【第82回】みちびと紀行~鎌倉街道を往く(戦国の山城) みちびと紀行 【第82回】
四ッ山城址へと、坂道を歩いていく。
道沿いの洒落た家の庭園は、斜面を上手に使って鎌倉街道を模した、遊び心のあるものだった。
丘の上から小径がターンを繰り返し、相模湾に見立てた最下部の池へとつながっていく。
今、僕が歩いている場所は、最初のカーブを曲がった辺りだろうか。
まだまだ先は長い。
坂道を上りきって四ッ山城址の入り口に到着。
今は神社となっていて、山頂へは石鳥居をくぐって参道を行く。
急坂と石段を一気に登ると、ほぼ360度、素晴らしい眺望が開けた。
東の方角には、遙か遠くに日光男体山。
右に目を移せば、広大な関東平野に、高層ビル群が黒い影となって浮かんでいた。
埼玉県の中央部から西部にかけて広がる丘陵地には、多くの山城がある。
山城というものは、その大部分が、鎌倉時代後期から戦国末期までに築かれている。
安土桃山時代以後は、戦乱も減り、城下町の整備がより重要になったことや、石垣の造成技術が格段に向上したことで、主流は「平城(ひらじろ)」へと移っていった。
四ッ山城は、比企丘陵最北部の四津山(標高197m)に築かれた山城で、鎌倉街道・上道を押さえる戦略的な要衝に位置している。
長享2(1488)年の扇谷上杉氏と山内上杉氏とが戦った高見ヶ原合戦では、後者の側の城として役割を果たしたが、その後は華々しい活躍はない。
豊臣秀吉の小田原征伐の際には、この城に籠もった北条方が、一戦も交えることなく北にある鉢形城へと逃げ、もぬけの殻状態で太平の世を迎え、そのまま廃城となったということだ。
青空の下に広がる景色を眺めながら、石段に座っておにぎりを頬張る。
僕以外には誰もいない。誰も来ない。
頭の中では、カーペンターズの「トップ・オブ・ザ・ワールド」が流れていた。
さて、そろそろ下山しようとお社に挨拶しに行くと、賽銭箱の横に「参拝記帳」と書かれた鳩サブレの四角い缶が置いてあるのに気づいた。
ふたを開けるとノートがあり、ツーリングで来た人や、歴史ファンなど、様々な人がここを訪れ、思い思いに感想を記している。
その中に1ページ、とりわけ心に残る記録があった。
日付は、2022年3月13日、ちょうど1週間前に書かれたものだった。
そこにはだいたい次のことが書かれていた。
- そのページに書いた人は、84歳の地元の男性。
- 体力が衰えないようにと、時々ここに来ている。
- 坂が急なので、昔は何度か引き返そうと思ったこともある。(今はそうではないらしい。)
- 子供の頃、遠足でここに来た「兄貴」が、よくこの場所のことを話していた。(お兄さんのお気に入りの場所だったのだろう。)
- そのお兄さんは、54歳で自らの命を絶った。
- 命日は3月10日で、昨日ようやく花を供えに行った。
- 戦中・戦後のこと、秩父セメントが熊谷工場にやってきたこと、東京での生活のことなど、いろいろ「兄貴」と話したが、その時はなんとなく聞き流してしまった。
- お兄さんは養蚕を一生懸命にやっていた。
- これまで、自転車、ハイキング、山登り、お遍路といろんなことをやってきて、今はぶらぶらと一人で好きなことをしている。
- よく晴れて、とても暖かく、眺めがよかった。
会ったこともない人物に、このノートを通じて心を通わすことができた。
この人は、遠足でこの場所に来たというお兄さんと、思い出の中で交流し、このノートに綴ることによって、彼の魂を弔ったのだ。
そう思いながら、ノートに向かい手を合わせ、もう一度、山頂からの景色をゆっくりと眺めた。
下山して、再び街道を辿っていく。
四津山のふもとには、水路と桜並木がある里山の風景が広がっていた。
この辺りは、昭和60年度に、県の事業で「美しい村づくり」が行われていたようだ。
(参照:長谷川昭彦「土地利用体系の変化と農村計画の方向性」 )
一つだけ、美しい村に似つかわしくなかったこと。
それは、山の斜面に敷き詰められたソーラーパネルだった。
あそこで作られた電気は、いったいどこに行くのだろう。
通りすがりの僕が、軽々に「残念だ」などと口にしてはならない気がした。
