【第125回】みちびと紀行~日光街道を往く(日の光) みちびと紀行 【第125回】
10:15am、杉並木を抜けて、日光市街地に入った。
「中禅寺温泉行き」「世界遺産めぐり」
東武日光駅前のバス乗り場では、観光客たちがそれぞれの行き先へと列を作っている。
ちらほら見かける外国人の姿に、3年間続いたパンデミックの終焉を思う。
長い夜が明け、静止していた世界は、再び動き出したのだ。
駅前から東照宮へと観光客でにぎわう街並みは、日光街道最後の宿場町「鉢石宿」だ。
「鉢石(はついし)」とは、鉢を伏せたような直径2mほどの石のこと。
奈良時代末期、勝道上人が日光に仏道修行の場をつくったとき、この石の辺りを中心に町が形成されたという。
路地裏にひっそりとあった鉢石は、四隅に結界が張られ、地中に災厄を封じ込めたフタのように、神聖なものに思えた。
日本の仏教は、古来より山岳信仰に結びついてきた。
下野国に生まれた勝道が、日光山に入り中禅寺を建てたのが延暦3年(784)のこと。
最澄が比叡山延暦寺を創建したのが延暦7年(788)なので、それよりも早かった。
都から遠く離れた日光山は、比叡山や高野山のように、朝廷との強い絆を持つことはなかったが、それを劇的に変えたのが、武州川越にある天台宗喜多院の住職、天海だ。
天海は、幕府の力によって天台宗を再興することを企図していたようで、それは、宗教勢力を管理下に置きたい幕府の利害と一致した。
そしておそらく、天海と家康は「長期計画」を立て、実施に移したのだろう。
まずは、家康存命中の慶長18年(1613)、「関東天台法度」によって喜多院と比叡山延暦寺を同等の格式の寺として位置付ける。
「東叡山」と改められた喜多院の山号は、やがて上野寛永寺に引き継がれ、幕府の庇護のもと、比叡山の力を凌駕するようになる。
さらに天海は、家康を祀ることで日光を聖地化したのち、107年(!)という長きにわたる生涯を閉じた。
この「仕掛け」は、のちに後水尾上皇の院宣として発動する。
日光山に「輪王寺」の寺号が下賜され、上皇の第三皇子・守澄法親王が関東に下り、「輪王寺宮」として日光山および東叡山の貫主となったのだ。
そして2年後、この「輪王寺宮」が比叡山をも束ね、天台座主となる。
以後、天台宗の重心は完全に関東に移り、幕府の庇護のもと再興されるのだ。
家康と天海、この二人の人物によって、かつて白河上皇も信長も手を焼いた比叡山延暦寺が、平和裡に幕府のコントロール下に置かれることとなった。
宗教勢力という火種をも未然に防ぐ策を講じていたことに、家康の緻密さ、スケールの大きさを思わずにはいられなかった。
大谷川に架かる「神橋」を越え、いよいよ日光山へと足を踏み入れる。
あちこちで見かける外国人は、おそらく旅行客の1,2割を占めるだろう。
東京から日帰りで行ける世界遺産であること以前に、日光は従来から外国人にも相当知名度の高い観光地なのだ。
「日光を見ずして結構と言うなかれ」
その格言は、ドナルド・キーン氏が学んだ米海軍の日本語教科書にも書かれていたらしく、彼も初めて日本の土を踏んだ時、当然のように日光を目指したそうだ。
終戦の年の12月の寒い日のことで、東照宮の極彩色が雪に覆われてかえって良かったと、彼の著書には記されていた。(参照:PHP研究所「私が日本人になった理由」p.45)
日光、東照宮、陽明門……
この世を照らす太陽にちなんだ名前が続く。
おそらく「輪王寺」も「日輪」と関連しているのだろう。
極彩色で塗られていた陽明門は、長い年月のおかげで渋い色合いに落ち着き、日光の建築物を酷評したドイツの建築家、ブルーノ・タウトも、今であったならそれほど批判はしなかったかもしれない。
( 参照:【第96回】みちびと紀行 )
ただ、かと言って、日光杉並木のように、心静かに鑑賞できる場所とも言えない。
