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【第97回】みちびと紀行~中山道を往く(板鼻宿~磯部温泉) みちびと紀行 【第97回】

信越本線を越える写真信越本線を越える

少林山達磨寺から中山道に戻り、一路、西へと歩いていく。
信越本線の踏切を越え、やがて板鼻宿に入った。

板鼻宿本陣は、現在の安中市板鼻公民館の場所にあった写真板鼻宿本陣は、現在の安中市板鼻公民館の場所にあった

板鼻宿は、本陣1軒、脇本陣1軒の他に、旅籠が54軒、茶屋は90軒もあって、上州路の七つの宿場の中では最も大きかった。
これには理由があって、一つには、板鼻宿のすぐ西を流れる碓氷川の渡河地点が、幕府の江戸防衛上、橋が架けられない「徒歩渡し(かちわたし)」の場所だったということが関わっている。
増水による「川留め」で渡れない旅人や物資を、いざという時に収容するだけの規模が必要だったのだ。
加えて、常時でも、これから川を渡る旅人や、渡り終えた者たちの休息の場所でもあったのだろう。
旅人にとっての不便は、ここに住む人びとの商売に大きな恩恵をもたらしていたというわけだ。
そしてもう一つ、飯盛女(宿場女郎)の存在がある。
ここでは、ほとんどの旅籠に飯盛女がいたのだ。
板鼻宿より一つ手前の高崎は、幕府の重職を務める藩主が代々続き、「諸大名の模範とならねばならぬ」という意識が働いてか、自藩の風紀の取り締まりに厳格だった。
必然、飯盛女のいる旅籠を禁止したばかりか、旅籠の数そのものも制限した。
もう一方の隣宿、この先の安中宿といえば、これまた藩主が厳格な人で、飯盛女を置くことを許さなかった。
ところが、そこは人間界、「聖」があれば「俗」もある。
板鼻宿は、旅人たちにとっての「癒しの宿場」だったのだ。

皇女和宮が宿泊した本陣書院が残されていた写真皇女和宮が宿泊した本陣書院が残されていた

そんな大きな宿場町だったからだろう。
幕末の公武合体の一場面、皇女和宮の江戸下向の際には、この板鼻宿がその宿泊先となった。
文久元年(1861年)11月10日のこと、京都からの通し人足4千人の大行列だったという。
御一行は、前日9日に沓掛宿から出発し、軽井沢宿でお昼休み、碓氷峠を越えて、その日は坂本宿で宿泊。
翌10日、松井田宿、安中宿と進み、夕刻この板鼻宿に到着したのだ。

書院の中を拝見の写真書院の中を拝見
床下の忍者が「寝ずのガード」の写真床下の忍者が「寝ずのガード」

当時の本陣・木島家の家屋は、今は解体されて公民館になってしまったが、和宮が宿泊した書院の間は、公民館の裏に移築保存されている。
公民館で係りの女性にお願いして、書院の中に入らせてもらった。
中はちょっとした資料館になっていて、きれいに保存されている。
和宮が履いた草履や、忍者が寝ずの番をしたという床下を実際に見ると、話には聞いていた御下向の様子をつぶさに思い浮かべることができた。

板鼻宿を出て西への写真板鼻宿を出て西へ

その時コピーさせてもらった資料を後でよくよく確認すると、和宮はここで「お初おまけ」(初潮)を迎えたらしい。
孝明天皇の妹君として、5歳で有栖川宮熾仁親王の許嫁となり、後に婚約が破棄され、第14代将軍家茂に降嫁されたときは16歳。
今の高校生の年齢で、日本国全体の行く末をその一身に背負い、自らの使命を果たそうとした女性の旅路だったのだ。
資料によれば、書院の裏手には、その時の「けがれもの」を埋めた跡に石造りの「月の宮」が建てられ、宿場の飯盛女たちから、「月のもの(月経)が来ますように」と信仰されたとのことだ。

女性の悩み・苦しみを理解したといえば嘘になる。
感じたことは憐憫などではなく、むしろ性根の座った女性の強さの方だった。

妙義山の稜線がくっきりと見えてきた写真妙義山の稜線がくっきりと見えてきた
下野尻の歩道橋、中山道は左への写真下野尻の歩道橋、中山道は左へ

久芳橋で碓井川を越えた。
妙義山の稜線がくっきりと見える。
その先、下野尻の交差点で中山道は左へと折れ、安中宿の中心部へ入っていく。

安中宿の街並みの写真安中宿の街並み
安中郵便局の敷地内にあった本陣跡の写真安中郵便局の敷地内にあった本陣跡
安中藩の武家長屋の写真安中藩の武家長屋

安中藩は、「学者藩主」と呼ばれた板垣勝明(かつあきら)の代(1820~1857年)に藩政改革が行なわれ、学問奨励、西洋式軍制の導入、杉の栽培奨励などが次々に実施された。
土橋章宏の「幕末まらそん侍」や、浅田次郎の「一路」でも登場する、「安政遠足(あんせいとおあし)」と呼ばれる長距離走も、この藩主が藩士の鍛錬にと始めたものだ。

安政遠足覗き石の写真安政遠足覗き石
見えないぞーの写真見えないぞー

その「安中遠足」の碑と「日本マラソン発祥の地」の碑は、安中市文化センターの前にあり、今でも、ここから碓氷峠まで、約29kmを走る大会が、毎年5月の第2日曜日に行われている。

参照:安中市HP

そこに並んで「安政遠足覗き石」というものもあって、穿った石の穴からはゴールの碓氷峠が見えるそうだ。(見えなかった。)

貯水タンクに安中遠足の絵、確かに重心が低い!の写真貯水タンクに安中遠足の絵、確かに重心が低い!

