【第63回】みちびと紀行~甲州街道を往く(上諏訪~下諏訪) みちびと紀行 【第63回】
放浪美術館への寄り道を終えて、再び甲州街道に戻った。
道沿いには、双体道祖神が増えてきた。
典型的な長野県の街道風景だ。
様々な夫婦のかたち。男女仲むつまじい姿が、素朴で温かい。
もうそろそろ諏訪の温泉街だろうか。
そう思っていると、つんと硫黄のにおいが鼻をついた。
見ると、甲州街道の脇に、小さな共同温泉浴場がある。
地元の人が日常的に利用しているものだ。
諏訪は、別府に次いで全国で2番目に共同浴場が多い。
けれど、近年は利用者が減少し、維持管理の問題から、次々に浴場が閉鎖されているらしい。
温泉好きは世の中に数多いるのに、なんとも残念な話だ。
おや、なんだろう。
「狼煙リレー」と群青に染め抜かれたのぼり旗が立っている。
「どうぞ、どうぞ」
写真を撮っていると、表に立っていた男性が家の中に招いてくれた。
男性の名前は、両角忠幸さん。
この家は「紫屋染工場」といって、明治9年築の古民家だ。
かつてこの近辺には、染め物店が軒を連ねていたのだ。
両角さんは、この家の二階に高校卒業まで住んでいて、その後東京で就職してから、再び戻ってきたそうだ。
歴史をつないできた古民家の味わいが、重厚で落ち着いた雰囲気を醸し出していた。
リレーの正式名称は、「第14回武田信玄狼煙リレー」。
今年は、武田信玄生誕500年記念という冠つきだ。
狼煙のリレーは、伊那谷の根羽村からスタートし、27市町村、66ヵ所の狼煙台をつないで、甲府の躑躅ヶ崎館まで伝達する。
総距離約300km。狼煙信号の到達まで所要約2時間。
武田信玄は、一方の国境で戦となり、また別の国境で新たな戦があったときも、すみやかに伝令が出せたという。
武田軍の機動力を担った重要な仕組み。
「速きこと風の如し」だ。
先ほどから、ブワォーと、重低音が鳴り響いている。
「今日は、ここで竹法螺を作っているんです。」
タケボラ?
「狼煙の合図に使う法螺貝の代わりです。実物を手に入れるのが大変なので、竹で代用するんです。」
音のする方向にいくと、庭で数名が竹法螺の吹き試しをしていた。
竹の尺の長さによってドレミの音階が違うのだそうだ。
この作り方はどこで学んだのだろう。
「私が自分で作れるんです。尺八をもう50年間やっていますので。」
聞けば、両角さんは、尺八全国大会の優勝者だった。
「副賞でこの尺八をいただいたんですよ。」
その30万円の値が付く尺八の音色を、しばらく聴かせていただいた。
一見シンプルに見える竹から、なぜこんなに多彩な音色が生まれるのだろう。
それでいながら人工的ではなく、もともと自然界にある音を集めたように感じられて、心が落ち着いた。
目の前にいるのは日本一の尺八奏者であるのに、たまたま訪れた旅人の前で、もったいぶらずに、ひょいと気楽に奏でてくださる姿が粋だ。
「ここを人が集まる場所にしていきたいんですよ。」
貸しコンサートホールや、展示コーナーを作って、「開かれた家」として、新たな命を吹き込んでいる。
一本の竹が様々な音を奏でるように、まだオープンしたばかりというこの場所も、様々なアイデアや工夫を持つ人々が集まっていくことだろう。
地元の人だけでなく、旅人もひょいと気楽に寄れそうだ。
伝統や文化の継承にも、こういった敷居の低さと柔軟さが必要なのだと感じた。
(参照:ビオレホール )
上諏訪宿の中心部に入っていく。
500mほどの一帯に風格のある酒造が次から次に現れる。
「諏訪五蔵」と呼ばれるらしく、霧ヶ峰の伏流水を仕込みに使っているそうだ。
立ち寄って利き酒したいところだが、空は今にも雨が降りそうな雲行き。
真澄、横笛、本金、麗人、舞姫。
銘酒たちの誘惑をふりほどき、早足で先を急いだ。
ぽつりぽつりと、雨が降り始めた。
傘をささずにはいられないほどになってきて、リュックの奥からしぶしぶ傘を取り出す。
さあ、こうなったら気持ちを切り換えよう。
ここから「雨もまた一興」と思うことにした。
そう思い始めたら、何ということはない。
自分はなぜ早足で歩いていたのか。ゆっくり行けばよいではないか。
理由もなく急いでいた自分が、滑稽にさえ感じられた。
