みち旅100選 奥州武士の意地に触れる旅 新日本歩く道紀行100選 文化の道 奥州街道末の松山のみち
秀吉の天下統一 最後の抵抗勢力、九戸政実
枕詞である「末の松山」を読み込んだ句はいくつかあるが、西行がみちのくの春の訪れを詠んだ「春なれば ところどころは 緑にて 雪の波こす 末の松山」が思い浮かぶ。
※ 春になると、ところどころは緑色になって、雪のように白い白波の越える末の松山よ。」
西行は出家する前、佐藤義清といい平清盛と共に北面の武士であり、弓の名手でもあった。
武士(もののふ)中の武士、佐藤義清。武士繋がりから奥州の武士、九戸政実を連想してしまう。九戸政実の乱は、南部氏の後継を巡って三戸南部と九戸が争ったことに端を発する。精強な九戸勢に手を焼く三戸南部は次第に劣勢となり、秀吉に助勢を乞う。こうして、秀吉VS九戸政実の構図が出来上がる。
蒲生氏郷殿、いざ参る!
秀吉の命を受けた奥州仕置軍の総大将蒲生氏郷は、6万5千の軍勢で九戸城を包囲。対する九戸政実は、5千。圧倒的な軍勢に果敢に挑み難攻不落の九戸城と知略を駆使した九戸勢は10日間を戦い抜く。平安時代この地を治めていた阿部宗任が、朝廷の命により攻め寄せた源氏軍に仕掛けた奇策を模した策を用い蒲生氏郷の軍勢に大損害を与えた。奥州武士の心意気、ここに在りである。
ちなみに「末の松山」は、貞観地震の際、この地を襲った大津波が「末の松山」を越せなかったことになぞらえ、ありえないことを例えている。2011年、東日本大震災での大津波も「末の松山」を越えなかったとのこと。何か感慨深いものがある。
九戸城址
三方を川に囲まれた天然の要害。九戸政実は、米の籾殻を堀に撒く。地面と勘違いした氏郷勢は誘い込まれ鉄砲を撃ちかけられ大損害を生ずる。
古から後世へ
1000の道を歩く旅が、今はじまる。
秀吉覚悟。
奥州武士の意地、馳走仕る。
雄大な馬仙峡
金田一温泉と温泉がたり
二戸を代表する粉ものグルメ
ひっつみ
へっちょこだんご
銘品:浄法寺漆