それぞれに意味を持たせた装飾、あちこちで鳴り響くシャッター音、人のざわめき……
そういったことに気を取られて、日光街道のゴールに辿り着いたという感動がなかなか湧き上がってこない。
いやはや、どうしたものか。
行列にくっついて、家康公の遺骸の上に立っているとされる宝塔を見に、奥社へと登る。
この宝塔は、昭和40年(1965)の東照宮350年祭を機に公開され、それ以前は見ることができなかった。
熱心に東照宮に参拝した江戸期の人びとが拝めなかったものを、こうして気楽に訪れた現代人が目にするというのも、虫が良すぎて少々申し訳ない気がする。
宝塔は、僕の地元の久能山東照宮にあるものと瓜二つ。
これまでどちらの宝塔の下も掘り返したことはなく、実のところ家康公の遺骸はどこにあるのかよくわかってはいない。
けれど、この日光に家康公の魂があることにした方が何かと都合が良かったのだ。
ここまで日光街道を歩いて来て、そう納得する。
「日光山に小さな堂を建てて勧請せよ」
本来はこの奥社だけで家康の遺言を果たせていたはずが、家光の代になって豪華絢爛な東照宮を建造することになったのは、家康にとって想定外だったかもしれないが。
万事おさまるのであれば、いかようにもせよ。
長く続く太平の世を実現させることに執念を燃やした家康公は、きっとあの世でそう思ったことだろう。
さて、宝塔も拝んだことだし、日光街道の旅もそろそろ終わりにしようか。
せわしく人の行き交う場所から離れ、落ち着いた道を探して家光の廟所・大猷院へと向かう。
ひょいと道を外れると、なにやら事務所のような場所(日光社寺文化財保存会)があった。
辺りに人の気配はなく、ようやく一息つくと、説明板がぽつんと立っているのに気づいた。「旧奥社唐門・旧奥社鳥居」
両方とも昭和42年(1967)に土中から発掘されたもので、慶安年中(1648〜1652)に銅製のものに建て替えられるまで、ここにある寛永年間の石造りのものが、奥社にあったというのだ。
草むす小道を進んでいくと、誰かが来るのを待っていたかのように、鳥居、続いて唐門が現れた。
それは、先ほど列を成して登った奥社に勝るとも劣らない、圧倒的な存在感をもって心を揺さぶった。
ここがゴールだ。
旅の達成感とその余韻が、ようやく訪れた。
おや?ここにあるのか。
芭蕉の句碑が、鳥居のそばに建っている。
『おくのほそ道』の日光の章にある句だ。
実際は、芭蕉が日光に着いた日は小雨が降ったり止んだりする曇りがちの天気だったと、門人・曾良は記しているから、この句はその日の様子を忠実に表したものではない。
ではなぜ芭蕉は、ここで日の光が射す句を『おくのほそ道』に挿入したのだろう。
僕はこう思うのだ。
この句は、日光で作られたのではない。
『おくのほそ道』の旅を終えて、しみじみと回想しながら湧き上がってきた句なのだ、と。
この句の前段にはこうある。
芭蕉は旅を終えて、そのことが限りなく尊いと思えたのだ。
1644年、伊賀上野に生まれた芭蕉は、祖父母や村の古老たちから、戦に明け暮れた時代のことを聞いていただろう。
もし家康によって天下が定まらなかったら、芭蕉も安全に旅することなどできなかった。
そして旅をすることによって、民が穏やかに暮らし、気ままに移動することができる世のありがたさを思い、それを実現した家康公のことを、あたかも陽光のように「あらたふと(ああ尊い)」と思ったのだ。
家路に就き、3:00pm、東武日光駅に着いた。
全行程5日間に及んだ日光街道歩き旅が終わる。
全歩行数は278,587歩、距離にして225kmに及んだ。
車窓に広がる関東平野に沈む夕日。
「ああ、尊い」と、感動が湧き上がった。
ここまで無事に街道歩きの旅ができたこと。
そして、先人たちが繋いできた、この道のことを。