【第98回】みちびと紀行~中山道を往く(磯部温泉~横川の関所) みちびと紀行 【第98回】
5月24日、火曜日、8:00am、磯部温泉の宿をチェックアウトした。
ここの泉質は素晴らしかった。
湯に浸かる瞬間にさらりとした感触があり、じんわりと温まって、浴後に肌がさっぱりしている。
脚の疲れもすっかり癒えた。
天気も上々、意気揚々と歩き出す。
中山道に戻り、一路西へと歩いていくと、やがて正面に妙義山が見えてきた。
邪馬渓、寒霞渓と並んで、「日本三大奇勝」と呼ばれるそうだ。
「ゴジラの背びれのような」と形容される稜線が、なるほどその通りで、まさに迫ってくるような「迫力」がある。
富士山や浅間山は、噴火を続けることで美しく裾野を広げる。
これに対し、同じ火山でも、妙義山のように大昔に噴火した後に活動を止めてしまった山は、風雨にさらされて、こういうギザギザの山容になるらしい。
旧中山道は、少しの間、車通りの激しい国道18号線に合流した後、左の坂道を下り、松井田宿へと入っていく。
松井田宿に入った。
天保14(1843)年の記録では、本陣2軒、脇本陣4軒、旅籠14軒と、比較的小さな宿場だった。
にもかかわらず、この町は商業が盛んで栄えたそうだ。
中山道の宿場であることに加え、榛名神社と妙義神社双方の参道が交わる位置にあり、信州各藩からの年貢米が集まる物流の要衝だったのだ。
江戸時代、年貢米の大部分は、江戸や大阪で換金されていた。
それを、誰かがあるとき気づいたのだろう、「わざわざ江戸まで運ばずに道中で売れば良いのではないか」と。
そうして、年貢米の半分がこの松井田で、残りは倉賀野で、商人によって換金されることになった。
そんな活気ある時代があったのかと思うほど町はひっそりとし、宿場の面影はごくわずか。
2つの本陣の痕跡も、残念ながら全く残されてはいなかった。
なにかしら昔の面影が感じられるところはないか。
と、辺りをぶらぶらしてみる。
まずは「鎮守様」のいる場所、ということで、「松井田八幡宮」に寄ってみた。
創建年は不詳ながら、鎌倉時代初期の建久8(1197)年に、源頼朝が参拝に訪れたという記録があるらしい。
頼朝はその年、確かに善光寺に参詣しているから、ここにも寄ったのだろう。
鳥居にある「八幡宮」の扁額の「八」の文字も、鎌倉の鶴岡八幡宮と同じく二羽の「鳩」の絵になっている。
本殿に向かう坂から振り返ると、鳥居が「フィルター」の役目をして、その向こう側に昔の面影を映し出していた。
おや?これはなんだろう?
Google Mapを見ると、近くに史跡を表すマークが出ている。
「旧松井田町役場」、行ってみるか。
突然、大きく翼を広げたような白い建造物が現れた。
白いと言ってもすすけていて、少し荒んだ気分にさせられる。
バブル時代の負の遺産かと思って近づいてみると、それは「白井晟一(しらいせいいち)」(1905年~83年没)という歴史的建築家の代表的な作品だった。
昭和31(1956) 年の完成当時は、「畑の中のパルテノン」と呼ばれたらしい。
平成29(2017)年までは何かしらの用途で使われていたものの、老朽化が激しく、今は建物内の見学はできない。
正直に言えば、この建築物の良さが僕にはわからなかった。
圧倒的な違和感。
僕には建築を鑑る目がない。
「白井晟一、建築を語る」(中央公論社)
大建築家の作品を理解できないままでは悔しかったので、旅から戻って、『白井晟一、建築を語る ~対談と座談』(中央公論社、2011年1月25日初版)を読んでみた。
難解な専門用語、英単語の羅列、噛み合ってなさそうな議論、空中戦・・・。
つらい読書だったが、分かったことがある。
それは、彼の意味する「伝統」とは、日本の伝統ではなく「人類全体の系譜」のようなもので、日本の建築はユーラシア大陸を往来した人類によってギリシャのパルテノンの影響を受けたはずなので、一括りに考えるべきなのだと。
それ以上の理解は困難だった。
けれど、どうして彼が、あの白亜のパルテノンを模した建築物をこの中山道の宿場町に出現させたか、それだけは理解できたような気がした。
違和感は残っている。
