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【第70回】みちびと紀行~下田街道を往く(修善寺) みちびと紀行 【第70回】

ドミトリー部屋の写真ドミトリー部屋

伊豆に来て4日目の朝を迎えた。
ゲストハウス Hostel Knot(ホステル・ノット)のドミトリー部屋に一人。
挨拶を交わす同宿人のいない、静かな朝だ。
階下の共有スペースでコーヒーを淹れながら、ひとり旅の寂しさをふと味わう。

僕は、ゲストハウスという形態の宿舎をこよなく愛している。
たいていは安価で、懐具合を気にせず気軽に泊まれる。
けれど、ゲストハウスの本質的な魅力は、「人と出会える場所」ということに尽きる。
長旅の人恋しさを埋めてくれる場所なのだ。

共有スペースの写真共有スペース

旅は自分を映す鏡だ。
自分の素性を知らない人々が、自分のことをどのように思っているのか。
一方自分は、身分も何も分からない誰かに対して、どのように付き合い、どのような関係を築ける人間なのか。 それを教えてくれるのが旅、特にひとり旅だ。
下田街道を旅した二十歳の川端康成は、踊り子一行から「いい人ね」と言われて涙し、その一言が自身を肯定することにつながった。
道中での出会いが、そのときの彼を救ったのだ。

旅の中で、宿舎が担う役割は大きい。
なんといっても旅の半分は、宿で過ごす時間だからだ。
宿では、より多くの時間をかけて人と出会い、その人物を知ることができる。
とりわけ、ドミトリー部屋や共有スペースがあるゲストハウスは、出会う機会を増やし、出会いを深める環境を用意してくれる。

共有スペースで読書をしながら誰かが来るのを待つ。
30分、1時間・・・。
二杯めのコーヒーを淹れても、誰も起きてくる気配はない。
まあ、こんなこともある。
朝の修善寺の町へと散歩に出かけた。

範頼の墓に向かう写真範頼の墓に向かう

「源範頼の墓」と書かれた道しるべを見つけた。
頼朝の異母弟のひとりで、彼の代理として大軍を率い、義経とともに平家追討に功績を挙げた人物だ。
道しるべに従って、彼の墓に向かった。

範頼の墓写真範頼の墓

範頼の墓は、小高い丘の上にあった。
平家を打倒し、鎌倉幕府が成立した後、彼は頼朝から謀反の疑いをかけられ、この修善寺に流され、幽閉されてしまう。
義経のみならず、この範頼も、兄から嫌疑をかけられてしまうとは。
それとも、「咬兎死して走狗烹らる」の故事通り、将来脅威となりうる味方を、予定通り始末したということか。
混乱を収束させるためには、肉親といえども容赦しない。
「秩序」をもって、強固な政権を打ち立てるしかない。
そう言わんばかりの、頼朝の非情。
そして、その非情を前に死んだ範頼の無念。
静かにたたずむ墓の前で、その苛烈な時代に思いを馳せた。

竹林の小径の写真竹林の小径

範頼の墓を離れ、町の中心に向かった。
桂川沿いの竹の小径を通っていくと、それぞれの旅館から出てきた旅行者たちが、ポーズをとりながら写真におさまっていた。

伊豆最古の温泉、独鈷の湯の写真伊豆最古の温泉、独鈷の湯

平安初期の大同2(807)年、弘法大師空海はこの地を訪れた。
修善寺の町が歴史に記されるようになるのはそれからだ。
言い伝えによれば、空海がこの地を訪れた際に、桂川で病気の父親の身体を洗う少年を見かけ、持っていた仏具の独鈷で岩を穿ち、温泉を湧き出させたということだ。
その「独鈷の湯」が、伊豆最古の温泉とされている。

修禅寺の写真修禅寺

空海が開いた桂山谷寺は、鎌倉時代に真言宗から臨済宗に改宗され「修禅寺」と呼ばれるようになる。
鎌倉の建長寺を開山した南宗の渡来僧・蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)が、この寺の住職になってからだ。
彼は、元寇の際に「元の密偵」という嫌疑をかけられ、この地に流された。
のちに北条早雲によって、この寺は曹洞宗に改宗され、今に至る。
寺の名は修禅寺、町の名は修善寺。
ちょっとややこしい。