メガソーラーが事業として成り立っているのは、東日本大震災直後にできた法律の一環で、毎月僕らが電気料金に上乗せして支払うことになった「再生可能エネルギー発電促進賦課金」のおかげだからだ。
僕らも間接的に事業にお金を貢いでいる。
それに、この土地の人々は、「美しい村づくり」のために力を併せて取り組んだ。
その挑戦は、誇らしく、美しいことだから。
普済寺という静かなお寺の東側に、鎌倉街道の遺構があった。
そうと知らなければ、ただの雑木林だと見過ごすところだ。
昭和57(1982)年の試掘調査で側溝の跡が出てきて、堆積の状況から、道路が5回ほど改修され、時期によって道路幅も一定ではなかったことが分かったということだ。
「幻の道」がこうして徐々に解明されていくことにワクワクする。
その先の街道は、途中が水路で阻まれていたけれど、目測をつけて迂回すると、はたして、その向こう側にも「鎌倉街道・上道跡」の説明板を見つけた。
そこから「諏訪神社奉祀跡」という案内柱に従って、民家の敷地横の小径を進んでいくと、小さな祠が現れた。
この辺りは「奈良梨(ならり)」と呼ばれる地域で、徳川家康の関東移封後は、家臣・諏訪頼水の所領となり、この場所に故郷の信州・諏訪の神様を勧請したということだ。
その後諏訪神社は、今の八和田神社がある場所に移されたが、八和田神社の祭礼では、今でもこの元々の神域に、御輿を運ぶそうだ。
その風習が続く限り、この静かな場所が諏訪神社だったということも、この道が鎌倉街道だということも、後世に伝えられていくはずだ。
奈良梨は、かつて鎌倉街道の宿場として栄え、戦国時代は後北条氏の支配下となり、重要な拠点として伝馬が置かれた。
家康の関東入府に従ってこの地に入った諏訪頼水は、現在八和田神社がある場所に、陣屋を構えた。
その八和田神社に行くと、「逆さ杉」という杉の巨木がある。
頼水が所領を定める際に、信州諏訪から投げた杉がこの地に突き刺さったという伝説があるという。
「さすがにそれはないでしょう。」
当時の人さえ、そう思ったのではないか。
その言い伝えをこしらえた経緯は、頼水に付きしたがってこの地に入った諏訪衆にとっては、「何故、ここなのか?」ということが解せなかった。
良い説明が思いつかず、そのうち面倒になって、諏訪の神様の権威を使ったのではあるまいか。
どうもそんな気がした。
県道296号線をひたすら南下していく。
車がせわしなく行き交う道からは、旧街道の面影を感じることが難しい。
それでも目を凝らせば、道の脇に、古い庚申塔が顔をのぞかせている。
確かに僕は、鎌倉街道を歩いている。
杉山城が見えてきた。
鎌倉街道を見下ろす丘陵上に作られた城で、当初は後北条氏によって築かれた城だと言われていた。
ところが、発掘が進むにつれ、それより古い時代、関東管領・上杉憲房(のりふさ)が築いた城だということがわかってきた。
説明板にはこう書いてある。
「高度な築城技術の粋を集めたこの城は、「戦国期山城の最高傑作」と高い評価を得、城郭研究者やお城好き、歴史ファンの方々が県外からも訪れる隠れた観光スポットです」と。
「比企城館群跡」として、国の指定史跡にもなっているらしい。
(参照:https://japan-castle.website/japanese/hiki-castles/ )
先ほどの四ッ山城で「にわかお城ファン」となり、「ここが横矢掛かりか」とか、「馬出し廓だ」とか、いちいち感心しながら、城の遺構をくまなく歩き回った。
城郭の発掘調査はいまだ完了していないという。
これからどんな新事実が発見されるだろうか。
お城の全貌が明らかになるのが待ち遠しい。
時刻は4:00pm。
日が陰ってきた。
今日のゴール、武蔵嵐山駅をめざし、再び鎌倉街道を歩き出す。
「いざ鎌倉、いざ嵐山、誉れ高き武士・畠山重忠」
赤いのぼり旗が続いている。
嵐山町も、重忠に深い縁があるのだろう。
次回の街道歩きが楽しみだ。
4:50pm、武蔵嵐山駅にたどり着いた。
男衾駅を出発してここまで、所要8時間、歩行数40,500歩、距離にして31kmの歩き旅だった。
そのうちの6分の1は、山城歩きに費やした分だ。
いつもとは違う部分の筋肉に疲労を感じながら、東武東上線の急行池袋行きに乗り込んだ。