【第53回】みちびと紀行~甲州街道を往く(相模湖~上野原) みちびと紀行 【第53回】
10月11日月曜日6:38am、JR中央本線の電車は、定刻通り相模湖駅に着いた。
今日はここから、甲州街道歩きの旅の続きを始める。
天気予報は晴れ。前回の夏の陽気が、今回は打って変わって肌寒い。
この一週間で、秋もかなり深まったようだ。
相模湖駅から歩いて7分、与瀬宿の本陣跡があった。
茂みに隠れていた「明治天皇與瀬御小休所跡」の碑があっただけで、宿場町の雰囲気がほとんど感じられず、このままでは物足りない。
右手の山の中腹に見える古そうな神社とお寺に行ってみることにした。
神社の鳥居を入り、中央自動車道を眼下に見下ろす歩道橋を渡ると、右に慈眼寺、左に與瀬神社の鳥居があった。
まずは、この地域の鎮守であろう與瀬神社の石段を登っていく。
一段ごとに高速道路の車音が消え、あたりは静寂と森の匂いに包まれていく。
石段を登り切ると與瀬神社の風格のある社殿が現れた。
「与瀬のごんげんさま」と地元では言われていて、奈良の吉野山の蔵王権現を勧請した古社だ。
「創建年不詳」ということで、ずっと前からこの地域の人々を見守り続けてきたのだろう。
石段を下り、続いて、隣にある高野山真言宗の金峰山慈眼寺を訪れる。
このあたりの土地は、どういう経緯か知らないけれど、奈良県の吉野山や、和歌山の高野山とのつながりがあるようだ。
境内の弘法大師の像の肩越しに、美しい相模湖の景色が広がっていた。
境内を出たところで、早足で歩く地元の男性に出会った。
「おはようございます」とご挨拶すると、会話が始まった。
60代の方かなと思っていたら、76歳の方だった。
肌つやもよく、ずいぶんとお若く見える。
「60歳になってから毎朝歩いてるからねぇ。あちこち病気が出てたけど、歩いてたらすっかり治って、あとは健康そのもの。歩くのはいいよ!これからは歩いた方がいいよ!」
と、大きな声で力説された。
やっぱり歩くのはいいんだな。
与瀬宿から先、甲州街道は、オリエンテーリングのように手がかりを探しながら進む。辿るのが楽しい。
細道、階段、山道。
小さな道しるべが指し示す方向へと、途切れることなく続いていく。
やがて、坂道をいっきに下った先に高札場の跡があり、吉野宿へと入った。
ちょうど相模川の川幅がぐぐっと広がり、相模湖へと変化するあたりにこの宿場町はある。
相模川をせき止め人造湖を作る事業は、日中戦争の最中、昭和15(1940)年に着工され、終戦後の昭和22(1947)年に完工した。
当時人口が急増していた神奈川県の都市用水、電力・工業用水、農業用水を確保するためには不可欠の事業だった。
この相模湖の造成によって湖底に沈んだ集落があったこと、そして、その記念碑がこの近くにあることを知って、そこまで寄り道することにした。
その集落の名は、日連村勝瀬地区。
全部で93戸の家がこの土地をあとにし、よそに移住していった。
村人の主な移住先は、この相模湖の周囲と、日野、八王子、そして27世帯は、同じ神奈川県の海老名市に移り住み、移住先の地名は「勝瀬」になっているとのことだ。
当時、村では反対運動が起こり、神奈川県知事だった半井清(なからいきよし)氏が現地入りして直接村人を説得した結果、住民が反対運動の旗を下ろすことになったという。
戦時下ということもあって、個人の権利を押し通せる時代でもなかったのだろう。
ただ、今の神奈川県の繁栄は、少なくともその人口や産業規模に見合う水資源がなければ実現していなかったわけで、将来の日本人の豊かな生活と広域の発展の可能性に向き合い、衝突を恐れず根気よく住民を説得した知事にも、説得を受け入れて移住を決めた住民にも、その両者の勇気と大きな視野にただただ敬服するばかりだ。
かつての集落は、相模川を横断する勝瀬橋を渡った先にあった。
橋を渡って、ラブホテルがある道の奥に進むと、その証を見つけた。
「この湖底にかつて勝瀬あり 祖先の霊をなぐさめふるさとをしのぶ」
この簡潔な碑文に落ち着くまでに、どれほどの葛藤があっただろう。
そんなことを思いながら、「勝瀬ふるさとの碑」と一緒に、しばらく湖面を眺めていた。
勝瀬橋を渡って吉野宿に戻る。
吉野宿にはかつて、江戸末期に作られたという木造5階建ての本陣が偉容を誇っていた。
ところが、残念なことに、明治29年の暮れに起こった吉野宿の大火で、土蔵だけを残して焼失してしまった。
町全体が燃えて、今では、その大火の直後に建てられた「吉野宿ふじや」の旅籠風の建物と、本陣の土蔵だけが宿場の名残をとどめている。
