【東北復幸漫歩 第9回】みちびと紀行~相馬街道を往く 東北復幸漫歩~歩くことで見えるコト~
安達太良山をめざして
相馬街道ルートマップ(今回区間)
「塩の道」は山々の谷間をゆるやかに下っていく。
街道沿いに、風化した庚申塔や供養塔がぽつりぽつりと建っている。
その中に、誰が建てたのか、まだ新しい石碑があった。
「東日本大震災=後の世代に伝えるべし=」
子孫への戒めのために、思いを込めて彫ったのだろう。
街道を歩く僕が、数百年前の石碑を見て遠い昔に思いをはせるように、未来にここを通る誰かが、この石碑を見つけてメッセージを受け取ることだろう。
戸沢集落が見えてきた。その遠く向こうに安達太良山が顔を出している。
冬のモノクロームの世界に、光が射すようだ。
あの山のふもとに二本松がある!
雪を抱いた山の美しさと、ゴールを視界にとらえた喜びが重なって、気分が高揚する。
時刻は1:00pm。
戸沢集落の「道の駅ふくしま東和」の食堂で昼食をとる。
からだが炭水化物を欲していたので、素直にその欲求に従ってチャーハンとラーメンのセットでお腹を満たした。
今晩宿をとっている二本松駅前のホテルまでは、ここから約20km。
天気予報を確認すると、どうも雨が降りそうだ。
あわただしかったけれど、休憩もそこそこに、ふたたび道を歩き始めた。
戸沢集落から20分ほど歩くと、「白髭宿」に着いた。
ここは、相馬藩のお殿様が参勤交代で泊まる宿場町だった。
「宿場町」というよりも、今は「集落」と言った方がそのイメージに近い。
本陣だった「佐藤家」や、問屋だった「遠藤家」などが今も続いていることで、かろうじて往時の宿場町に思いをはせることができる。
相馬からここまでずっと「塩の道」を辿ってきた僕にとっては、ここに「本陣」と記されていることで、なにか勇気づけられる思いがした。
自分を「塩」に見立てた旅は、確実にゴールに向かっている。
白髭宿の外れに、なにやら大きな石碑のようなものが見えた。
近づいてみると、「夏刈の二十三夜塔」と呼ばれる、高さ5.4mの磨崖仏だった。
延享2年(1745年)に建立したというから、アメリカ合衆国が建国される前から、この街道脇で集落の人々を見守っていたことになる。
白髭宿の住人が作ったということで、おそらく仏師を雇わず自分たちで彫ったのだろう。
蓮の花びらの上に立ってはいるものの、仏様というよりはご近所の誰か女性をモデルにしたようだ。やけに親しみがわく。
「月待ち信仰」という全国的な民間信仰があって、二十三夜に仲間で集まって飲食し、お経を唱える儀式を記念して建てるものを「二十三夜塔」という。
通常はそこに勢至菩薩が彫られる。
それぞれに地域性があって、福島県一帯では、二十三夜には女性たちが集って安産や養蚕など女性に関わることを祈っていたらしいから、磨崖仏も女性のお姿になったのかもしれない。
道幅がしだいに狭くなっていく。
いったいどの道が昔の街道にあたるのか、よくわからなくなってきた。
ええい!と直感で進んでいくと、見過ごしそうな場所に道標を見つけた。
ただの岩にしか見えないけれど、その前に小さな木札が立っている。
「奥州西街道、十文字の道標塔、右は相馬・針道、左は二本松」
道しるべにしたがうと、やがて見晴らしのよい道に続いていった。
もし天気がよければ、目の前に神々しい安達太良山が見えるはずだ。
この道を通った旅人も、安達太良山を見つけて、旅の終わりを察したことだろう。
3:40pm、小浜の町に入った。
相馬街道の文献によれば、街道は、ここから二本松に向かう道と、南の本宮に向かう道とに分かれていたようだ。
