【第74回】みちびと紀行~下田街道を往く(旅の終わり、三島へ) みちびと紀行 【第74回】
蛭ヶ小島から、狩野川の氾濫原が作った、肥沃な農業地帯を歩いていく。
もうすぐ収穫シーズンを迎えるビニールハウス栽培のイチゴ、
稲わらから立ちのぼる煙、
黄金色のススキの穂、
傾いていく太陽、
あたりは、すっかり晩秋の風景になっていた。
駿豆線の踏切に、古めいた石柱がぽつんと建っていた。
「れつ志やにちういすべし」(列車に注意すべし)
いつの頃に建てられたものだろう。
土地の古老に教え諭されているかのように、まるで何かの人生訓が刻まれているかのように、直接心に語りかける。
静かに、厳かに。
しばらく国道136号線に沿って進み、柿沢川を越えて、右側の道から、函南町の間宮・大場地区に入っていく。
今日の晩ごはんの準備なのか、住宅街の中を、女性の運転する車が器用に行き交い、続々とスーパーの駐車場に入っていく。
「スポーツのまち宣言」
「読書のまち宣言」
「日本一正しい選挙を実践する都市宣言」
その宣言のすべてが、この行政単位で成し得ることに限定されている。
それがやけに新鮮に、そして誠実に思えた。
大仁合宿した長嶋選手、自転車競技のパラリンピアン、逗留した数々の文豪たち・・・。
街道で「出会った」人々を思い浮かべながら、スポーツと読書に親しみのある土地柄であることを、復習するように思い返した。
「侠客・大場の久八の墓所」?
街道わきの廣渡寺の門前にある、大きな案内柱が目に入った。
僕の故郷の侠客、「清水の次郎長」のライバルなのだろうか。
案内柱の裏には、だいたい次のような説明が書かれていた。
大場の久八。
文化11(1814)年、伊豆国函南村間宮に生まれる。
上州系三大親分の一人として、その勢力は伊豆、駿河、甲斐、武蔵、相模にわたり、子分の数は3,600人。
安政の大地震には、義捐金を募って窮民を救った。
嘉永6(1853)年には、韮山代官・江川坦庵が指揮した江戸湾のお台場築造に助力。
配下の石工を数千人集めて、難工事をみごとに完成させ、「台場の親分」と仰がれた。
なるほど。
この辺りの地名「大場(だいば)」と「お台場」を掛けているのだ。
その説明を読んで、1995年1月に起こった阪神淡路大震災のことを思い出した。
そのとき僕は米国にいて、テレビで報道される母国の惨事におろおろしていた。
すると米国人が、どうにもこれだけは話したい、という風にやってきてこう言った。
「日本のマフィアが被災地で炊き出ししているらしいね。信じられない!」
と、ほめちぎる。
おかげで、「日本人株」は上昇した。
「侠客」とそれ以外との境目を、僕は曖昧に理解していたことに気づいた。
その言葉の意味するところを改めて調べてみる。
「弱気を助け、強気を挫くことを信条にして、困っていたり苦しんでいる人を見ると放っておけず、彼らを助けるために体を張る人。」
これが定義。
「体を張る」というところが肝心だ。
優しさだけではなく、勇気がなければ、体は張れないものだから。
常軌を逸した行動の中に、一本通っている美学。
「傾き者(かぶきもの)」がその源流にあるらしい。
清水の次郎長に山岡鉄舟がいたように、大場の久八には江川坦庵がいたところが面白い。
住む世界は違えど、響き合うものがあったのだろう。
試しに、坦庵を侠客の定義に当てはめてみる。
なんと、すっぽりはまる。
山岡鉄舟もそのまんま。
彼らはみんな体を張っている。確かに、類は友を呼ぶのだ。
そしておそらく頼朝にも、「侠客の資質」があったにちがいない。
男が放っておかない男。
仰ぎ、担ぎ、命を預けたくなる男。
人を動かし、時代を動かすことのできた人物に備わった資質とは、果たしてこういうものかと、美しく掃き清められた久八親分のお墓を見ながら思った。
「大場」三叉路を左に折れると、あとは三嶋大社まで、まっすぐ街道が続いていく。
大場橋を渡るとき、山の向こうに日が落ちた。
暗くなっても、もう焦ることはしない。
この道を、ただ無心に歩いていけばよいのだから。
