【第116回】みちびと紀行~日光街道を往く(荒川土手~越谷) みちびと紀行 【第116回】
荒川を越え、日光街道は庶民的な街並みを北上していく。
街道脇に「増田橋跡」の碑を見つけた。
川は見あたらないが、ここにあった水路は暗渠になったらしい。
千住宿からこの先の越ヶ谷宿までの区間はかつて湿地帯で、日光街道ができた当初、街道はこの地帯を避けるように千住の先で一旦東へ抜け、まわりこむようにして越ヶ谷へ抜けていた。
氾濫を繰り返す幾筋もの河川を土手や水路で制御して、ようやくこの一帯が定まったのだ。
やがて足立清掃工場の煙突が見えてきて、県境の毛長川を越えた。
埼玉県に入ったのだ。
時刻は2:00pm、そろそろ脚を休め、食事にしようか。
ちょこちょこ食べながら歩いてはきたけれど、「栄養補給」と「食事」は別もの。
美味しいものをゆっくり味わいながら、食べることを楽しむとしよう。
とにかく、あつあつの美味しいご飯が食べたい。
そう思いながらキョロキョロすると、運良くとんかつ屋を見つけた。
とんかつ屋のごはんは美味い。僕の経験知は、今回もその正しさが証明された。
サクサクの衣、柔らかな肉、ツヤツヤのご飯、にこやかな店員さん、笑い声。
食事とは、さりげない日常の幸福を実感するための、神聖なひとときなのだ。
ごちそうさま。
時刻は3:00pm、日光街道2番目の宿場町、草加宿に入った。
もともとここに宿場はなかったが、大川図書という浪人が中心となって、茅原を開き湿地を埋め立て、新道を建設した。
以後、日光街道は、この草加宿を通ることとなる。
草加といえば「せんべい」。
予想通り、街道沿いにせんべい屋が次々に現れる。
せんべいを焼く香りがあちこちでしているのかと思いきや、漂ってくるのは、キンモクセイの甘く爽やかな香りだったけれど。
せんべいは、保存が効き、手軽に食べられることから携帯食として重宝された。
草加は米どころ、近くには醤油の醸造で有名な野田がある。
そこで醤油を塗ったせんべいを作ったところ、日光街道の旅人に大人気。
名物「草加煎餅」の名が、旅人を通じてまたたく間に広まったということだ。
前方に向かって声を掛けるように手を伸ばす河合曾良の像。
その100メートル先で振り返る松尾芭蕉の像。
二人の旅姿が微笑ましい。
彼らの「寸劇」の先に、草加の松原が現れた。
これは圧巻!毎日眺めながら散歩したいほどの見事な松並木だ。
それなのに、芭蕉も曾良も、この松原について一言も触れてはいない。
「おくのほそ道」での草加の記述はたったこれだけ。
ここに松が植えられたのは、草加宿開宿時の寛永7年(1630年)、あるいは天和3年(1683年)の綾瀬川改修時だと言われているから、芭蕉が旅立った元禄2年(1689年)には、まだまだ小さな松だったのだろう。
「おくのほそ道」では、芭蕉はここに泊まったことになっているが、今の学説ではそれは創作だとされている。
旅程を忠実に記していた曾良の「曾良旅日記」を見る限り、第一泊目の宿を粕壁(春日部)にとったと解釈するのが妥当らしい。
この先、越ヶ谷宿を通過して粕壁宿まで行くのであれば、あと3里と58町、約13kmもある。
芭蕉たちが旅した季節であれば、ちょうど日が落ちるころに到着したはずだ。
それほどまでに急いだ旅だったのだろうか。
いつ命を落とすか分からないと心得て、「松島の月を見るまでは」と目指していったのか。
芭蕉と曾良の旅を思い浮かべながら進んでいく。
おや?これは。
日本文学の研究者で文芸評論家の故ドナルド・キーン氏の揮毫した碑がある。
ニューヨーク生まれで、アーサー・ウェーリー訳の『源氏物語』を読んで以来、日本文化に傾倒し、第二次世界大戦では日本語通訳として従軍した。
戦後はずっと、日本文学、特に古典と日記の研究を重ね、数々の文豪たちとも交流のあった人物だ。
平安朝から現代に至るまで、数多くの日本文学を研究した同氏が、愛してやまなかった文学作品、それが芭蕉の『おくのほそ道』だったのだ。
この日記では、ただ一つの文章さえ、いつまでも脳裏に残るのはもとより、時と共に頭の中で膨れ上がり、やがて一篇のエピソードへと発展してゆくのである。芭蕉のほかにこれが出来る唯一の詩人は、おそらくダンテであろう。
キーンは、昭和30年、芭蕉の足跡を辿ろうと「おくのほそ道」を旅した。
芭蕉がもっとも感動したこと、それは自然や景色ではなく、古人の言葉が刻まれた石碑であった。
彼は旅の経験からこう断言している。
日本には、「国破れて山河あり」という諺がありますが、私はむしろ逆ではないかとさえ思います。時の流れの中で、時に山は崩れ、川も流れが変わることもあるでしょう。
しかし、人の言葉は残ります。古代エジプトやギリシャの言葉は残っている。それは山よりも川よりも強いとさえ思える。芭蕉はそれを実感したと私は思っています。
その鋭い洞察力には感服するしかない。
街道歩きをしている身からすれば、「なるほど確かに」と思うことしきりだ。
東日本大震災をきっかけに日本に帰化し、最晩年で彼が語っていた言葉がこれだ。
まるで我々に向けた遺言のようなこの言葉こそ、至るところに刻み、残していきたい。
日光街道は、綾瀬川に沿って北上していく。
松並木が終わると、次は桜並木。
素晴らしい散歩コースを持つ、この辺りの住人がうらやましい。
長かった並木道を抜け、「蒲生の一里塚」と「藤助河岸」を向こう岸に見ながら綾瀬川を越える。
夕暮れが迫ってきた。
時刻は4:45pm、日光街道3番目の宿場町、越ヶ谷宿に入った。
近隣に元荒川や綾瀬川の河岸場があり、江戸期から大正期にかけて舟運流通で繁栄した町だ。
ほのかな夕焼けを映しているせいか、町全体が薄いピンク色に包まれている。
次の粕壁宿までは、あと2里30町、約9km。
芭蕉と曾良が出立した時期は、今でいえば5月上旬のこと。
日没時刻は6:30頃だから、一泊目の粕壁宿に着いたのは日が落ちて間もない時だっただろう。
僕はと言えば、気分次第。今晩の宿をとっているわけではなく、電車で家まで戻るのだ。
とりあえず暗くなるまで歩こうか。
時刻は5:00pm、いよいよ辺りが暗くなってきた。
暗い中を歩いていくのはもったいない。遠くまでの景色を眺めながら歩きたい。
幸い、日光街道に並走する東武鉄道の駅がすぐ先だ。
今日はここまで。5:30pm、北越谷駅で歩き旅第一日目を終えることとする。
6:30amに日本橋を出発してからここまで所要11時間、歩行数50,587歩、距離にして38.7kmだった。
さあ、この先はどんな道に出会えるだろう。
今日見た景色の一つひとつが、日光街道という線でつながっている。
長編小説のストーリーラインを読み解くように、次回はここから、新しい旅のページを開いていくのだ。