【第110回】みちびと紀行~北国街道を往く(春日山城) みちびと紀行 【第110回】

居多ヶ浜から、上杉謙信の居城・春日山城をめざして歩いていく。
5分ほど歩くと、「越後国一宮・居多神社(こたじんじゃ)」がある。
「居多(コタ)」とは「ケタ」が転じたもので、この神社は、兵庫から新潟にかけて日本海側に点在する、気多(ケタ)神社の一つとされている。
古代出雲の人々に信奉された神だ。
祭神は4柱、大国主命、その妻・奴奈川姫命(ぬながわひめのみこと)、二神の息子・建御名方命、事代主命。
奴奈川姫の「ぬ」は「宝」を意味し、この女神は、高志国(越国、こしのくに)に産出し祭祀に使われた翡翠(ヒスイ)を支配した女王だったのではないかといわれている。
美人で色が黒かったと伝えられ、このあたりに「黒姫」と呼ばれる山があるのも、そのことに由来しているらしい。
「古事記」では、この姫を妻にと、出雲国から八千矛神(大国主命)が求婚にやってきて、二神は結ばれる。
けれど、神話の背景には、出雲の国から軍勢が攻め入り、翡翠を支配していく過程が隠されているのだという。
そんな殺伐とした話はさておき、この神社は、縁結びや子宝に恵まれるありがたい神社として崇敬されているそうだ。
陽の光を浴びた境内は、そんな御利益に似つかわしく、清々しく穏やかな空気に包まれていた。

居多神社から山裾に沿って歩いていくと、「愛宕神社」があった。
もともとは、上杉謙信の居城があった春日山の愛宕谷にあった社を、この地に遷したものらしい。
愛宕権現は、「勝軍地蔵」という軍神と同一視され、謙信公も出陣の折には必ずこの神社に参拝していたという。
一時期話題になった直江兼続の兜の「愛」の前立ても、この愛宕権現に由来するという説が有力だ。

愛宕神社のすぐ近くにある、「本願寺国府別院」に参詣する。
親鸞は、流罪地に着いてからは、五智国分寺の境内にあった「竹之内草庵」で一年ほど暮らし、その後この場所にあった「竹ヶ前(たけがはな)草庵」に移り、妻・恵信尼と子どもたちともに暮らした。
僧籍を剥奪された親鸞は、「僧侶」ではなく「念仏者」として、世俗生活の中で仏道を歩み始めるのだ。
阿弥陀仏は、生きとし生けるもの、一切衆生を救うという本願を立てた。
その本願を信じ切るのだから、僧であろうがなかろうが、妻帯していようがいまいが、臆することはない。
それが親鸞聖人の答えだったのだろう。



やがて、広大な草地が広がる春日山城史跡広場に着いた。
ここに春日山城があったのか・・・
と、しばらく感慨にふけっていたら、どうやらここはまだほんの一部だということが、隣接する「春日山城跡ものがたり館」に入ってわかった。
この場所は堀と土累に囲まれた「総構え」に過ぎず、春日山城の本丸は、ここからさらに2kmほど進んだ山の頂にあるのだという。
なんとも壮大な城だったのだ。

1:30pm、まだまだ夏が続いているかと思うような強い日差しの中を、春日山城の本丸へと歩いていく。
僕を追い抜いた乗用車が向こうにある橋のたもとで停まり、出てきた男性が遠くの山に向かって写真を撮っている。
あれが春日山城の本丸なんだな。
僕が追いつく前に、その若者はそそくさと車に乗り、スピードを上げて去っていった。
その間約20秒。
昔に比べたら世の中は便利で豊かになっているはずなのに、なぜか時間はますます足りず、ペースは速まるばかり。
おそらく彼は、日常の慣れた行動をとっているのだ。
気づけば僕の他にのんびり歩いている人は見あたらないけれど、まあ自分は自分、マイペースで行こう。
僕は目的地までのこの道のりを楽しんでいるのだから。
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途中、林泉寺に立ち寄った。
謙信は、7歳のときにこの寺に入り、名僧たちから薫陶を受けた。
謙信の「謙」の字は、このときの禅僧「益翁宗謙(やくおうしゅうけん)」の名から一字もらったらしい。
謙信はここで禅を学んだものの、のちに真言宗に帰依し、高野山にも足を運んでいる。
この地域で育ったのだから、浄土真宗の教義も知り得たはずだ。
けれど、阿弥陀仏の本願にひたすらすがることは、彼の気性には合わなかったのだろう。
生涯妻をめとらず、禁欲的で自らを律し、強くあろうとした生き様には、親鸞とは対照的に、どこか人間離れしたとっつきにくさを感じてしまう。
自らが「毘沙門天の化身」たらんと本気で考えていたのかもしれない。
林泉寺の中にある宝物館には、そんな謙信の人となりをうかがえるものが数々遺されていた。

