【第117回】みちびと紀行~日光街道を往く(越谷~杉戸) みちびと紀行 【第117回】
10月17日月曜日、東京メトロの一番列車に乗って、前回の終了地点、北越谷駅に着いた。
6:20am、駅の向かいの牛丼屋で朝ごはんを食べているうちに、駅前広場にはラジオ体操をする人々が続々と集まってきた。
ラジオ体操は、日本が誇る「健康文化」だ。
それは、かれこれ60年以上も続けている90歳間近の僕の両親を見ていればわかる。
運動自体の効果はもとより、毎朝決まった時間に起きていそいそと出かけ、集まる人々となんやかやとおしゃべりし、ときに和菓子や甘酒を作って配ったりしているのが良いのだと思う。
活動的なシニア世代を眺めていると、こちらまで元気になる。
あんなふうに歳をとりたい。そう思えば、老いに向かう焦りもいくぶん和らぐ。
まあ、しばらく抗ってはいくけれど。
さあ、街道を歩き出そう。
日光街道が、早朝の街並みに続いている。
歩き出してからほどなくして「越谷市環境保全区域」の案内柱、その奥に立派な和風の門があった。
宮内庁の「埼玉鴨場」への入り口だ。
この門の向こうには約12,000平方メートルの「元溜(もとだまり)」という池があり、毎年2千羽を超える渡り鳥が飛来する。
「内外の賓客接遇の場」として使われていて、招かれた閣僚や各国の外交使節が、野生のカモを捕獲する行事があるらしい。
訓練されたアヒルが引掘にカモを誘導したところを、各々が手持ちの網を使って捕らえるのだそうだ。
野生のカモを無傷で生け捕るこの技法は、江戸時代から代々将軍家に伝わってきたもので、その後は天皇家が引き継いでいるのだという。
( 参照:宮内庁HP )
血を流さないこと、伝統技術の継承、いかにも皇室らしい。
さて、捕獲した野生のカモの末路は・・・?
鴨肉として美味しくいただくのかと思いきや、なんと、「国際鳥類標識調査」の一環で、標識(足環)をつけて放鳥してしまうのだそうだ。
「もったいない」と感じつつも、はるかロシア辺りまで帰っていく鳥たちのことを思えば、そのロマンを味わうことの方が趣深く、歌の一首も詠めそうで価値あることかもしれないと思い直した。
ここまで日光街道を歩いてきて、少し物足りなく思っていたことがあった。
それは、道に「旧街道らしさ」があまり感じられないということ。
国道4号線によって「上書き」されてしまった区間が多いのだ。
幅広で直線の道はなんとも味気ない。
けれどここから先は、旧街道の面影がときどき現れ始める。
ゆるくカーブを描く道、隅に追いやられた石仏たち。
街道歩きでお馴染みの風景を見るたびに、この街道への親しみが増していくのを感じた。
春日部市に入った。
国道4号線を黙々と歩く僕を、自転車通学の高校生たちが次々に追い抜いていく。
やってくる学生たちの自転車のスピードは、時間が経つにつれて明らかに速くなり、8時を過ぎてからは、彼らの形相がいよいよ険しくなってきた。
僕も高校時代はあんなふうだったな。
遅刻するまいと必死にもがく姿が、誠実で純粋に思える。
計画性という点では早起きする生徒に及ばない。
けれどそのもがきは、水の流れのように、あきらめない限り、いずれどこかに繋がっていくはずだ。
力強くペダルをこいで走り去っていく制服姿に、心の中でエールを送った。
東武野田線の高架をくぐり、やがて粕壁宿に入った。
宿場の入口には、芭蕉と曾良が泊まったと伝わる「東陽寺」がある。
後で知ったが、彼らの宿泊地に関しては諸説あるらしい。
今では「かすかべ大通り」と呼ばれる旧日光街道は、歩道も広く綺麗に整備されてはいるが、昔日の面影もしっかり残っている。
ここが宿場町であったという、住む人の意識がそうさせるのだろう。
街のあちこちに、歴史や伝統を大事にしようとする思いが感じられ、歩くのが楽しい。
自らのアイデンティティを愛する人物と付き合うのは楽しい。それと同じ理屈だ。
春日部市郷土資料館がちょうど開いたので立ち寄った。
