【第87回】みちびと紀行~鎌倉街道を往く(東村山音頭) みちびと紀行 【第87回】
4月7日、鎌倉街道歩き旅・第6日目。
7:36am、西武新宿線・高田馬場駅を出発した電車は、前回の終了地点・東村山駅に8:10amに到着する予定だった。
が、途中、上石神井駅のホームに入ると、そこでびくともしなくなった。
「武蔵境駅で人身事故が発生しました。再開のめどは立っていません。」
車内とホームで同様のアナウンスが繰り返されると、それを合図に乗客たちが一斉に動き出した。
臨時回送バスの列に並ぶ人、知り合いを見つけてタクシーに乗り込む人、車内にとどまりじっと待つ人。
誰一人あわてた顔を見せず、各々の立てた「戦略」を整然と行動に移している。
今ここに外国人がいたとしたら、驚きをもってこの光景を眺めたことだろう。
「人身事故」ということは、たいていは飛び込み自殺だと、多くの人は思っているはず。
けれど、そんな感傷に浸ることなく、人は、それぞれの一日を始めるのだ。
僕も、自分の立てた作戦に従って、大泉学園駅まで約3kmの道のりを歩いて行く。
西武池袋線で所沢を経由し、東村山から今日の旅を始めるために。
9:23am、東村山駅に着いた。
予定より1時間出発が遅れたが、もともと厳格な予定などない気ままな一人旅。
ストレスはゼロ。
駅前の志村けんの銅像を見たら、さらに気持ちがゆるんだ。
アイ~ン。
気楽に歩いていこう。
まずは駅から10分歩き、「東村山ふるさと歴史館」に向かう。
ここには、東村山を通る街道と絡めて、周辺の歴史が分かりやすく展示・説明されている。
東村山には、鎌倉街道ができる以前の奈良時代に、すでに「東山道武蔵路」が通り、武蔵国府(現・府中市)と上野国府(現・前橋市)、そして下野国府(現・栃木市)を結んでいた。
随分古くから開けた歴史ある土地だったのだ。
「東村山」の地名は、武蔵国を中心として勢力を張った武士団・「武蔵七党」の一つ、「村山党」に由来する。
村山党はもともとが平家で、同じく平家方だった畠山氏の秩父党と行動をともにする。
頼朝の旗揚げ時は源氏と敵対したものの、やがて頼朝の傘下に入り、鎌倉幕府を支えた。
鎌倉時代末期になると、新田義貞の軍勢に加わり、倒幕の原動力となっていく。
これから辿る街道を理解する上で、この歴史館への寄り道は正解だった。
駅に戻り、再び志村けんの銅像の前に立った。
2020年3月29日、新型コロナによる肺炎で彼が他界したというニュースは衝撃だった。
もうあれから2年も経つのか。
思えば子どもの頃、テレビを見て本当に腹を抱えて笑ったのは、志村けんがメンバーに加わったドリフターズと、欽ちゃん(萩本欽一)の一連の番組だった。
コロナは、その一時代を築いたコメディアンの命を奪った。
けれど、あのとき笑い転げた思い出は奪えはしない。
この銅像も、そんな思い出を持つ人々が発起人となり、国内のみならず海外からも寄付を集め、2021年6月26日の除幕式以降、こうしてバカ殿のポーズをとっている。
志村けんは、2021年7月13日に、東京オリンピックの聖火ランナーとして走る予定で、銅像もその日までに建てることを目標にしていたという。
もし存命中であれば、きっとこのポーズでスタートを切ったにちがいない。
鎌倉街道は、東村山から先、「府中街道」という名で続いていく。
途中で「鷹の道」というくねった道路を横切った。
この辺り一帯は、江戸時代、尾張徳川家の鷹場だったということだ。
広大な武蔵野の荒野で、800m先のトンボさえも視野にとらえる鷹を放って、狩りを楽しんでいたのだろう。
住居表示をちらと見ると、そこには「本町一丁目」の文字。
ひょっとしてここは、志村けんの「東村山音頭」一丁目の場所ではないだろうか?
と思ったとたん、頭の中はすっかり東村山音頭(?)に占拠されてしまった。
一丁目、一丁目、ワーオ、一丁目、一丁目、ワーオ
ひ!が!し!ワォ、村山一丁目、ワーオ
ここなのか?本当にここなのか?
近くに三丁目と四丁目もある。これは可能性大だぞ!
