようになったのか。
ときどき振り返って、確認した方がいい。
目を向けている(向けられている)方向に、真実は見つからないかもしれない。

ちなみに、事件の翌日、東芝府中工場の全ての従業員には、予定通りボーナスが全額支給された。
盗まれた約3億円には保険が掛けられていたからだ。
日本の保険会社は全額補償金を支払い、その保険会社も、海外の保険機関にかけていた再保険を求償し、直接的には日本国内で金銭的損失を被った者はいなかった。
この事件以来、日本では多額の現金輸送に対する危険性が認識されるようになり、従業員の給与・賞与の支給を金融機関の口座振込にすることや、専門の訓練を積んだ警備会社の警備員による現金輸送が一般化した。
銀行や警備会社、国税庁にとっては、「思わぬ幸運」だったはずだ。
事件捜査に投入された警察官は延べ17万1,346人、捜査費用は、時効が成立するまでの7年間で9億7,200万円にのぼった。
それも、すっかり平和であると思い込んでいた、日本社会にとっての「勉強代」だったのだろう。

府中街道を南への写真府中街道を南へ
府中駅前のケヤキ通りの写真府中駅前のケヤキ通り

時刻は4:50pm。
今日のゴール、京王線・府中駅にたどり着いた。
東村山駅から所要7時間半、歩行数42,000歩、距離にして32.3kmの歩き旅だった。
今日は武蔵野を歩きながら、今年最後の桜を見送った。
気温もぐんぐん上昇し、次回は初夏の陽気になっていることだろう。
鎌倉街道歩きの旅は、まだまだ続いていく。

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