【第101回】みちびと紀行~北国街道を往く(矢代、篠ノ井、丹波島) みちびと紀行 【第101回】
寄り道した森将軍塚古墳から北国街道に戻り、今日のゴール、長野駅前のホテル目指して歩いていく。
矢代宿の中心、須須岐水神社のわきを進むと、松代へ向かう道の分岐があった。
これが、もうひとつの北国街道「松代道」。
そのまま千曲川東岸を北上し、真田藩の城下町・松代を抜け、長沼宿の手前で千曲川を渡り、善光寺から北上する北国街道に合流する。
当初は善光寺を通る道は禁じられていて、北国街道の主要ルートは、むしろ松代道の方だった。
戦国時代後期、信濃国は徳川・上杉の争奪の場だった。
上杉景勝は、越後から牟礼宿まで北国街道を南下した後は、善光寺に通ずる道に入ることを禁じ、松代道を使うよう定めた。
春日山城ー長沼城ー海津(松代)城という支配拠点を結ぶ軍用道を強化する目的があったからだ。
徳川の時代となって、この方針はしばらく引き継がれたが、慶長16(1611)年9月、新町、善光寺、丹波島が新たな宿駅として認められたことを契機に、北国街道の主要ルートが移った。
善光寺は門前町としてすでに賑わっていたし、もともとこちらの方が距離が短かいことから、ごく自然に人の流れは変わっていったのだろう。
いつかこの道を歩いていこう。
右手に続いていく松代道を、しっかりと目に焼き付けておいた。
矢代宿の伝馬役は、本町組、新町組と二つに分けられていて、松代道との追分を抜けた後には新町組の宿場があった。
昔から柿崎家が、この宿場の本陣・脇本陣・問屋を代々務めていたらしい。
時刻は1:10pm、とにかく空腹を解消しなければならない。
長年、街道歩きをやっていて、このコロナ禍で特に変化を感じることがある。
それは、飲食店を見つけづらくなったということだ。
もともと地方の人口減少、少子高齢化という傾向はずっと続いていて、客不足、後継者無しで、飲食店が徐々に閉じていくのも仕方がないことだと思っていた。
そこにコロナがいっせいに止めを刺した。
店主は「これが潮時だ」と思ったのだろう。
閉鎖したままの店を見かけることが増えて、胸が痛む。
少子高齢化は全国的な問題としても、地方の人口減は就業機会の減少によるものだ。
僕は、地方に製造業が戻り、働ける場所が増えて欲しいと思っているので、最近の円安傾向には期待している。
かつて日本が好況に沸いていたとき、世界中からの円安批判で円高に誘導され、その結果やってきた30年以上続く低迷期から抜け出そうというのに、いま円安自体が批判されることが不思議でならない。
店が見つからないのでコンビニで食料調達かな、と思い始めていたら、北国街道が国道18号に出たところで、らーめんのチェーン店の看板を見つけた。
ここだ!
砂漠でオアシスを見つけた気分。
トレーからはみ出すほどの料理を平らげて、欲求の筆頭、食欲を満たした。
さあ、歩きだそう。
ここからは道が複雑だ。
バイパスの高架が立体交差する下、廃棄物の処理場が並んでいる中を街道は通る。
やがて「矢代の渡し」があったところで旧街道は途絶え、その向こう岸へと千曲川の土手を迂回し、篠ノ井橋を渡っていく。
時刻は2:50pm、気温は32℃まで上がった。
橋を渡りきり、土手道を渡河地点まで歩いていく。
足取りが重い。食べ過ぎたのだ。
しばらくペースダウン。
食べ過ぎるとこうなることはこれまで経験済みなのに、また繰り返すという愚かさ。
長距離を歩くときは、やはり、ちょこちょこ食べるのが良い。
江戸時代の旅人が、甘味処を見つけては団子を食べ、お茶をすすりながら歩んでいったように。
篠ノ井に入った。
ここは宿場ではなかったけれど、交通の要衝として栄えた場所だった。
北国街道を結ぶ「矢代の渡し」があっただけでなく、千曲川舟運の終点もここにあり、日本海からの海産物が陸揚げされていたのだ。
陸路では、善光寺から南下する北国街道がここで分岐して、一方は松本経由で中山道の洗馬宿へと結ぶ善光寺西街道となる。
旅人が出会い、そして別れていく。
篠ノ井追分に立ち、そんな姿を思い浮かべて、少し哀愁を覚えた。
見事な道標が残されている。
高さ176cmの「見六の道標」で、嘉永2(1849)年に建てられたという。
江戸末期のものだから、「更科紀行」で中山道から善光寺に向かった松尾芭蕉は、この道標を目にしていない。
善光寺の方角を指して刻まれた右手は、ちょっと漫画チックだ。
昔は矢印が無かったから大変だな。
ふとそう思ったら、矢印がいつから使われるようになったのか知らないことに気づいた。
調べると、どうやら「17~18世紀ごろにヨーロッパで使われるようになり、1世紀ほど遅れて日本にも伝わった」らしい。
この「見六の道標」も、製作がもうちょっと長引けば、「←」という味気ないものになっていたのかもしれない。
矢印は世の中を便利にした。それは間違いない。
けれど、矢印の氾濫は、「矢印が示す方向以外にも道があるかもしれない」ということを、忘れさせてもいるのだ。
北国街道は、千曲川の氾濫原を遠巻きにするように北上していく。
1998年の長野オリンピックの開閉会式場になった南長野運動公園は、街道から東に半時間も離れた場所で、寄り道には遠すぎる。
地名はとっくに「川中島」になっているのに、かの有名な古戦場も遠く離れていて、立ち寄るのはあきらめた。
武田軍と上杉軍がこんなに広い場所で戦略をめぐらし、兵を動かしていたのかと思うと、まさに軍神同士、その神業ぶりがうかがえた。
丹波島宿に入った。
「島」というからには、もともとは河川の中洲だったのだろう。
宿場の裏手は、北アルプスの槍ヶ岳を水源として流れる犀川で、かつてはサケやマスがたくさん獲れたらしい。
本陣では毎年、加賀前田家へ初鮭を献上し、屋根修理には加賀藩の援助を受けていたという。
周辺の国道や県道が便利だからか、一直線に延びる宿場には店がなく、通りに人影が見当たらない。
瓦屋根の家並みの中をひとり歩いていく僕を、オロナイン軟膏の看板の、その名を知らぬ女優さんが見送っていた。
(後で調べたら「浪花千栄子」さんだった。本名が「なんこうきくの(南口キクノ)」なので、軟膏のCMに抜擢されたということだ。)
いつのまにか日没が迫っていた。
暗くなる前に長野駅のホテルにたどり着けるだろうか。
「丹波嶋の渡し」の碑に刻まれた文字をチラ見して、歩きながらその当時の様子を思い浮かべた。
早足で丹波島橋に差し掛かると、雲間に今日の太陽が沈んでいく。
まあ、焦ることはない。
夕日と犀川の流れをしばらく見ていた。
長野駅に着く頃には、すっかり暗くなってしまった。
煌々と明かりが灯る線路帯を越え、6:30pm、長野駅前のホテルにゴールイン。
北国街道歩き旅・第1日目は、9:00amに戸倉駅を出発してから所要9時間半、歩行数48,300歩、距離にして36.9kmだった。
チェックインするやいなや、屋上の大浴場へと向かう。
ザッパーン。
至福の時。
露天にぽつんと置かれたヒノキ風呂からは、月が見える。
中秋の月から翌々日のまだ丸い月。
再び歩き始めた北国街道の前途を祝福するように、優しい光が照らしていた。