【第57回】みちびと紀行~甲州街道を往く(勝沼~石和) みちびと紀行 【第57回】
ぶどう寺・大善寺から先、甲州街道は国道20号から離れ、県道34号線として、長い坂を下るように続いていく。
街道の両側に、ブドウ棚をしつらえた農園が、ずらりと軒を並べている。
鮮やかなルビー色や、黒色に近い深紅など、農園によって選ばれる品種が違うようで、それぞれの敷地で、シャンデリアのようにぶら下がっていた。
「ワイン民宿」の看板が目に入る。
道すがら手に入れた観光リーフレットによれば、このあたりには、ブドウ園と一体になった宿泊施設が点在しているらしい。
時刻は3:40pm、もう夕刻近い。
今朝大月から出発してここまで、既に34kmも歩いている。
しかも、あの険しい笹子峠を越えて、、、。
今日はここに泊まってワインを堪能した方がよかったな。
温泉という名につられて、ずっと先の石和に宿をとってしまったことを後悔し始めた。
(参照:勝沼ぶどう郷民宿村 )
僕は、ワインについてはちょっとばかり知識がある程度で、ワイン通ではない。
けれど、奥行きのある味わい深いワインと、そうでないワインの違いくらいはわかる。
今年の7月7日、世界最大のワイン・コンクール「デキャンタ・ワールド・ワイン・アワード(DWWA)2021」で、甲州ワインの2銘柄がプラチナ賞を受賞した。
甲州ワインの近年の品質の向上ぶりには、目を見張るばかりだ。
遠い昔に飲んだ、甘ったるいワインの印象を、とっくに払拭しなければならなかったようだ。
高野正誠と土屋龍憲
(出典:山梨県立図書館)
日本ワインの歴史の初めに足跡を残した人物は主に3人、高野正誠(まさなり)、土屋龍憲(りゅうけん)、そして宮崎光太郎。
いずれも、この勝沼町の出身だ。
1877(明治10)年8月、殖産興業の号令のもと、山梨県に大日本山梨葡萄酒会社が設立され、手始めに、ワインの製造技術を指導できる人材を育成することになった。
祝村(現在の勝沼町)から、優秀な青年をフランスへ派遣することとなり、高野、土屋、宮崎の3人に白羽の矢が当たる。
ただ、宮崎は一人息子だったために、親の猛反対を受け、やむなく派遣を辞退する。
1877(明治10)年10月10日、高野と土屋は横浜から船に乗り、46日間の航海を経て、11月24日にマルセイユに到着する。
その後パリに到着した2人は、1ヶ月ほどで仏語が聞き取れるようになり、シャンパーニュ地方のトロワという町で、約1年間かけてブドウの栽培法とワインの醸造法を習得する。
昼は作業、夜は記録と、フル回転で学んだらしい。
1879(明治12)年5月8日に帰国した後、二人は、さっそく甲州種のブドウを使ってワイン醸造に着手する。
けれど、醸造したワインの品質にバラツキがあり、販売ルートは確立できなかった。
やがて、土屋は会社組織から脱退し、醸造人は高野ひとりになった。
そして、1886(明治19)年、大日本山梨葡萄酒会社はついに解散してしまう。
宮崎光太郎(出典:山梨県)
日本ワインもここまでか、と思われたそのとき、ワイン造りの情熱を絶やさなかったもう一人の人物が奮闘することになる。
親の反対で渡仏を断念した宮崎光太郎だ。
大日本山梨葡萄酒会社の解散後、宮崎は、残された醸造設備を譲り受け、既に脱退していた土屋龍憲とともに、「甲斐産葡萄酒醸造所」を設立し、ワイン造りを続行する。
商才があった宮崎は、一方で東京に「甲斐産商店」を開き、消費者の嗜好を探った。
当初は、ワインの質の向上に重きを置き、試行錯誤を繰り返すものの、なかなか思い通りのワインには至らない。
やがて、品種改良にかかる多額の費用が、経営を圧迫しはじめ、宮崎は、方針の大転換を決する。
「本格ワインの製造・販売」というこだわりをしばらく脇に置き、日本の庶民にもなじみやすいワインを作ることにしたのだ。
当時日本では、ワインといえば、海外産のものに甘味料を加えた甘い飲み物として流通させていた。
宮崎は敢えてこれを受け入れ、ワインにはちみつや漢方薬を混ぜた「ヱビ葡萄酒」という名の姉妹品ブランドを販売。
これが大ヒットし、業績を一気に盛り返すことに成功する。
会社は軌道に乗り、ブドウ栽培農家への支援も行えるようになった。
宮崎が興した「甲斐産商店」は、現在のメルシャン株式会社へと発展していく。
一方、土屋龍憲は、本格ワインへのこだわりを貫き通すため宮崎光太郎と袂を分かち、「マルキ葡萄酒」を設立する。
やがてここに、ワイン醸造を志す多くの若者が全国から集まり、日本の本格ワイン造りを各地で担っていくことになる。
