1. HOME
  2. 東北復幸漫歩~歩くことで見えるコト~
  3. 【東北復幸漫歩 第10回】みちびと紀行~相馬街道を往く
東北復幸漫歩~歩くことで見えるコト~

【東北復幸漫歩 第10回】みちびと紀行~相馬街道を往く 東北復幸漫歩~歩くことで見えるコト~

静かに流れる川のように

二本松神社の写真駅前通りの突き当たりにある二本松神社

朝、目覚めると、しばらく自分がどこにいるのかよく分からなかった。
てっきり自宅で眠っていたかと思った。
シャワーを浴び、ホテルの部屋を出て、JR二本松駅前のコンビニへ朝食を調達に行く。
店は通学の高校生の集団で繁盛していた。
今日は、ここから歩いて約30分、二本松城まで行って、3日間歩き通した相馬街道「塩の道」の旅を終える。

二本松城郭全図の写真二本松城郭全図

二本松城は、標高345mの白旗ヶ峰を中心に、自然の地形を利用して築城された要塞で、「霞ヶ城」という別名を持つ。
二本松城へは幾筋ものルートがあり、いずれも急な坂を上ることになる。
中でも主要な登城ルートだった、奥州街道から大手門に通じる「久保丁坂」を歩いていくことにした。
二本松市街の商店街は、昭和の雰囲気が漂っていて、どこか懐かしい。
いかにも「老舗」という雰囲気の和菓子屋が並んでいる。
帰りにここでおみやげを買おう。

二本松訓練所の訓練生の部屋・JICA二本松の写真二本松訓練所の訓練生の部屋・JICA二本松

「懐かしい」といえば、そう感じる理由が僕にはもう一つあった。
今から24年前の1997年の春、当時29歳で、僕はこの二本松に「青年海外協力隊」の派遣前訓練で3ヶ月間滞在していたのだ。
訓練所は、安達太良山の中腹にあって、町からはずいぶん離れている。
当時は、インドネシア語をマスターするのに必死だったということと、そもそも訓練所から外出することが制限されていたこともあって、この町に下りてくる機会は限られていた。
それでも、ごくたまに訓練生同期や教官たちとお酒を飲みに来て、悩みごとや将来について語り合った。
町の人たちも、まるで親のようにあれこれ世話を焼いてくれたものだ。
この町にはそういう思い出が詰まっている。

新奥の細道の写真新奥の細道を歩いていく

久保丁坂を上りきると、「新奥の細道」と路面に書かれた道をみつけた。
調べると、これは「東北自然歩道」の別名で、東北6県の各県ごとに、自然の景観に優れたコースを作ってつないだ道らしい。

(参照:http://www.env.go.jp/nature/nats/shizenhodo/touhoku/

気持ちよさそうなので、この道を通って二本松城へ向かうことにした。

気持ちの良い道の写真気持ちの良い道だ

道は整備されていて歩きやすい。
多くのシニアの方々が朝のウォーキングを楽しまれていて、挨拶を交わしながら歩いていく。

安達太良山が顔を出した写真安達太良山が顔を出した

ちょっと道をはずれると、目の前に安達太良山が顔を出した。
いろんな思いがこみ上げてきて、しばらくそこにたたずんでいた。

見事な石垣の写真見事な石垣だ

二本松城に入った。
この城は、戦国時代の応永21年(1414年)に畠山氏によって築かれたのち、伊達、蒲生、上杉、松下、加藤氏とめまぐるしく城主が入れ替わり、江戸初期の寛永20年(1643年)に丹羽光重が入城してから明治期に至るまで、丹羽氏の居城となった。
領民は、加藤氏の代に重税や厳しい労役で虐げられていたらしく、領内から逃げるものが大勢出たと記録されている。
丹羽氏の代で改善されるものの、元来が寒冷な農業後進地域で、災害も多く、領民の暮らし向きも藩の財政も苦難の連続だったらしい。