相馬の松川浦から運ばれた海塩の多くは、ここから二本松の城下町に向かい、一方、参勤交代で江戸から本国に戻る相馬藩候は、奥州道中を北上して、二本松の手前の本宮からこの小浜に向かった。
ここには小浜城という、伊達政宗が1年間滞在していた山城がある。
畠山氏が居城する二本松城を攻めるための作戦行動をとっていたのだ。
城址らしき山が二つ見えたので、近くを歩いていた小学生に「小浜城ってどっちかな?」とにっこりと訊いたら、「わかりません」とドライに返された。
まあよい。
街道わきに、「畠山義継首さらし場」というおだやかではない案内板があった。
伊達政宗が家督を譲られて1年も経たないうちに、父の輝宗が畠山義継に拉致された。
逃亡中の義継を追撃した末、人質にとられた父もろとも義継を一斉射撃して、二人とも死なせてしまった。
その畠山義継の首がさらされた場所らしい。
昔見たNHK大河ドラマ「独眼竜政宗」で、渡辺謙扮する政宗が、隻眼をかっと見開きながら、北王路欣也扮する輝宗に銃口を向ける場面がよみがえってきた。
戦国時代とは、かくも過酷な世の中だったのだろう。どちらも生き残るために必死だったのだ。
雨粒がぽたりと落ちてきて、先を急がねばと行きかけたけれど、思い直して、戻って丁重に参拝した。
雨は幸い通り雨だった。
アスファルトのにおいが立ちのぼる街道を歩いているうちに、雲が流れて晴れ間が見えてきた。
火の見櫓のわきで、60代後半と思われる男性が、せっせと桑の木の剪定をしている。
挨拶すると、「やあ、どこから歩いているのかね」と立ち話になった。
桑の木は、今のうちに剪定しておくと、春になって葉が茂って収穫が増えるらしい。
二本松まで歩いていくことを告げると、「まだ距離があるけど、郵便局が見えたら右の道を進めば阿武隈川に出るから、迷うことはない。暗くならないうちに気をつけていきなさい」と教えてくれた。
振り返ると、飯舘村のあたりだろうか、歩いてきた方角に虹がかかっていた。
東北新幹線の線路を越えると、遠くに五重の塔が見えてきた。
やがて阿武隈川に突き当たり、河川敷に沿って歩くと、「安達ヶ原の黒塚」に着いた。
ここには人を喰らう鬼婆伝説があり、能や神楽や歌舞伎の格好の題材になっている。
伝説にはいくつかパターンがあって、鬼婆は観音様の力で稲妻に打たれて死んだとか、改心させられて仏教に帰依したとか、様々だ。
なじみが深いものは、日本昔話の「三枚のお札」バージョンだ。
元来、物語は口伝えのもので、旅人が諸国を渡り歩く際に、一夜の宿のお礼に「みやげ話」や余興として語られる側面があったから、語る人によっていろいろ脚色が加わったのだろう。
聞く側も、自分がより納得のできるシナリオへと修正を加えたにちがいない。
そのストーリーラインには、語り手と聞き手の倫理観や人情があらわれているのだ。
阿武隈川を渡るころには夕闇が迫っていた。
今晩予約している二本松駅前のホテルまであと2km、ラストスパートだ。
僕も慣れて「足ができてきた」のか、筋肉や骨に痛みはまったくない。
市街地の商店街が、どことなく懐かしい。
街並みの街灯を見るのは相馬を出て以来はじめてだ。
6:20pm、ホテルにたどり着いた。
飯舘村の宿泊施設を出発したのが6:00amだったから、所要約12時間、歩数は68,558歩、歩行距離に換算すると53.3kmだった。
明日は、このホテルから二本松城址に行ってゴールだ。
コロナ対策が行き届いたホテルで、部屋に荷物を放り出すと、しみじみと充実感に満たされていく。
このあと近くの商店でビールとつまみを買っておいて、風呂に入ったら、この部屋でひとり、ゴール手前の前夜祭をしよう。
熱い風呂で身体を解きほぐし、缶ビールを開けて、究極の一杯にありついた。
筆:渡辺マサヲ