【第107回】みちびと紀行~北国街道を往く(高田) みちびと紀行 【第107回】
9月15日、8:00am、再び北国街道を歩き出す。
まだ朝早いせいか、それとも遅すぎるのか、新井宿の街道沿いは、人も車もまばらで寂しげだ。
石塚の一里塚跡を過ぎた辺りから宿場町の面影は消え、住宅街へと変わっていった。
先ほどから石屋を多く見かけるようになった。
「千草石採掘元」、石造りの看板にはそう書かれている。
千草石とは、若草色(もえぎ色)をした安山岩で、このあたりの特産品らしい。
ここから東に行った柏崎市にある田中角栄の墓石にも、この千草石が使われているという。
墓石に使われる石は、花崗岩とこの安山岩に大別される。
地下深くゆっくりとマグマが結晶化した花崗岩にくらべ、地表に噴き出たマグマが急速に固まってできた安山岩は、柔らかく加工しやすいという利点がある。
僕には見分けがつかないが、このあたりの石仏や筆塚も、千草石なのだろうか。
今は重機を使えば採掘も運搬も楽にできるのだろうが、昔は気に入った石材を手に入れるのに、相当な労力が必要だったはず。
この街道沿いに筆塚が多いのも、採掘場が近いということが関係しているのかもしれない。
北陸新幹線の高架が見えてきた。
その下にある「明治天皇石澤御小休止趾」を過ぎると、辺りはしだいに町らしくなってきた。
工事現場と歩道の境を示す「単管バリケード」が、トキのデザインになっていて、こんなちょっとしたことが、新潟県に来たことを実感させる。
最近よく見かけるようになったこのプラスチック樹脂の連結部、「アニマルガード」という商品名で仙台の企業が開発したらしい。
愛らしいキャラクターのおかげでクレームも減り、最近は動物柄だけでなく、地域限定デザインもどんどん登場し、マニアがいるそうだ。
上越妙高駅を左手に見ながら進むと、やがて伊勢町一里塚の題目塔が立っている場所に着いた。
「伊勢町口番所」といって、高田城下に入る3つの入り口の一つだ。
通行人や荷物を取り締まる関所の役割を果たしていて、ここから先、通行人は馬から降りなければならず、くわえ煙管も禁止されていた。
残る2つの入り口は、加賀・糸魚川方面から入る「陀羅尼口」、そして奥州・柏崎方面から入る「稲田口」だ。
高田城は、慶長19(1614)年、当時藩主だった松平忠輝(家康の六男)が、全国の大名に命令して築城した「天下普請」の城で、江戸幕府はこの高田城を戦略的拠点として重視していた。
外様の大大名・加賀前田藩を、この高田藩と、同じく親藩の越前福井藩とで挟み込み警戒する必要があったこと、そして、幕府の重要な財源となっていた佐渡金山の支配を強化するためだったといわれている。
忠輝は、築城にあたって、関川河口にあった橋を取り去った。
これによって、糸魚川方面から新潟方面へ行く旅人は、いったん南下して陀羅尼口から高田城下に入り、稲田口から出て北上するという回り道を強いられることとなる。
高田の城下町の繁栄を企図したもので、その甲斐あってか、世界で指折りの豪雪地帯であるにもかかわらず、江戸期を通じてこの町は栄えた。
これが雁木(がんぎ)というものか。
高田の雁木通りは、総延長16kmにおよび、日本一の長さを誇る。
雪が降りしきる街を思い浮かべながら、道路にせり出した町家の軒下を歩いていく。
雁木の空間は家の敷地内、つまり、雁木は各家の所有物で、家主がいなくなり家屋を撤去すると、雁木も無くなってしまうものらしい。
連続しているはずの雁木がところどころ「歯抜け」になっているのはそういうわけか。
とは言え、こうして通りの家々が人びとの往来を気遣って軒先を貸している様は、厳しい環境下で生き抜くために「助け合うこと」を身につけた人間の本質を見るようで、どこか温かみを感じさせる。
伏見稲荷の千本鳥居のように、庇をいくつもくぐり抜けながら、雁木の通りがこの先もずっと続くことを祈った。
「旧師団長官舎」という案内表示を見かけて立ち寄った。
明治維新後、城下町だった高田の町は士族の没落で急速に衰退していた。
失業した武士たちは、高田城外堀で食用のレンコンを栽培し、糊口をしのいでいたらしい。
そこに、日露戦争を契機とした軍備拡張のため、信越地方に新たに師団を増設する計画が持ち上がる。
高田では、「軍都」としての再生を目指して町ぐるみでの誘致運動が行われ、これが功を奏し、明治40(1907)年、ここに第13師団が置かれることになった。
翌年、将校280人、下士兵卒3,328人、馬926頭がこの町に入る。
家族も含めると、消費人口の増は、かつての士族たちに匹敵するものになっただろう。
この洋館は、そのとき師団長に就任した長岡外史(ながおかがいし)が建てた邸宅だ。
外史がこの高田にもたらした風物は主に2つ。
ひとつは、「日本三大夜桜」と称される高田城址公園の桜並木。
桜をこよなく愛したという外史が、桜の植樹・育成に努めたということだ。
もうひとつは、スキー。
3年にわたって欧州に派遣された外史は、そこでスキーと出会い、軍事だけでなく雪国の住民の暮らしの向上のためにも、スキーの導入が必要だと考えた。
そこで、当時視察で高田を訪れていたオーストリア・ハンガリー帝国のレルヒ少佐にスキー術の伝授を要請し、まずは軍隊でのスキー教育、続いて「高田スキー倶楽部」を創設し、民間への普及が始まった。
高田が「日本スキー発祥の地」と呼ばれるゆえんだ。
本町通りを進んでいくと、歌声喫茶があるのだろうか、通りの奥から女性たちの歌声が聞こえてくる。
「リンゴの唄」だ。
こういった短調のメロディが、雪国にふさわしく思われるのはなぜだろう。
今度来るときは、冬の真っ只中にしよう。
そして、どこか小さな居酒屋で、演歌でも聴きながら酒を飲むことにしよう。
長い長い雁木通りが続いている。
華やかさはないけれど、重厚で歴史を感じさせる店が並んでいる。
店同士がお互いに利用し合い、持ちつ持たれつで成り立っているようだ。
雁木が人の往来を助けることで、地域内で経済がまわっているようにも見える。
そして雁木は、砦のように商店街を守り、大規模な小売店の出店を抑制してもいるのだろう。
その雁木の町を支える板金屋さんは、どうやら人手が足りていないらしい。
おそらく夏の間に、屋根やら雨樋やらの修繕の注文が殺到するのだろう。
その文言に、太陽と南国への憧れを持つ若者たちの胸の内を覗いたような気がした。
11:50am、唐突に旅の終点が現れた。
「本町7丁目」交差点、北国街道の分岐点だ。
右は出雲崎へと向かう北国街道・奥州道、左は金沢へ向かう加賀街道。
前者は佐渡の金塊を運んだ道、後者は加賀百万石の参勤交代の道だ。
どちらへ行くにせよ、それはまた別の機会に委ねることとする。
とにかく、今回はここで、北国街道の旅を終える気分にはなれない。
旅のゴールにふさわしい場所へと行く必要がある。
それはどこか?
答えは明らか、日本海だ!
日本海に沈む夕日を見て、旅の終わりとしよう。
心は決まり、8km先にある日本海に向かって歩き出す。
ここからの旅のルートは、気の向くまま、足の向くまま。
海に向かってぶらぶらと、北国の街をそぞろ歩いていった。