【第109回】みちびと紀行~北国街道を往く(直江津) みちびと紀行 【第109回】
9月16日金曜日。
長野県の戸倉駅から歩き始めて5日目、今日で旅が終わる。
上越妙高駅から17:14発の北陸新幹線に乗れば、東京駅には19:12に着く。
それまで海辺を歩き、上杉謙信の居城・春日山城を訪れてからこの地を去ることにしよう。
8:00am、宿を発ち、関川沿いを海へと歩いていった。
荒川橋を渡って西へと向かう。
昨日は気づかなかったけれど、橋のたもとに「放浪記」の碑があった。
学生時代に手当たり次第に読んだ本の中で、中途で挫折した一冊だ。
人生の旅への期待に胸ふくらませていたあの頃は、出口が見えずもがき続けるストーリーは耐え難かったのだろう。
人生に疲れ果てた林芙美子は、旅に出ることを思い立ち、時刻表の中で「直江津」という地名に目を留め、信越本線に乗ってこの地に降り立った。
風呂敷包ひとつで、自死も厭わない状況だったようだ。
けれど、この橋まで街を散策し、働く人々を眺め、駅で名物の「継続団子」を食べるうちに、すっかり生きる力を取り戻し、そのまま東京へと帰っていった。
今なら読めそうかな。
「放浪記」、もう一度トライしてみようか。
船見公園に着いた。今朝も波が穏やかだ。
昨日夕日を見た場所から西へと歩いていくと、「赤いろうそくと人魚」の像があった。
そして、その向こうには、それ以上の存在感をもってベンチで眠る若者。
彼のせいで、人魚像のことが頭に入ってこない。
ここまで旅してきたのか。夜をここで明かしたのか。
向こうで寝息を立てているこちら側で、沈鬱な表情をしている人魚像が可笑しく思えてきた。
港町をぶらぶらと歩きまわる。
小さな祠の向こうには、貨物船が空に浮かんでいるように見えた。
「安全第一義」?
単管バリケードは「義の人」謙信公にちなんだものだ。
荒海のような戦国の世で、「こうあらねばならぬ」と義を貫いた生き方は、カッコいい。
一方で、その精神の強さゆえ、煙たがられもしたのだろう。
途中に「十念寺」という寺があった。
「浜の善光寺」と呼ばれ、川中島の戦乱から守るため、上杉謙信が善光寺本尊の如来像をこの地に安置したという。
あれ?武田信玄も本尊を甲斐の国に連れ去り、甲斐善光寺を建てたのではなかったか。
まあ、「諸説あり」なのだろう。
それほどまでに、善光寺の阿弥陀様は大事にされたということなのだ。
「国府」という地名をあちこちで見かけるようになった。
奈良・平安時代は、ここが越後国の中心だったのだ。
「五智国分寺」の山門をくぐると、境内は小学生たちで溢れかえっていた。
「お騒がせしてすみません」
本堂に参拝して振り返ると、ひとりの先生が声をかけてきた。
「にぎやかでいいですね。赤と白の帽子に分かれてるのはなにかあるんですか?」
「ええ。とりあえず赤と白に帽子を分けて、あとは各班で遊び方を決めさせているんです。」
自らルールを決め、その秩序の中で遊ぶ。ルールがなければゲームは成立しない。
なるほど。これは、あらゆるゲームの原点なのだ。
はしゃぎまわる子どもたちの姿は、彼らが創った遊びの楽しさを証明していた。
五智国分寺から歩いて5分、居多ヶ浜(こたがはま)に立ち寄った。
親鸞聖人上陸の地だという。
浄土真宗では、「上人」よりさらに尊敬の念を込めて、親鸞を「聖人」という尊称で呼ぶ。
親鸞は中流貴族、日野家の出身で、9歳にして比叡山で、慈円を師として出家する。
(大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でおなじみの天台座主だった人物だ。)
ただ、栄達が約束されていた身でありながら、その後慈円のもとを去り、一介の修行僧に過ぎない法然の弟子となって念仏修行に明け暮れた。