ゴールはもう間近。残りわずかな道のりを、味わいながら歩んでいこう。
諏訪湖が見えてきた。
水と山のある景色はやはり心が落ち着く。
そんなことを考えていたら、山の辺の道を歩いたときのことを思い出した。
「大和し美し(やまとしうるわし)」
奈良盆地も、かつては大きな湖だったのだ。
オオクニヌシが譲った葦原中国(あしはらのなかつくに)とは、あの奈良盆地を中心とする大和地方のことかもしれない。
そのときそんな直感を得たのだった。
諏訪湖を眺めて歩いていたら、「ああ、なるほど」と新たなひらめきがあった。
国譲りの神話では、オオクニヌシの息子のタケミナカタと、高天原からの使者・軍神タケミカヅチが力くらべをする。
その対戦に敗れたタケミナカタが逃げに逃げ、最後に落ち着いた場所がこの諏訪ではなかったか。
大きな湖と青い山々。
故郷の大和地方とそっくりな風景をもつこの諏訪で、新たな国づくりを始めたのに違いない。
そう思いたい。
二つの石碑があった。
「明治天皇駐輦址(ちゅうれんあと)」と「南信八名所石投場」の碑だ。
ひとつは、明治天皇の巡幸の際に、ここから漁師たちの投網を上覧したことを示すもの。
そしてもうひとつは、旅人がこの場所から湖面に石を投げる娯楽があったことを示すものだ。
どちらとも、この道の真下まで諏訪湖があったことを物語っている。
道の下を覗いたら、眼下には中央本線の線路。その向こうに諏訪湖の湖面が見える。
諏訪湖はそれほどまでに縮小してしまったのだ。
諏訪湖だけでなく、ここを源流とする天竜川は、この先どうなっていくのだろう。
調べてみると、湖にも「一生」があるらしい。
流れ込む川が土砂を堆積し、湖底が浅くなると、水草が生え、沼と化す。
その後は尾瀬ヶ原のような湿原を経て、ついには草原になるという。
万物は生々流転。変化こそが自然の摂理ということなのだろう。
むしろ、今いる人間にとって都合の良い環境を維持しようとする試みは、大いなる自然に対する冒涜、思い上がりなのかもしれない。
人間も万物の一部なのだから。
「富部の一里塚」が現れた。
日本橋から五十三里目、甲州街道最後の一里塚だ。
いよいよ旅が終わる。終わってしまうのだ。
嬉しさと淋しさ、4:6、いや3:7の割合だろうか。
この道には、すでに「旅の友」と呼ぶべき愛着が湧いている。
とうとう、甲州街道の終点、下諏訪宿にたどり着いた。
まずは諏訪大社に参拝し、甲州街道の歩き旅を無事に終えたことを報告する。
そして最後、中山道との合流地点まで、一歩一歩大事に歩いていこう。
マラソンランナーがゴールのテープを目前にするように。
4:35pm、「甲州道中・中山道合流之地」に到達した。
今朝、原の茶屋にある入笠山湿原ユースホステルを出発してからここまで、所要9時間、38,374歩、距離にして39km。
そして目の前には、はるか京都に至る中山道が続いていた。
今日ははここで一泊して、熱い温泉に浸かり、諏訪の地酒を飲み比べといきたいところだ。
ただ、残念なことに用事ができて、今日のうちに東京に戻らなければならなくなった。
5:42pmにあずさ50号が下諏訪駅を出発する。これに乗ろう。
さて、それまでの1時間をどう過ごそうか、、、。
やっぱり温泉だ!
下諏訪宿には、温泉の銭湯が点在している。
そのうち、下諏訪駅にも近い「菅野温泉」に行くことにした。
大人240円。
ガラガラと浴場の引き戸を開けると、二人ほど先客がいる。
「こんばんは」とあいさつすると、「ウイィ〜」と、どうとでもとれる声が返ってきた。
熱めの湯に浸かっていたら、日本橋からここまでの道のり、そして出会った人々の顔が次々に浮かんできた。
激しく車が行き交う道、険しい山道、草原の道、子どもの遊ぶ路地、そのどれもが甲州街道という一本の道の姿だ。
そして、その街道沿いの人びともまた、甲州街道が見せる風景の一部なのだ。
下諏訪宿までの歩数は376,631歩、歩行距離にして290km。
甲州街道は約208kmなので、82kmは寄り道をした距離だ。
延べ8日間の日数なのに、なんだか長いこと旅をしていた気分になっている。
充実感とはそういうものだろう。
さあ、次はどの街道を歩こうか。
帰りのあずさ50号で、早くも次の歩き旅のことを思い描いていた。