「まるき葡萄酒」は、現存する日本最古のワイナリーとして、今も健在だ。
そして、解散した大日本山梨葡萄酒会社に最後まで残っていた高野正誠は、その後もブドウの栽培・醸造技術の普及活動につとめる。
ブドウ園の開設、ブドウ栽培、ブドウ酒の醸造の三編から成る「葡萄三説」という名著を残し、多くの醸造家の指針となり続けた。
この三人が、一体となって日本ワインを興したのではない。
むしろ、妥協することなく別々の道を進み、それぞれの役割を果たしてきたからこそ、今の日本ワインの隆盛があるのだろう。
三者三様あれど、その足跡のどれもが、今や世界に名声を確立した甲州ワインの金字塔に至る一里塚なのだ。
あきらめず、前を向いて進んでいく。
そのひたむきな歩みが、やがて何処かのゴールに行き着くことを物語っている。
勝沼宿の本陣跡を過ぎ、下り坂もだんだんと平坦になってきた。
甲府盆地に近づいていくのだ。
それまで続いていた街道脇のブドウ棚も、次の栗原宿に入る頃には、廃業したブドウ園を多く見かけるようになった。
「後継者不足」ということだろうか。
農家の子息に、「農家を継がない」という選択肢はあっても、サラリーマン家庭には、「農家を継ぐ」という選択肢がめったにないのだから、当然といえば当然か。
その後、たまたまNHKを見たら、ブドウ栽培も後継者不足が深刻で、特に収穫時期を見極める「色」の判断が、農家の経験値によって左右され、その技術の継承も深刻な問題だということだ。
この解決のため、山梨大学大学院のチームが、AIを使ったメガネ型デジタル端末の「スマートグラス」を開発して、これまで経験に頼ってきた収穫に適した色の判断を「見える化」することに成功したそうだ。
これからの日本の農業は、こうした技術革新と新たな発想が支えていくことになるのだろう。
時刻は4:40pm、あたりはどんどん暗くなっていく。
自転車に乗った下校途中の女子高生が、僕に「こんにちは」とあいさつしながら通り過ぎていった。
旅人風の僕に気づいた彼女に対し、今日のゴールの石和宿にたどり着くことだけ考えていた自分を、少し恥じた。
もっと余裕をもって、この通り過ぎていく景色を味わいながら歩いていこう。
栗原宿には、徳川将軍家を支えた御三卿のひとつ、田安家の陣屋跡があった。
第八代将軍徳川吉宗の次男、田安宗武は、1746(延享3)年、領地として甲斐・武蔵・下総・和泉・摂津・播磨の6カ国にわたって10万石を与えられている。
甲斐ではこのあたり一帯を含めて、石高3万ほどを得ていた。
御三卿は、大名や御三家のように、家臣団による藩政を行っていたわけではなく、常時江戸城内にいて領国経営は幕府に任せていた。
「将軍家の家族・身内」という位置づけゆえで、彼らの役割は、将軍家の血筋を絶やさぬこと、その一点にあった。
第七代将軍徳川家継の死去により、秀忠からの男系子孫の将軍家が絶えたのちに、紀州藩主の四男という身の上からいきなり将軍になってしまった吉宗にとって、徳川の血筋を絶やさぬ仕掛けは、御三家だけでは不十分と見たのだろう。
「血脈のスペア」の用意も万全、避難路の「甲州街道」の守備も上々だったはずの徳川将軍家も、最期はあっけなく崩壊してしまった。
これはいったいなぜなのだろう。
もやもやと考えながら、夕闇の中を歩いていた。
5:00pm、笛吹市に入った。
目指す石和宿は、もうすぐそこだ。
西に南アルプスの山々がそびえているせいなのか、日はとっくに山脈の向こうに落ちてしまった。
笛吹川の流れの向こうに、甲府のあたりだろうか、煌々と街の明かりが見える。
川を渡った先に、予約していた今日のお宿を見つけると、今日一日の疲れがどっと出てきた。
玄関の自動ドアを入り、体温チェックと手の殺菌を済ませて、フロントまで足を引きずっていく。
「渡辺様ですね。お待ちしておりました。」
「お世話になります。初めてなのに、よく僕だと分かりましたねぇ。」
「ええ、今日はあまりお客様がいらっしゃらないですし、歩いて来られると伺っていましたから。」
バスツアーの団体客は途絶えたままのようだった。
時刻は5:30pm。
今朝7:00amに大月を出発してここまで、所要10時間半。
歩行数5万8千歩、距離にして43kmの歩き旅だった。
荷物をほどき、大浴場へまっしぐら。
大きな浴槽を独り占めして、全身を湯の中にゆだねる。
甲州街道一番の難所、笹子峠を無事に越え、ここまでたどり着いた充実感に浸る。
ああ、ここに宿を決めておいてよかった。
温泉の魔力にはやっぱりかなわないと知った。