修善寺の街を流れる桂川の写真修善寺の街を流れる桂川

江戸末期に下田が開発されると、修善寺は、下田街道沿いの温泉地として栄え始め、明治期には内湯旅館も誕生し、多くの文人墨客がこの地を訪れるようになる。
大正末期には、駿豆線が修善寺まで開通し、修善寺駅前が整備されてからは急速に発展した。
その後、「伊豆の小京都」として観光地化に力を入れ、修善寺川を「桂川」、山を「嵐山」、橋を「渡月橋」と改名したという。

筥湯、ここで頼家が暗殺された写真筥湯、ここで頼家が暗殺された

桂川のほとりに、「筥湯(はこゆ)」という共同浴場があった。
営業時間は正午から午後9時。
料金350円。
かつて川沿いに9つもあった外湯は、昭和20年代になると、独鈷の湯だけになっていた。
町では、再び外湯巡りを楽しんでもらうために、平成12年にこの筥湯を再建したという。
この地に幽閉された鎌倉幕府二代将軍頼家は、ここで入浴中に、祖父の北条時政の刺客に暗殺されたと伝わっている。
享年23歳。
素っ裸で、けっこうな立ち回りを演じて、刺客も手こずったらしい。
NHK大河ドラマ「鎌倉殿の十三人」では、どのようなシーンが展開されるのだろう。

指月殿に向かう写真指月殿に向かう
石段の上からこちらを見ている写真石段の上からこちらを見ている
手に蓮の花を持った釈迦如来像の写真手に蓮の花を持った釈迦如来像

頼家の墓がある「指月殿(しげつでん)」に向かう。
旅館・指月荘の横の小道を行くと、石段の上のお堂の扉の陰から、金色に輝く仏像がこちらを見ている。
近づいてみると、釈迦如来像だった。
通常、手に何も持たない釈迦如来が、蓮の花を右手に携えている。

頼家の墓の写真頼家の墓

この指月殿は、北条政子によって、息子頼家の菩提を弔うために建立された。
一族の血で血を洗う争いは、現代の日本の常識では想像し難い。
ひっそりと建つお堂と、釈迦如来像の静かな面持ちを眺めていたら、そんな時代を生き抜いた政子の、秘めた思いが伝わってくるようだった。
蓮の花は、泥水を吸いながらも、清らかな花を咲かせる。
その花のつぼみを手に持った釈迦如来像には、汚れた現世を生きた亡き息子が、来世で清らかな生を結びますようにと、母、政子の願いが込められているのかもしれない。

スタッフの琴美さんの写真スタッフの琴美さん

「おかえりなさい。」
散歩から戻ると、宿のスタッフが元気に声をかけてきた。
接客マナーということではなく、自身が楽しそうに笑顔でいる。
その自然な姿が、この一日の始まりの時間にふさわしく思えた。
彼女の名前は琴美さん。
いつからここで働いているのだろう。
「このゲストハウスは、2018年の6月にオープンしたのですが、そのころから関わっています。」
この建物は、かつては飲食店で空き家になっていた。
宿の開業のために、リノベーションを始めたときから、彼女はここを手伝っていたという。
「大学4年の夏休みでした。サークルの先輩の紹介で、ここに来たんです。2019年の4月に卒業してからは、正式にこちらのスタッフになりました。」
2018年といえば、日本でもずいぶんゲストハウスが増え、海外からの旅行客でにぎわい、その宿泊形態が、若者を中心に定着したころだ。
「もともと旅行好きで、最初のころはホテルに泊まっていたんです。それが、東京の『Nui』というところに泊まったことがきっかけで、ゲストハウスに興味を持ちはじめました。ゲストとスタッフの距離が近くて、すごく居心地が良くて。自分もこんな空間を作ってみたいなぁと思って。」

