【第68回】みちびと紀行~下田街道を往く(踊り子歩道) みちびと紀行 【第68回】
5:30am、起床。
昨日は3度温泉に浸かり、併設されている岩盤浴にも3度寝そべった。
身体中の「澱(おり)」が流れ出て、全身の細胞が甦ったような新鮮な気分で朝を迎えている。
朝食前にもう一度、露天風呂に浸かりに行くと、下方に見える国道の路面が濡れていた。
昨晩テレビで見た天気予報では、ずっと晴れだったはずなのに、ここでは、局地的に雨が降るのか。
湯船に浸かっていたら、「天城の私雨(わたくしあめ)」と川端康成が記したものはこれか、と気づいた。
雨と朝日を浴びて、山々の風景もよみがえり、新しい一日を始めようとしていた。
朝食がすこぶる美味い。
もちろん料理が美味いのだが、美味いものを美味いと感じる身体の感覚が、温泉で研ぎ澄まされたような気がする。
満ち足りた時間を過ごしていたら、宿の女将さんが声を掛けてきた。
話の中で、下田街道を歩いていることを伝えると、ハリスが小鍋峠を越えた後で宿泊した場所が、まさにこの宿がある慈眼院だという。
ハリスゆかりの物もあるということなので、それを見せてもらうことになった。
「どうぞ、これです。」
本堂横に、ハリスが座った椅子がガラスケースの中に置かれていた。
「曲録(きょくろく)って言う法事の時に使う椅子です。日本人は椅子に座る習慣はなかったんですけど、お寺だとこういうものがあるので、助かったでしょうね。」
下田でハリスが滞在していた玉泉寺でさえ、大正時代にはハリスという人物がいたことも忘れ去られていたのだから、ここにこうして彼が座った椅子が保管されていることが、尊く思える。
相当意識の高いご住職が、代々この寺を守ってきたのだろう。
見上げると、本堂の天井に、躍動する竜が迫力ある筆で描かれている。
「大里さんって当時30歳の方が描いたんです。昭和31年の4月に。旅の絵描きさんで、うちに泊めたら、「一宿一飯のお礼だ」って、この絵を描いてくれたんです。」
八方睨みというのか、どこにいてもこの竜に見つめられてるようだ。
「でもその大里さん、ここに泊まった翌年に亡くなったそうなんです。」
どういう経緯で亡くなったのかは訊かなかった。
けれど、天井画のすみに「旅烏」「風来坊」と、本名の代わりに名を記したその若者が、死ぬ前に日本を旅して、この寺に大作を遺していったことが、どこか必然のように思えた。
「ここは昭和30年頃からユースホステルとしてスタートしたんです。お寺の庫裡を改装して、『天城ハリスコート』って名前で。」
その名前は、懐かしく記憶の中に残っていた。
高校時代、僕は自転車で伊豆を旅行しようと計画して、半島各地にあったユースホステルを宿泊先に選んでいたのだ。
結局、受験勉強を優先して、実行には移せなかったけれど。
「若い人のニーズがだんだんなくなって、ユースホステルはやめたんです。昔みたいにどん欲に出会いを求めなくなったんですね。」
その後、決心して温泉を掘り当て、「天城温泉・禅の湯」として新たな宿を始めたのだそうだ。
女将さんはもともとこのお寺の人だったのだろうか。
「私ですか。信州の大町出身です。旅行が好きで、全国あちこちユースホステルに泊まっていたんですよ。」
筋金入りのホステラーだ。
「で、ここに泊まったときに、たまたま今の住職が東京から戻ってきていて、知り合ったんです。その住職が私の夫です。」
ユースホステルの旅のご縁だったのだ。
「人との出会い」、それが女将さんの旅のテーマなのだろう。
そしてこの宿で、その後も数えきれないほどの出会いが生まれたにちがいない。
出会いを紡ぎ出す。素敵なお仕事だ。
元気な声と笑顔に見送られながら、お宿を後にした。
8:30am、下田街道歩き・第二日目を開始する。
湯ヶ野からこの梨本、そして天城峠を越えて浄蓮の滝までは、「踊り子歩道」という名で道が続いている。
歩きやすそうなので、この道を行くことにした。
道沿いに古い道標や石仏があるところをみると、昔の下田街道とも多くの区間で重なっているのだろう。
建設中の伊豆縦貫道路をくぐり、いったん国道414号に出ると、「川合野」というバス停のあたりから左下方に行く道があった。
旧街道の「におい」がしたのでそちらに行くと、はたして「旧天城街道梨本宿」という案内があった。