吉野宿を去って、JR藤野駅の先、関野宿に向かう。
またしても、細道、山道、不思議な道を辿っていく。
アップダウンの激しい道で、ハイキングと変わらない。
関野宿に着いた。神奈川県最後の宿場町だ。
ここは、まったくと言ってよいほど、宿場町の面影が消えていた。
明治21年の火災と、その後二度の大火に遭い、昔の建物はすべて焼失してしまったということだ。
吉野宿に続いて、この町も火災で焼失してしまったことを思うと、今も昔のまま残されている宿場町の方が、ありえない奇跡とさえ思えた。
関野宿をあとにして、再び坂道を上っていく。
眼下に、ほとんど湖と化した翡翠色の相模川が見える。
やがて国道20号を越えて坂道を下った先に、相模川に注ぐ小さな川があった。
境川と言って、この川が相模国と甲斐国の国境になっている。
境沢橋を渡って、いよいよ山梨県に入った。
坂道を上っていくと、「諏訪関跡」があった。
ここは相模国から甲斐国に入る場所に当たり、通行と物資の取り締まりが明治2年まで行われていた。
ここにはかつて40坪の草葺きの木造平屋建ての番所があって、番所の閉鎖とともに用済みになり、のちに渋沢栄一に買い取られ、飛鳥山の別荘として移築されたらしい。
今ではぽつんと石碑だけが残っていたけれど、街道を汗をかきかき歩いてきたおかげで、関所のイメージが大いにわいた。
僕はかつて、22歳のときに、チュニジアとアルジェリアの国境の砂漠を歩いて通過したことがあり、不安と期待が合わさったその時の胸の高鳴りを思い出して、昔日の旅人に勝手に当てはめてみた。
時刻は10:00am、美しい青空が広がり、気温も20℃まで上がってきた。
諏訪番所跡から歩いて10分ほど、諏訪神社にたどり着いて、ここで休憩。
今では蝉の声もなくなって、さわやかな風が木々を揺らす音だけが聞こえていた。
再び街道を歩いていくと、「疱瘡(ほうそう)神社」という場所があった。
説明板によれば、こんな伝承が残されている。
江戸時代初め、疱瘡神と縁のある越前国(福井県)湯尾峠生まれのあばた顔の老婆が、諸国遍歴の途中、この地で倒れ、村人の手厚い看護に感謝して「この地を疫病から護る。疱瘡の神を祭れ」と言い残して亡くなった。
そこで村人は湯尾峠まで出向き、疱瘡の神を勧請して、万治4(1661)年にこの疱瘡神社を建立したということだ。
疱瘡というのは、今はない世界中で撲滅した天然痘のことで、日本では6世紀に仏教伝来とともに侵入して、以来大流行を繰り返してきたらしい。
コロナもさっさと撲滅されればいいなと、境内に入ってお参りをした。
境内の奥には「塚場一里塚」と呼ばれるものがあり、こんもりした小さな丘だけが残されていた。
さあ、行こうと振り向いたら、「こちらも持って行ってくださいよ」と、いつのまにかおじいさんがこの神社の案内のチラシを持ってきてくれていた。
「やぁ、ありがとうございます」と、しばらくお話をした。
かくしゃくとした方で、今年の11月で96歳になるそうだ。
「昔はあの塚の上には大きなカヤの木がありました。ふつう一里塚には榎とか松を植えるものなんですけど、カヤの実は食べられるということで、植えられたみたいですな。それが戦時中に船を作る材料とかで切り倒されてしまいました。残念なことです。もうそれを知っているのは私くらいしかいなくなりました。」
こうして淡々と語るおじいさんが、なにかとても神々しく思えてきて、別れたあとで手を合わせた。
時刻は10:30am。
疱瘡神社を過ぎると、10分ほどで上野原宿に入った。
昼食の時間にはまだ早い。けれど小腹がすいてきた。
、、、と、おあつらえ向きに、酒まんじゅうを売る店がずらりとあるではないか!
どうやら上野原の名物らしい。
反射的に店に入って、つぶあんひとつ、味噌ひとつを速攻で買った。
ぷうんと酒の匂いががするまんじゅうをムシャムシャ頬張りながら、街道を進んでいく。
上野原宿はちょっとした町で、久しぶりに活気のある宿場町に来た気がする。
脇本陣の跡にはホテルが建ち、本陣跡には門が昔のまま残されているだけだ。
なんということはないのだけれど、この町に1泊でもいいから滞在したくなった。
まんじゅう屋、お茶屋、魚屋に八百屋、洋品店、本屋、そして時計店、、、。
そんな一軒一軒のお店を構えている町が、僕にとっては懐かしく心が落ち着くところに思えた。
上野原市役所の前から、甲州街道はいっきに坂を下っていく。
まるで次々に場面が変わる紙芝居を見ているように、目まぐるしく風景が変わる。
さあ、次はどんな出会いがあるだろうか。
そんなワクワクを抱えながら、踊るように階段を降りていった。