僕は僕で、この違和感の正体を突き詰めてくことにしよう。
そのヒントは、後知恵だったけれども、旅の途中で寄った洗心亭に住んだもう一人の建築家、ドイツ人のブルーノ・タウトがくれた。
( 参照:【第96回】みちびと紀行 )
松井田宿を出て、西へ西へと歩いていく。
今日のゴールは軽井沢宿、そこから新幹線で東京まで戻らなくてはならない。
まあ、今日中に帰れないことはないと思っているけれど、それまでに立ちはだかるあの碓氷峠だけは明るいうちに越えたい。
心持ち早足で歩いていくものの、妙義山の姿に心奪われ、行く先々で立ち止まる。
不思議なもので、あれだけ荒々しく見えた妙義山が、近づけば近づくほど優しい表情をしていた。
「五料の茶屋本陣」「茶釜石」と、通り過ぎる。
気温は23℃、暑いとはいえ、青空の下を歩く幸福感は、そのつらさの代償として余りある。
脳内の「幸せホルモン」が分泌されまくったのか、「ウォーカーズ・ハイ」になっていた。
しばらく線路に沿って進んでいくと、遠くに「峠の釜めし」の荻野屋さんが見えてきた。
もう横川駅に着いたのだ。
時刻は11:30am 、さあ、ここで釜めしを食べて行こう。
と、入り口に向かうと、今日、火曜日は定休日だった。
掲示では、ここから10分ほど歩いた国道18号線沿いのお店や、向かいの山の上にある高速道路の横川サービスエリアの店は開いているらしい。
しばらく考えた末に、釜めしにこだわるのはやめにした。
有名どころを目指していくのは、僕の旅らしくないじゃないか。
僕の愛する旅は、偶然の発見、「未知との出会い」なのだ。
ということで、近くの定食屋さんへ。
普通に美味しいカツ丼を食べ、先を急いだ。
横川駅は、今でこそ信越本線の終着駅となってしまったが、かつては鉄路の要衝だった。
1997年10月1日、高崎・長野間の新幹線が開通するまでは、ここから先、最大66.7%の急勾配が連続する碓氷峠越えの路線があったのだ。
その列車に乗っていなかったことが口惜しい。
今からすれば驚くことに、明治政府は、日本の東西を結ぶ鉄道を、東海道よりも先に、この中山道経由で結ぼうとしていたのだ。
その理由は大きく3つあった。
- 当時外貨の最大の稼ぎ手だった「絹」に関わる産業の中心が、群馬県と長野県にあったこと。
- 東海道はそもそも交通が開けていたので、鉄道による効果はさほど高く見積もられなかったということ。
- 陸軍が、東海道は海上からの攻撃を受けやすく脆弱だという理由から、中山道路線を推していたということ。
こうして、1883(明治16)年10月、「中山道幹線鉄道計画」は実行された。
が、いざ工事を始めてみると、予想以上の難工事が立ち塞がった。
とりわけ、碓氷峠越えは最大のもので、工事は一進一退。
ようやく、ドイツのアプト式登山鉄道の技術を採用することで難題を乗り越え、1893(明治)26年4月、上野・直江津間の全線が開通するのだ。
横川駅から先、廃線となった跡の道は、「アプトの道」という遊歩道になっている。
「乗り鉄」でもある僕は、こちらの道にも興味津々。
廃線を辿ってみたいという浮気心を抑えながら、振り切るように旧中山道を歩いて行く。
( アプトの道パンフレット(PDF) )
「碓氷の関所」が見えてきた。
場所が横川にあることから、「横川の関所」とも呼ばれる。
平安時代の昌泰2(899)年、醍醐天皇の御代に、相模の足柄とともに碓氷坂(碓氷峠)に設置されたのがはじまりだという。
「碓氷坂」と「足柄坂」よりも東の地域を「坂東」というわけだ。
それが700年余り時代が降った元和9(1623)年、徳川秀忠によって、この横川の地に改めて設置されたのが今目の前にある関所だ。
江戸時代には、東海道の箱根と並んで、「入鉄炮・出女」を取り締まった重要な関所となった。
箱根の方は、関所が観光資源だとしっかり認識されていて、資料館や茶店が整備されているのに、ここはひっそりと静かだ。
観光客も地元も、関心の大部分は鉄道にあるようだ。
まあ、そういうさびしい方が旅情をかき立てるのだけれど。
時刻は12:30pm。
ここまで来れば、あとは坂本宿、そして碓氷越え。
霧積川の流れを越えて、険しくなっていく坂道を登っていった。