道がうねり、古い石仏があちこちに現れ、間違いなくここは旧街道だと確信した。
道沿いに小さな祠と案内標識がある。
寄って見ると、「関戸吉信の墓」と書かれていた。
昨日寄り道した深根城の主だった人物だ。
北条早雲の軍勢に攻め立てられて城は落ち、吉信はここまで逃れて自刃したという。
里人が武将の死を悼み、室町時代末期から今日に至るまで、こうして墓守りをしている。
新たな為政者となった北条早雲も、それを黙認していたのだろう。
人間は亡くなった時点でノー・サイド。
死者に対する畏敬の念は、日本全国、社会の隅々にまで厳としてある通念なのだ。
下田街道は、河津七滝(かわづななだる)ループ橋の下をくぐっていく。
「この道は下田街道ですよね。」
竹箒で道を掃き清めている女性に尋ねると、「へ?」と質問が分かりかねるという顔をされた。
「踊り子歩道ですけど。」
うーん、そうか。
とりあえず僕は、下田から三島大社まで続く道と思って歩いて行こう。
ループ橋の先は「河津大滝(かわづおおだる)温泉」だ。
「大滝温泉・天城荘」の脇から、小道を下りて大滝を見に行く。
火山活動で生まれた落差30mの滝は見ごたえがあった。
この豪快な水しぶきを眺めながら温泉に浸かることができるのは、天城荘の宿泊者の特権だ。
来た道を引き返して登っていくと、坂道の途中で老夫婦に声を掛けられた。
「いやぁ元気だね。最後なのにまだ体力があり余ってるじゃないか。」
最後とはどういうことか。
話を聞くと、このご夫婦はツアーで河津七滝を巡っていた。
上流の方から順繰りに来て、ここが最後の滝だという。
同様に、僕も最後にこの滝を見に来たものと勘違いしたらしい。
近くの案内板を見ると、この大滝に加えてその先には、出合滝、カニ滝、初景滝、蛇滝、エビ滝、釜滝と、全部で七つ。
このご夫婦は全ての滝を見たのだ。
踊り子歩道は渓谷に沿って、七つの滝を巡るようにルートづけされている。
滝がいくつもあるのだから、勾配もそれなりにきつい。
体力があって元気なのはこのご夫婦だったと、後でわかった。
美しい道だ。
川音がずっと鳴り響いて、清々しい気分になっていく。
「伊豆の踊り子」には、滝の描写などこれっぽちも出てこない。
けれど、踊り子と学生時代の川端康成は、きっとこの道を歩いたのだろう。
そう思えるほどに、美しい道だった。
談笑しながら歩く幾組もの男女とすれ違いながら、僕だけは、ひとり黙々と歩いていく。
渓谷沿いの道が終わり、階段状になっている木道を登っていくと、やがて山の尾根を縫うように道が続いていった。
あまりに身体がほてるので、Tシャツになって歩いていたら、杉木立の道の向こうから、トレッキングの格好をした男女3人が声を掛けてきた。
「いやぁ、若いね。半袖じゃないか。」
どこから来たのか尋ねられたので、下田から街道を歩いていることを告げると、「あらぁ、下田街道ね。私たち三島に住んでいるのよ。そこまで歩いていくのね。」と、盛り上がっている。
下田街道という道の名前を共有できたことが、素直にうれしかった。
名物のワサビ田が現れた。
いよいよ天城峠を歩いていることを実感する。
ひとり休憩していた初老の男性を追い越した。
「こんにちは」と声を掛けても、挨拶を返されるだけで、会話が生まれる気配はない。
なにか考えごとをしているようにも見える。
こういうことはよくあることで、ひとり歩いている人は、その人なりのペースと空間を保っている。
黙って歩いていても、自分自身との対話を楽しんでいることさえあるのだ。
彼がまとっていた「間合い」を侵さないようにした。
「二階滝(にかいだる)」という滝を上から眺めていたら、先ほどの男性が追いついて声を掛けてきた。
「何か見えるんですか。」
下方に滝があることを告げながら、さりげなくどこから来たのか訊いてみると、奈良から来た人だった。
どうやら急ぎの旅らしく、トンネルを抜けた先で、バスをつかまえなければならないらしい。
話もそこそこに「寒天橋」で別れた。
人がいれば人には出会う。
けれど「出会い」と呼べるほどのものにするには、双方にその意志と心の余裕が必要だ。
ひとつだけ良かったこと。
それは、僕の中で彼が興味の対象であり続けたことだった。
何か心に抱えているものと向き合っているような、そんな歩き方をしていた。
天城山隧道が見えてきた。
その人は独り、トンネルの中に消えていった。