僕もその心境がよく理解できた。
かつて僕は、長期の海外「貧乏」旅行をしていたことがあった。
当時泊まった安宿の雰囲気が、今のゲストハウスにそっくりだ。
旅人と宿のスタッフの距離が近く、また旅人同士もすぐ仲良くなって、情報交換したり、一緒に食事に行ったりと、旅の楽しい思い出をつくったものだ。
琴美さんは、身近にそんな出会いがある場所に身を置きたかったのだろう。

Hostel Knotの屋上スペースからの眺めの写真Hostel Knotの屋上スペースからの眺め

そのゲストハウスの盛り上がりに、コロナ禍が水を差した。
移動が制限され、インバウンド旅行客がぱたりと途絶え、「旅の出会いの場」となっていたゲストハウスが打撃を受けた。
「私たちは、ゲストのみなさんをつなぐことを念頭においてきましたが、コロナ禍になって、ゲスト同士の話にくさ、誘いにくさを肌で感じています。」
確かにコロナ禍当初は、得体の知れないウイルスで、情報も錯綜し、旅先どころか、日常でも人との距離をどのように保てばよいのかわからなかった。
結局、無難なところで、人と会うことを控えるという空気が生まれてしまった。
ただ、状況もだんだん分かってきた最近は、そろそろ光は見え始めているように思う。
期待を込めて。
「コロナ禍の前は、ゲストは、旅慣れた人が多かったのですが、コロナ禍以後は、これまでゲストハウスには来なかった客層も訪れるようになりました。『Go To トラベル』がきっかけですね。」
あれこれ非難も聞いた政府の緊急対策も、こうしてしっかりと宿の経営を支えていたのだ。
インバウンド・ブームで、雨後のタケノコのように増殖したゲストハウスも、今後は淘汰されていくのだろう。

「私たちは、オープン当初から、安いだけの宿ではなく、ゲストさんに良い思い出を作っていただく場所として、経営を考えてきました。コロナ禍になって、その思いはますます強くなっています。」
確かに、このコロナ禍でも旅を続けている人間は、本当に旅が好きでたまらず、同時に旅にこだわりを持っている人なのだろう。
安く旅をすることは、旅の目的にはなりえない。
旅の醍醐味はもっと本質的なところにあるのだ。

スタッフが作った伊豆観光冊子「たびだら」の写真スタッフが作った伊豆観光冊子「たびだら」

「ここのスタッフのメンバーが、すごく好きなんです。いろんなアイデアがわき上がってくるだけじゃなくて、それが必ず実現すると思えるんです。もういつもワクワクしています。」
本当に楽しそうだ。
「昨年も、その思いのひとつが実現したんです。」
と、少し席をたって、楽しそうに冊子を持ってきた。
「たびだら」と書かれた、かわいらしい装丁の観光ガイドブックだった。
おもしろそうなローカル情報がぎっしりと詰まっている。
2020年版だったから、このあとにも新しい年版が用意されるのだろう。
「次は何をやろうかって、いつも考えてます。」
コロナ禍をものともせず、楽しそうに何でも挑戦しようとするその姿に、僕も勇気づけられた。

結び目のロゴマークの写真結び目のロゴマーク

Hostel Knot(ホステル・ノット)、Knotは「結び目」のこと。
東伊豆、南伊豆、西伊豆への入り口、結び目となるこの修善寺の地と、人と人を結ぶ場、「出会いの結び目」という意味を持っている。
下田街道歩きで出会った、まさに旅人の宿だった。

Hostel Knot代表の山本さんとスタッフの琴美さんの写真Hostel Knot代表の山本さんとスタッフの琴美さん
修善寺の街にお別れをする写真修善寺の街にお別れをする

9:50am、チェックアウト。
「いってらっしゃい。お気をつけて。」
スタッフの笑顔に送り出された。
あちこちの旅館から、見送られた旅行客たちが、通りに増えていく。
フル充電したかのように生気を身にまとった人びとの、高らかな笑い声が通りをにぎやかにしていく。
これが旅の力なのだ。
日常に戻っていく彼らを心の中で見送りながら、僕はひとり、街道を歩き続けた。

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