そしてある事件をきっかけに、後鳥羽上皇の怒りを買い、僧籍を剥奪され、俗人としてこの地に流された。
親鸞35歳のときだ。
以後7年間、この地で民衆へ阿弥陀如来の本願を伝え続けた。
そばにあった「見真堂」という八角のお堂に参拝すると、境内に「念佛発祥の地」と刻まれた石碑を見つけた。
ここで念仏が始まったということなのか、どういうことだろう・・・。
「ちょっと話をしていきませんか?」
住職さんが声を掛けてきた。
「あのぉ、念仏はここが発祥なのですか?」
「そのことも含めて話しましょう。」
招き入れられるままに、隣のお堂に入っていった。
「さあさ、こちらへ。やあ、みんな。こちらへ座って。さあ、一緒に話をしよう。」
靴を脱いで上がると、中にいた女性たちが集まってきた。
「今ね、皆で外を見ていたら見真堂に熱心にお参りしてる人がいるから呼びましょうかって言ってたんですよ。」
そう言ってお茶やお菓子を勧めてくれた。
気楽な雰囲気が心地よい。
「さて、どうしてここが『念佛発祥の地』と称するのか、そのわけを話しましょう。」
住職さんが話を始めた。
親鸞より前の時代、仏の教えは一般民衆にとってはまだまだ遠い教えで、貴族などの知識階級に限られていた。
そして親鸞は、京都を出るときには僧籍を剥奪され、この地に「俗人」として流されてきた。
当時の流罪人は、自分で耕したものを食べなくてはならない。
親鸞は、京都ではしたことがなかった畑仕事を、ここに来て見よう見まねでやった。
そして次第に近所の人たちと仲良くなって、はじめて彼らに念仏というものが伝わった。
仏の教えは貴族に限られるものではない。阿弥陀如来はどんな人をもお救いになる。
親鸞聖人は、俗人としてここに流されて、民衆と生活を始めることによって、初めてその真の教えを実践した。
「だからここが、『念佛発祥の地』と称しているわけです。」
そういうことか。なるほど。
後に自分で調べた知識を付け足すと、当時の仏教が貴族の間にとどまっていたのは、「不殺生戒」という仏の教えがあるからだ。
魚や鳥を捕獲する民衆や、武士階級には、初めからこの壁が立ちふさがっていた。
しかしながら、武士の時代に突入するとともに、鎌倉仏教もこの壁を越え始めた。
その中のひとつ、法然・親鸞の始めた浄土の教えは、阿弥陀如来が、悪人を含めて全ての人を救うという本願を立てたことを信じ、その力にすがることを本旨とする。
そして、特に浄土真宗に顕著なことは、僧侶と俗信徒との距離が非常に近いということだ。
これは、親鸞が「非僧非俗」という立場を鮮明にし、自らが妻帯し子どもをもうけたからだ。
人間というものはそもそも弱い。
それを思い上がって己の力のみで成仏できると思うな。
そんな親鸞の呼びかけが聞こえてきそうだ。
(参照:「親鸞聖人を学ぶ」伊藤健太郎、仙波芳一(一万年堂出版)、「浄土真宗はなぜ日本でいちばん多いのか」島田浩巳(幻冬舎新書)、「日本の霊性」梅原猛(佼成出版社))
その後小一時間、この土地のこと、街道歩きのことなど、よもやま話をしてお暇した。
「またぜひ来てくださいね。お気をつけて。」
なんだか肩から力が抜けたように楽な気持ちになって、お別れした。
再び、展望台から海を見た。
梅原猛によれば、親鸞は「海」という言葉をよく使うのだそうだ。
「親鸞は北国の荒れる海をみて煩悩の激しさを思い、またその海がうって変わって鏡のような静かな海になるのをみて悟りの安らかさを思ったのかもしれない。」
(参照:「日本の霊性」梅原猛(佼成出版社))
人は弱く揺れ動く存在。
だからこそ、胸を打つ物語が生まれるのだろう。
そんなことを思いながら、目の前に広がる海を眺めていた。