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【第59回】みちびと紀行~甲州街道を往く(甲府柳町~韮崎) みちびと紀行 【第59回】

相生歩道橋から甲州街道を見渡す写真相生歩道橋から甲州街道を見渡す

相生歩道橋から、はるか北西に続く甲州街道を見渡す。
街道の終点は、かすかに雪を抱いたあの甲斐駒ヶ岳の向こうだ。

身延道との追分の写真身延道との追分

歩道橋からすぐ先に、身延道(みのぶみち)との分岐点があった。
この道を南下すれば、富士川の西岸を進み、日蓮宗の総本山、身延山久遠寺を過ぎて、海沿いの興津宿で東海道に合流する。
富士川の舟運と併せて、海と甲斐国を結ぶ重要なルートだ。

身延道一帯は、武田家の親類筋に当たる穴山氏が支配し、穴山梅雪は、今川氏や徳川氏との連絡役を担っていた。
やがて勝頼の代になると徳川方に寝返り、この道を通じて甲斐に侵攻する片棒を担ぐことになる。
勝頼に東への逃避行を決断させたのが、この穴山梅雪の離反だった。
身延道が、いかに甲斐国の命運を握っていたのかわかる。

穴切大神社に寄り道の写真穴切大神社に寄り道

「青沼」という名の場所があった。
昔、ここは沼地だったのだろうか。
そう思いながら地図を見ると、「穴切大神社」というものが目に入り、寄り道した。
神社は、住宅街の中にひっそりとある。意外と小さい。
けれど、その歴史の古さと由来が、大ごとだった。
説明板には、次のように書かれている。

甲斐の国は四方山に囲まれ、川は流れず水は盆地に溜り、大きな湖であった。
民は少しの田を耕し食に飢え、冬は寒さに堪え生活していた。
時の国司はこれを憂い、住民らとともに盆地南の大岩を砕き水を流すことに成功。
水は南に流れ海に入る。富士川である。

「和銅年間のできごとだった」ということなので、西暦708年~715年の頃、ちょうど奈良に平城京ができて、古事記の編纂をした時代だ。
調べると、甲府にはどうやら「湖水伝説」なるものがあるようで、この穴切神社以外にも、いくつかその伝承に基づいた寺社があるらしい。
地質学的に本当に湖があったかどうか、その結論は辿れなかった。
けれど、かつて湖だった奈良盆地の大神神社と同じく、この神社の主祭神が、国造りの神「大己貴神(おおなむちのかみ)」だったことで、何か符号が一致するように思えた。

甲斐市に入る写真甲斐市に入る

甲斐市に入った。
すでに通ってきた、甲州市や山梨市、それに甲府市と、地名の意味するところがかぶっているようでややこしい。
無難といえば無難。
隣接する南アルプス市の攻めたネーミングが際立っている。
平成の大合併の名前決めでは、いろんなしがらみがあったのだろう。

信玄堤の小さな道しるべを見つけた写真信玄堤の小さな道しるべを見つけた

「信玄堤散策コース」と書かれた小さな道しるべを見つけた。
信玄の治水事業の跡を見たくて、寄り道することにした。

釜無川の土手に着いた写真釜無川の土手に着いた
川辺にある聖牛の写真川辺にある聖牛、これが川の流れを緩やかにするのか
復元された聖牛の写真復元された聖牛

甲州街道から外れ20分、信玄堤のある場所に着いた。
ちょうど御勅使川(みだいがわ)が釜無川に合流するあたりだ。
土手の上に立つと、川面をさわやかな風が渡ってくる。
川辺には「聖牛(せいぎゅう)」と呼ばれる水の制御装置が三体並んでいた。
どうやら「信玄堤」とは、堤防だけでなく、ここら一帯の治水のしくみ全体をも意味しているようだ。
説明板をみると、次のように書いてある。

信玄堤は、この付近の堤防の名前ですが、この堤防だけでは釜無川や御勅使川の洪水を防ぐことはできません。
いろいろな施設によって洪水の流れを調整しています。
・御勅使川の流れを上流の「石積出し」で北側へはねます。
・このはねた流れを2つの「将棋頭」で受け止めます。
・次に河岸段丘を切り開いた「堀切」で御勅使川の洪水の流れを「高岩」へ導き、その勢いを弱めています。
・弱まった流れを「信玄堤」がしっかり受け止めているのです。