林泉寺の山門には「第一義」と書かれた扁額がかかっている。
謙信公自筆の文字を復元したものだという。
「義」とは、「正しい人の道」を意味し、「第一義」とは、達磨大師と梁の武帝との問答の逸話に出てくる語句で、釈尊のあらゆる事物の心理を表している言葉だという。
正直、僕にはまだぼんやりとしていて、その意味を理解したとは言い難かった。
「義」の意味はわかる。
けれど、謙信にとっての「義」とはいったいなんだったのだろうかと。
いったいなにを正しい道と信じ、戦国の世で戦っていたのだろう。
謙信公の墓前に佇みながら、そんなことを考えていた。
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

モヤモヤは旅が終わったあとも続いた。
領土欲も名誉欲もなく、「義」ということ以外なにを欲したのかよくわからない。
このとっつきにくい戦国武将のことを調べてみたら、ひとつのことがわかった。
謙信は、室町幕府を再興する夢を持っていたということを。
「上杉家文書」に、謙信が永禄2(1559)年に上洛し、将軍・足利義輝に拝謁したときの記録がある。
なんと、「たとえ越後を失っても将軍のために忠節を尽くす覚悟です」と言い切っている。
謙信は、そのあまりの体たらくぶりで戦国の世を招いてしまった室町幕府という「古い秩序」を、本気で回復しようと思っていたのだ。
その後の、信長、秀吉、家康が抱いていたであろうビジョンと対比すると、そのあまりの「純真さ」に驚きさえ覚えた。
彼は「軍神」ではあったけれども、時代の波は彼に味方しなかったのだろう。
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道はしだいに勾配がきつくなり、春日山城の駐車場までたどり着くころにはシャツの下は汗まみれになっていた。
見上げると、ピラミッドの斜面みたいに急な階段が続いている。
さあ、ここからは登山だ。
気合いを入れて階段を上っていった。
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階段を上りきると、目の前には神社があった。
「春日山神社」といって、創建は明治期のこと。
「日本のアンデルセン」小川未明の父・澄晴が上杉謙信の崇拝者で、彼が資金集めに奔走して建てたということだ。
小川未明が15歳のとき、一家は、高田の町から春日山神社の社務所に転居した。
当時は寂しい山中の一軒家で、未明の童話で展開される不思議な世界観は、このときの記憶が反映されているのだろう。


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春日山神社のわきから山道を登っていく。
土累や空堀を過ぎると、途中にはいくつか平坦な場所があり、家臣たちが屋敷を構えていた。
頸城平野の眺望が、登るごとに拡がっていく。
謙信が折に触れて諸将に誓いを立てさせていた場所だという毘沙門堂を過ぎると、その先は等高線に沿って横移動。
春日山城の壮大さを感じながら歩いていた。
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春日山神社から登り始めて約30分、ついに本丸に達した。
目の前には頸城平野の大パノラマが広がっている。
こうして見渡すと、なぜこの春日山の頂に居城があったのかよく理解できる。
春日山城は、北陸・信州・関東へ通じる街道を制する場所に位置する。
肥沃な穀倉地帯、直江津の港、そして国府があった頸城平野を、支城がぐるりと取り囲み、まるで要塞の中にあるようだ。
謙信は守護神のようにここに鎮座し、下界の様子を警戒し、ときに信州へ関東へと出陣していったのだ。

さあ、帰ろう。
そろそろ東京が恋しくなってきた。
たった5日間の歩き旅のはずなのに、ひと月ほども旅に出ていたように思う。
最寄りの春日山駅までは、ここから約3km、徒歩で40分もあればたどり着く。
足に翼が生えたように、軽快に山道を下っていった。

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時刻は4:17pm。
春日山駅からえちごトキめき鉄道に乗って、北陸新幹線の駅がある上越妙高駅へとやってきた。
新幹線の出発時刻まで約1時間ほどもある。
とりあえず春日山城に登って汗だくになった身体をさっぱりさせたい。
「このあたりに銭湯みたいな場所はありませんか?」
駅構内のインフォメーションで尋ねると、なんと駅の目の前に温泉があるという。
「釜ぶたの湯」というまだ新しい施設で、料金440円を払って入ってみれば、綺麗なうえに泉質も素晴らしかった。
身体がじんわりと温まり、肌がさっぱりする。
新幹線の発車時刻を気にしつつも、「あともうちょっと」と、温泉の魔力にとりつかれていた。

最後は慌てて着替え、温泉から走って駅の改札を通り抜けていく。
ホームにはちょうど列車の到着のアナウンス。
金沢発の新幹線が滑り込んできた。
ああ、旅が終わる。
充実感と物悲しさが合わさった気分は毎度のこと。
長野県の戸倉駅から春日山駅まで、5日間辿った道を順番に思い出しながら、走り去る車窓の夕景を眺めていた。