「かすかべ」という地名の起こりは定かではない。
けれど、平安時代末には土着した紀氏の一族が「春日部氏」を名乗ったということだから、もともとは「春日部」という字を当てていたのだろう。
それが、江戸中期以降はなぜか「粕壁」と書かれるようになり、明治、大正期まで続いた。
ようやくもとの「春日部」という字に戻るのは、昭和19年の「春日部町」の誕生以降になるとのことだ。
春日部(粕壁)の町が本格的に整備されるのは慶長から元和3年(1596〜1617年)にかけてのこと。
家康が江戸に入府してからの大事業、「利根川の東遷」がこの地域を劇的に変えた。
( 参照:【第44回】みちびと紀行 )
それまで乱流し、氾濫を繰り返していた利根川と荒川の流路を分離させ、利根川の本流を鬼怒川の支流につなげて太平洋に放出することで、河川の流れを安定させた事業のことだ。
これによって春日部では大規模な新田開発が始まり、米の生産量が著しく増加した。
人口も大いに増えたことだろう。
生産された米穀は、安定した河川の舟運によって大消費地・江戸へと運ばれ、物資の集積地となった河岸場近辺には、商家や問屋が集まって栄えた。
そんな往時の光景を思い浮かべながら、大落古利根川(おおおとしふるとねがわ) の川べりをしばらくそぞろ歩いた。
粕壁宿を出て、さらに街道を北上していく。
小渕追分を過ぎると、見るからに古そうなお寺が現れた。
「小淵山観音院」といって、開基は760年前の鎌倉時代だという。
代々この寺に伝わっている話では、芭蕉と曾良はこの寺に宿泊したということだ。
はてさて、彼らはここに泊まったのか、粕壁宿の入口にあった東陽寺に泊まったのか、それとも他に宿を得たのか。
いずれにせよ、そんな話が複数の場所で伝わっているところをみれば、芭蕉は当時から有名人だったのだろう。
引く手あまたで、宿探しにも不自由しなかったに違いない。
さて、ではここから先はどこに泊まったのかと思いきや、二泊目は、はるか遠くの間々田宿だった。
千住からここまでの距離よりも、ここから間々田までの道のりの方がいっそう遠い。
そして、僕が今晩泊まる場所は、間々田の手前、古河宿だ。
芭蕉と曾良がどれだけ急いでいたのか、そして彼らがどれほど健脚であったのか、このあと身をもって思い知ることとなる。
国道4号線をひたすら歩き、杉戸町に入った。
ちょうど北緯36度00分に位置する町ということで、「すきすきすぎーと36」と陽気に名付けられた路側帯には、地球儀のモニュメントに、テヘラン、ジブラルタル海峡、ナッシュビル、ラスベガスなど同緯度線上の地名が並んでいた。
鎖国中の江戸期の庶民は、「外国」というものを果たしてどれだけ意識していたのだろう。
地球が丸いということを、すんなり受けとめただろうか。
遠い場所へのあこがれは、いったいどの範囲までだったのだろう。
日光街道5番目の宿場町、杉戸宿に入った。
かつては「杉戸駅」という名だった鉄道駅は、今は「東武動物公園駅」になっている。
1981年、線路の向こう側に動物公園ができて町の「重心」が移ったせいなのか、日光街道沿いは都市化の波を受けることなく、静かで落ち着いた街並みが続いていた。
正午になった。
そろそろこの辺りで脚を休め、昼食といこうか。
と、キョロキョロ歩くうちに、またしても車往来の激しい国道4号線に出てしまった。
ちょうどそこは、「飲食チェーン銀座」みたいな場所で、見知ったチェーン店が高々と看板を掲げ、選りどり見どり。
結局また、とんかつの店に入った。
今日のお宿までの距離を確認すると、古河宿まであと18km。
たどり着く頃にはおそらく日が暮れているだろう。
芭蕉たちは、さらにその先まで歩いていったなんて・・・。
ごはんをかきこみ、今一度、気持ちを奮い立たせる。
さあ、とにかく歩き続けよう。
歩みを止めない限り、かならずたどり着くのだから。
そう念じながら、国道4号線を進んでいった。