と、勝手に盛り上がる。
ちょうど市役所があったので、思い切って総合窓口で訊いてみることにした。
「あのぉ、すみません。つかぬことを伺いますが、本当につかぬことなんですが、志村けんの東村山音頭の一丁目から四丁目までは、このあたりでしょうか?」
からかっていると思われぬよう尋ねると、僕よりひとまわり以上も年下の女性が、たまに訊かれる質問であるかのように、笑みを浮かべながら答えた。
「『東村山一丁目』という番地名はなくて、『東村山●●(まるまる)一丁目』のように、間に地名が入るので、どの場所か特定できないんです。」
なんと、そうだったのか!
志村けんはこのことによって、東村山全体を、有名かつ身近な存在にした。
調べたら、この歌が流行った当時、多くの小学生が東村山を訪れ、交番で「東村山一丁目〜四丁目」の場所を尋ねるといった社会現象が起こったという。
僕はこの年になって、当時の小学生の追体験をしたのだ。
なんだかおかしくなって笑ってしまった。
死してなお、僕に笑いを運んでくれた、志村けんの偉大さよ!
街道は「野口橋交差点」で新青梅街道と交差し、そのまま南へと直進していく。
桜の花びらが風に舞い、通りをピンクに染めている。
今年もそろそろ見納めだと、少し感傷的になって花びらを見送った。
小平市に入り、懐かしい風景が現れてきた。
至る所にブリヂストンの「B」のロゴマークがある。
僕は大学を卒業して、しばらくこの会社で働いていたのだ。
「ブリヂストン東京工場」の看板がいつの間にかすげ替えられて、「ブリヂストン・イノベーション・パーク」となっている。
昔は、正門前に巨大な鉱山機械用のタイヤが置かれて、質実剛健、どことなく垢抜けなかったが、今はすっかりモダンで気取った風になった。
もう30年の月日が流れたのだ。
この工場のレイアウトは、創業者の石橋正二郎が直々にデザインしたと教えられた。
広大な敷地には、生産設備を効率よく配置したほか、従業員のための福利厚生施設を手厚く完備したところが、当時賞賛された。
1960年に工場は稼働を始める。
本拠地・久留米から転勤した従業員800名は、良好な生活環境の中で働き、工場も順調に生産を上げ、ブリヂストンの発展の礎を築いていったのだ。
時刻は12:30pm、ブリヂストンの近くで昼食をとることにした。
「はい、いらっしゃーい。」
「サムライ」という店の前に立つと、年配のご夫婦の元気な声で招き入れられた。
僕の他に数人、常連客らしい人たちがいて、ごはんをかき込んでいる。
カウンター席の向こうには、キープのお酒が並び、懐かしい近所の居酒屋さんという雰囲気だ。
注文した日替わり定食は、和洋とりまぜた様々な料理がおばんざいのように並ぶ。
濃厚な味付けにごはんが進んだ。
「今日はどちらから来たんですか?」
サービスの食後のコーヒーをいただいて一息ついていると、店のおばさんが声を掛けてきた。
「ええ?そうなんですか!」
昔ブリヂストンで働いていたことを話すと、それまでの鎌倉街道歩きの話題はそっちのけで、一挙に距離感が縮まった。
「ナガトシさんって知ってます?」
昔の記憶を辿ってみても、聞き覚えがない。
僕の限られた勤務年数では知り合っていないはずだ。
「よく来てたんですよ。九州の人でね。ラーメンが好きで。」
相当お気に入りのお客さんだったようだ。
「ビー・エス(BS、ブリヂストンのことをこう呼ぶ人は多い)さんは皆いい人で。昔はうちにも結構来てもらってたんです。」
「昔は」というと?
「今はほら、工場が滋賀県の方に移転しちゃったから。もうひとつ日立の工場もなくなって。お客さん減っちゃって。」
そうだったのか。この店は工場で働く人たちの憩いの場だったのだ。
「今はね、工場も大変らしいのよ。ちょっとのことでも周りの住民から騒音やら臭いやらで苦情が多くて。元々いた私たちはそんなことは当たり前なんだけど。」
確かに、いつのまにか「クレーム社会」となった日本では、工場を作るのも大変そうだ。
「六小(小平第六小学校)もすっかり子どもが減っちゃって。」
日本の産業の衰退は、こんなところにも影響しているのだ。
さてと、そろそろ行くとしよう。
「ナガトシさん、また来るといいですね。」
「はぁい。ありがとうございました!」
春の薄日射す街中へと、再び歩き出した。