ときどき足を止めて、夕日に照らされた富士山を眺めながら、一路北へと歩いていく。
街道沿いに「間眠(まどろみ)神社」という場所があった。
頼朝が、源氏再興を祈願して、蛭ヶ小島から三嶋大社まで百日参りをした際に、この神社の前にある松の根もとで仮眠をとったということだ。
そんなことさえも言い伝えられているということが、頼朝の存在の大きさを感じさせる。
何度も死地を逃れた頼朝。
実際に三嶋大社の御利益があったのかどうかはさておき、「頼朝には神のご加護がある」と思わせたことは、相当な威力を発揮したにちがいない。
なにせこの時代は、神仏の力を頼って戦をしていたし、神に守られている人物に弓矢を向けるなど、どんな天罰が下るかわかったものではない。
三嶋大社までの百日参りで、神との親密さを、伊豆の有力な武家たちにアピールする意図があったのだとすれば、やはり頼朝は深謀遠慮の人で、「食えないやつ」なのだろう。
「言成(いいなり)地蔵尊」という場所が現れた。
街道脇の暗がりの中で、そこだけあかりが灯っている。
この地蔵尊の由来はこうだ。
貞享4(1687)年、播州明石城主・松平直明の行列を、小菊という6歳の少女が横切ってしまった。
娘を供の者が捕らえたところ、短気で横暴な25歳の大名は、「手を斬り、足を斬り、極刑にせよ」と命令を下した。
本陣前庭に引き出された幼女をめぐって、町は大騒ぎ。
「犬だ、捨て置け」と町役人の言うのも聞かず、問屋場の町名主の嘆願も聞かず、十万石の格式のある玉沢妙法華寺の上人が、下座に出て命乞いをしてもダメ。
泣いて詫びる幼女の叫びは届かず、ついにその娘は斬り殺された。
哀れな幼女の死を悼む里人は、地蔵尊として祀り、大名の言いなりに斬られたことから「言成(いいなり)地蔵」と名付けられたという。
まったくひどい話だ。
6歳しか生きられなかった少女への同情、横暴な大名に対する怒り、そして理不尽を受け入れなければならなかった人びとの悔しさが、このお地蔵様には込められている。
「このお地蔵様には、なぜこういう名前がついているのですか?」
「それはね、むかし度量の狭い大名がいてね、かくかくしかじか・・・。」
これまでに何万回と繰り返され、これからも繰り返されるであろう、その会話をすることで、悪大名の汚名を伝え、少女の仇をとっているのだ。
通りの名前が「ゑびす参道」になった。
つきあたりに、伊豆国一ノ宮・三嶋大社の鳥居が、信号機に照らされて輝いている。
下田からの街道歩き旅。
その長編小説のような旅の、最後のページを閉じようとしている。
5:20pm、三嶋大社の鳥居に着いた。
振り返り、これまで辿ってきた道を眺めてみる。
達成感と寂しさ。
ないまぜになった感情と、旅の余韻をかみしめていた。
三嶋大社の神様に、無事に旅を終えたことを報告し、感謝を伝える。
下田から4日間、歩数146,000歩、距離にして109kmの歩き旅だった。
伊豆半島の中央を南北に貫く下田街道。
伊豆の土地柄、文化、そしてその役割が、この道を歩いてみて、確かに分かったように思う。
伊豆とは、人びとが流れ着き、こもり、力を蓄えて、世に出て行くための「休息地」なのだ。
NHKの番組で、オペラ歌手の森公美子がこんなことを言っていた。
「歳をとって、楽譜の休符の意味がわかってきた。息を溜めて吐く。次に向かうエネルギーのための休符なんだと。」
流罪で蛭ヶ小島に流され17年間暮らし、やがて源氏再興を果たした頼朝、
米国からの長旅で健康を害し、下田で静養して元気をとりもどしたハリス、
鬱屈した思いで旅に出て、踊り子に出会い、自身を肯定できた川端康成、
スランプ期に、大仁にこもって自主トレした長嶋茂雄、
温泉地に滞在し、生き返って日常に戻って行く観光客たち、、、。
やって来る人びとに対して、土地の人間はどこまでも優しい。
そして、伊豆の気候、風景までもが、その暖かなふところに招き入れてくれる。
さあ、そろそろ僕も日常に戻っていこうか。
たった4日間の旅が、1ヶ月くらいに思える。
「下田街道に乾杯」
ひとり、ビールを飲んで、東京行きの列車に飛び乗った。