まるで、相手の力を受け流す合気道と、レシーブ、トス、アタックのバレーボールの連携プレーをあわせたような発想だ。

「山本七平の武田信玄論~乱世の帝王学」の写真
「山本七平の武田信玄論~乱世の帝王学」

山本七平は、「山本七平の武田信玄論」(p.62)の中で、信玄が体得した孫子の「水の哲学」を、治水にも応用したのではないかと書いている。
「水に常形なし。よく敵に因りて変化して勝を取る者、これを神という」
合戦においても治水においても、これが信玄の真骨頂だということだ。
「風林火山」だけではなく、「水」も隠れていたのか。
信玄といえば、様々な人材を、その長所を活かして用いることに長けていたから、加えて彼の総合マネジメント力も、このそれぞれ特色ある水の制御装置の緻密な連携プレーに活かされているのだろう。

富士山が遠ざかっていく写真富士山が遠ざかっていく

信玄堤から再び甲州街道に戻ると、その先は長い登り坂になっていく。
ここで甲府盆地とお別れするのだ。
ふり返ると、石和から甲府までてっぺんだけだった富士山が、その裾野を5合目あたりまで見せていた。
僕を見送ってくれているかのように、だんだん小さく遠ざかっていく。

塩川を渡る写真塩川を渡る
韮崎市に入る写真韮崎市に入る
奥秩父の山々が見える写真奥秩父の山々が見える

塩川を渡って、韮崎市に入った。
時刻は4:35pm、太陽が山の向こうに隠れたとたん、周囲が陰り始める。
中央線の線路に沿って歩いていくと、遠くに金峰山(きんぷさん)、国師ヶ岳、甲武信ヶ岳(こぶしがたけ)と、奥秩父の峰々が見えた。
僕が高校時代に初めて挑んだ高山で、そういえば登山口まで、塩山駅からワゴンタクシーに乗ったことを思い出した。
頂上からの眺めが今でも忘れられない。またいつか登ってみようか。
当時はひどく過酷な登山だったけれど、今は装備も軽量になり、体力もついたので、高校時代の自分に負ける気がしない。

地図の写真国道20号と141号にはさまれた細長い台地が「七里岩」、その先端に韮崎市がある

韮崎宿に入った。
韮崎は、「七里岩」と呼ばれる台地の先端に位置し、その台地がニラの葉の形に似ていることから、このように呼ばれているらしい。
飛行機のなかった昔に、台地全体の形状を把握できたことがすごい。
宿場の家並みが失われていても、どことなく懐かしさを感じたのは、夕暮れどきだったせいかもしれない。

韮崎宿に入った写真韮崎宿に入った
韮崎宿本陣の跡の写真韮崎宿本陣の跡
小林一三の生家跡の写真小林一三の生家跡

予約していたホテルのそばに、小林一三の生家跡があった。
阪急電鉄や宝塚歌劇団を創った屈指の実業家で、てっきり関西の人かと思っていた。
小林家は屋号を「布屋」と称する大地主で、醸造業、製糸業などを行う、このあたりきっての資産家だった。
ここにあった生家は、昭和44年に宝塚ファミリーランドに移築されたものの、阪神・淡路大震災で損傷し、残念なことに解体されてしまったらしい。
彼がここにいた証は、今やこの夕闇に浮かぶ町にぽつんと残されている生家跡の碑だけだ。

アメリカヤ横丁の写真アメリカヤ横丁、またいつか来てみよう

5:30pm、ホテルにチェックインした。
石和のホテルから、所要時間にして9時間半、甲府城や信玄堤などあちこち寄り道して、歩数は45,500歩、歩行距離は31km、結構歩いた。
腹が空いていたので、町に繰り出すものの、飲食店は軒並み閉まっている。
駅の反対側まで出ると、ショッピングモールの中にスーパーマーケットを見つけた。
まあ仕方がない、そこで食品と缶ビールを買ってホテルで食べることにするか。腹ぺこよりはマシだ。
飲食店が閉まっていたのも、たぶんこのモールができたせいだろう。
ホテルへの帰り道、別の道を通ると、雰囲気の良い横丁の飲み屋を見つけてしまった。
若い人たちが続々と集まっている。
こういうことを「マーフィーの法則」というのだろう。(死語か?)
買ったものがもったいないので、悔しいがホテルに戻ることにした。
やがてこの横丁の磁力に引かれて、次々におもしろい店ができれば、反対側のモールに一矢報いることができるはずだ。
一杯だけでも飲みに戻ろうと思っていたのに、いつのまにやら眠りについて、目覚めたら朝になっていた。

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