二本松少年隊顕彰碑の写真二本松少年隊顕彰碑

二本松といえば、戊辰戦争で奮闘した「二本松少年隊」の逸話が残る。
会津の白虎隊とは異なり、当時は隊名がなく、「少年隊」という呼称は後からつけられたそうだ。
12歳から17歳の少年兵たちが、圧倒的な新政府軍の武力を前に、ひるむことなく徹底抗戦した。
愛する家族と仲間を守るため、そして「奥羽越列藩同盟」への信義のための戦いだったと言われている。
確かなことは、この戦いで、これからの新しい国づくりを担うべき多くの若者の命が失われたということだ。

僕は、日本史上、この戊辰戦争ほど大義のない戦を知らない。
新政府軍はもちろんのこと、天皇の下で新しい国づくりを行うことについては、幕府をはじめ、奥州列藩もすでに賛同していたのだ。
それこそ話し合いで回避できたはずのものなのに、いったい何のための戦だったのか。
どこかしら日本人らしからぬものを直感的に感じとってしまう。
はたしてそう思う人が多いのか、戊辰戦争の英雄と呼ばれる人は、新政府軍側に圧倒的に少ない。
庶民は分かっているのだろう。

本丸跡に近づいていく写真本丸跡に近づいていく

とうとう二本松城の本丸跡にたどり着いた。
自分で作った相馬街道のルートマップでは、相馬中村城を出発点として、ここをゴールとした。
相馬松川浦の塩田で作られた塩は、馬の背に乗せられ、この街道を辿り、二本松城下の塩問屋、大内久兵衛のもとに運ばれたと文献にはある
塩は食料の貯蔵に不可欠なものだったから、この塩は、慢性的に窮乏状態だった二本松藩で、多くの命を救ったことだろう。

本丸跡の写真本丸跡に着いた、ゴール!

本丸跡からは360度の景色が広がり、雪をかぶった安達太良山が目の前にどっしりと横たわっている。
中腹にゴルフ場のように見える開けた場所には、僕が青年海外協力隊の派遣前の訓練を受けていた「JICA二本松訓練所」がある。
透き通る空気を深呼吸しながら、24年前から今日ここに至るまで、辿った道のりを思い返す。
思えば、その後はずっと途上国の支援の仕事をしていた。
東日本大震災の時には、驚くほど多くの途上国の人々が、「今こそ恩返し」とばかりに、お金や物資を集めて、精一杯の支援をしてくれた。

(参照:外務省HPhttps://www.mofa.go.jp/mofaj/saigai/shien.html

一国の災害に対して、世界196カ国中、163の国と地域が支援したというのは、世界史上はじめてのことだろう。
大げさではなく、涙がこぼれた。
そういえば、あの訓練所では、東日本大震災の時に、近隣の自治体から避難してきた人々を数ヶ月間受け入れていたことを思い出した。
僕は国際協力機構(JICA)に勤めていて、避難者の支援に志願する自分の部下をこの二本松に派遣した。
一方で、行き場を失った派遣前の訓練生は、今はもうないJICA大阪で訓練を続行した。
その施設は、当時の政権の「事業仕分け」で民間に売却された。
思い返せば、あの震災は、被災地だけでなく「全国的な体験」だった。
日本人の多くが、その当時、自分はどこでどうしていたか、語ることができるはずだ。
一人ひとりが、相次ぐ混乱の中で、なんとか正常なリズムをとり戻そうと踏ん張っていた。

この男性とお話しした写真この男性とお話しした

本丸跡から東の方角に手をかざしてみる。
僕が歩いてきた相馬や飯舘村はどのあたりだろうか。
城郭のベンチの上で遠くを眺めていた男性に声をかけると、丁寧に教えてくれた。
男性は71歳で、毎朝自宅からここまで往復5kmの道のりを歩くことを日課にしていた。
「ふだん歩いているから5kgもやせたよ。飯がうまい。」とにっこりしている。
朝のすがすがしい雰囲気には似つかわしくなかったけれど、思い切って東日本大震災当時の話を切り出してみると、みるみるうちに眉間がけわしくなった。