ここで疑問が湧いた。
武士の鍛錬といえば、古くは弓馬、江戸期は剣術で、長距離走というイメージが全く浮かばない。
昔からそういう「種目」があったのだろうか。
考えてみれば、いざ戦場で最も必要とされた能力は、「持久力」ではなかったかと。
さらに、話を転じて、江戸・大阪間(約600km)を3日で走ったという飛脚たちは、どのようにしてその身体能力を得たのだろう。
あれこれ調べるうちに、「現代人と昔の人では、そもそも身体の使い方が違った」という解答に行き着いた。
「古武術」の情報がヒントだ。
昔の人は、「地面を蹴らずに走った」という。
前傾姿勢で重心を前に崩し、倒れかけたところに脚を置くような走り方をしていたのだ。
そうすることで、筋力で脚を上げたり蹴ったりする必要がなく、効率的に走れるのだと。
これには合点がいった。
なぜなら僕も、長距離を歩く時に、それに近い身体の使い方をしているからだ。
誰かと一緒に歩くと、「スタスタと歩くんですねぇ」と言われることがある。
その歩き方は、以前街道歩きでひどくしんどかったときに、休憩所で浮世絵に描かれた旅人が腰をかがめた前傾姿勢をとっているのを見て、それをヒントに会得したものだったのだ。
武士に限らず、町人も農民も、そんな効率的な身体の使い方をしていた事実は、もっと注目されても良い。
「温故知新」、古武術、習おうかな。

安中教会、子どもが近寄ってくる写真安中教会、子どもが近寄ってくる

辺りをぶらぶらしていたら、「安中教会」があった。
日本で初めて日本人の手により創立された、新島襄ゆかりの教会だ。
門が閉ざされていて、なんとなく入りにくかったので、外から写真を撮っていると、中で遊んでいた子どもたちに見つかってしまった。
「ハロー!ハロー!」と、こちらにやって来る。
サングラスをかけていたせいか、明らかに西洋人に間違われている。
そのうち女の子が、「英語の人がいるよ」とさらに仲間を呼んでしまった。
一言もしゃべっとらんのに。かなわんなぁ。
サングラスを外しても良かったが、あちらはせっかく盛り上がっているのに気の毒だ。
「オー、ノー!」「バーイ!」
と手を振りながら去ると、背中から「グッバーイ!」と見送られた。
図らずも、外国人の疑似体験をした。

新島襄旧宅の写真新島襄旧宅

同志社大学を創始した新島襄の旧居へと足を運ぶ。
あいにく月曜日の今日は「休館日」で、中は拝見できなかったが、昔の家の外観が布教当時を思わせる。
新島はここで生まれ育ったのかと思っていたけれど、それは違って、彼は江戸市中・神田の安中藩邸に生まれたとのこと。
密航先のアメリカから帰国した後、こちらに引っ越していた家族のもとを訪れ、3週間ほどこの家に滞在したらしい。

「便覧舎」があった場所の写真「便覧舎」があった場所

横浜や神戸などの港町だけでなく、この安中がキリスト教布教の中心地になったのは、新島襄がたまたまここにいたからだと思っていたら、どうもそれだけが理由ではないらしい。
群馬県には蚕糸業に携わる資本家が多く、彼らは西洋の科学知識の摂取に熱心で、キリスト教の理解者も多かったという。
新島襄が運んだ「種」は、安中という「良い土壌」に撒かれたのだ。
安中の実業家・湯浅治郎は、新島と親交を深め、彼が設立した日本初の私設図書館「便覧舎」で、ほかの29名とともに新島から洗礼を受けた。
これが、先に寄った安中教会の始まりということだ。

原市の杉並木の写真原市の杉並木

時刻は5:00pm、日が傾いてきた。
今宵の宿は、ここから5km離れた磯部温泉にとっている。
先を急ごう。
かつては日光の杉並木と並び称された「原市の杉並木」を、前傾姿勢でスタスタと通り過ぎていった。

紫の花をよく見かけた写真紫の花をよく見かけた

八本木の立場茶屋の写真八本木の立場茶屋

八本木の立場茶屋の先を左折し、磯部温泉のある方向へと坂道を下っていく。
どうやら、日没までには宿に辿り着けそうだ。

碓氷川を渡って磯部温泉への写真碓氷川を渡って磯部温泉へ
温泉記号のある場所へと向かう写真温泉記号のある場所へと向かう

碓氷川を渡ると、かすかに温泉の香りがただよってきた。
ここは温泉マーク発祥の地。
日本最古の温泉記号を見てゴールとしよう。

日本最古の温泉記号の写真日本最古の温泉記号

温泉記号の碑のある場所に着いた。
万治4年(1661年) に描かれたというから、今から約360年前。
当時はお湯が煮えたぎっていたのだろうか、湯気が長く伸びている。
オバQのように「毛」が3本というのが、斬新でモダンだ。

夕暮れの磯部温泉街の写真夕暮れの磯部温泉街

時刻は6:30pm。 新町駅からここまで、所要10時間半、歩行数52,000歩、距離にして39.7kmの歩き旅だった。
さあ、温泉で疲れた脚を癒そう。
宿に向かう黄昏時の道。
その風景に心奪われ、歩き方のことなど、とうに忘れていた。

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