「原発はあっちの方角で、あそこから、こぉんな感じで雲が来て放射能をまき散らしたんだ。たまったもんじゃない。」
ベンチから腰をあげて、当時の風の通り道をからだ全体で伝えている。
「そうなんですね」と相づちを打つことしかできなかった。
しばらくお話に聞き入っていると、「そういえば話し方違うけど、どこから来た?」と尋ねられた。
「実は東京からなんです。コロナとかで、東京から来たっていうと怖がられるかと思って言いそびれてたんです。」と正直に答える。
「コロナも原発も天災じゃなくて人災なんだ。間違いねぇ。」と言っていた。
確かにその通りかもしれない。
けれど、今まさにコロナをくい止めようと頑張っている人たちのことも知っているので、それだけは簡単に相づちは打てなかった。
なにか傍観者のような気がしたからだ。
、、、と、そこでハッとした。
あろうことか、福島第一原発の事故では、現場に残って、放射能の被害を最小限にくい止めようと、それこそ命がけで闘った人々がいたことを忘れていた自分に気がついた。

門田隆将著「死の淵を見た男」の写真
門田隆将著「死の淵を見た男」

当時の発電所の所長だった吉田昌郎氏をはじめとした69人の奮闘については、門田隆将氏の「死の淵を見た男」や、映画「Fukushima 50」に詳しく描かれている。
吉田所長の証言を借りれば、あのときの状況は、「飛行機のコックピットで計器もすべて見えなくなり、油圧もなにもかも失った中で、機体を着陸させようとしているようなもの」だったらしい。(出典:「死の淵を見た男」p.8)
奇跡としかいいようがない。
そして往々にして、奇跡は「人事を尽くした」あとにやってくるのだ。
当時の首相、菅直人氏に示された最悪のシナリオは、東京を含む250km圏が避難区域になり、5,000万人の避難が必要となるというものだった。
そうなれば日本はつぶれていたかもしれない。
なんとか爆発は回避できた。けれど「放射能をまき散らしてしまった」と吉田所長が悔やしがる場面が映画では描かれる。
きっとその通りの場面が、実際に現場ではあっただろう。
被害を最小限にくい止めるために、死を覚悟して踏みとどまっていたのだから。

吉田昌郎氏はその後、体調不良を押しながら4号機燃料プールの補強工事に携わり、人間ドックで食道ガンが発見され、2011年11月24日に入院、2013年7月9日に帰らぬ人となってしまった。享年58歳。
英雄とはこういう人のことを言うのだろう。

相馬街道全ルートの写真
相馬街道全ルート

東京に向かう新幹線の中で、この相馬街道の旅を思い起こす。
オススメ度を尋ねられたら10段階中「10」と答えるだろう。
四国遍路もいいけれど、一度この街道を歩いてみるといい。
過酷な自然環境、災害、原発事故、、、。
なんどもなんども打ちのめされて、そのたびに立ち上がる。
そんな性根の座った生き様の証が、街道のあちこちに残っている。
人々も風景も、概して物静かだ。
まるで「静かに流れる深い川」、その表現がこの街道をたとえるのにふさわしい。
あの東日本大震災から10年経ったとはいえ、いまだに復興中であることも理解できた。
緑のカバーで覆われた、除去土壌の風景は衝撃的だった。
原子力発電の是非については、僕自身考えをもっている。
けれど、ここでは触れないでおく。
ただ、今起こっているコロナ騒動で、「コロナを完全に抑え込むのか、コロナと付き合っていくのか」という議論には、どこかこれと近いものを感じている。
確かに言えることは、普段は立派なことを言っておきながら、土壇場ではヒステリックになった人々があの原発事故を抑えたわけではなく、覚悟をもって沈着に動いた「現場の人間」が日本を救ったということだ。

新幹線はまさに弾丸のようだ。
二本松から2時間ちょっとで、もう東京に着いてしまった。
長い冒険から戻ってきたような感覚を振り払うように、再び日常がはじまっていった。

JWA 健康ウォーキング指導士 みちびと マサヲ
筆:渡辺マサヲ
ページトップ