【第48回】みちびと紀行~甲州街道を往く(笹塚~府中) みちびと紀行 【第48回】
笹塚のインド料理店を出て、首都高が作る日陰の中を、西へ向かって歩いていく。
京王線が、甲州街道の南側を、並行して走っていく。
右側に明治大学の和泉キャンパスが見えてきた。
左には、バンカラな(死語だな)面影をたたえた、明大前駅の飲み屋街が現れる。
「美味い、安い、多い」が売りの、若者の街のにおいがする。
ところがだ。コロナ禍のせいか、人影が見あたらない。
飲み屋は営業自粛、学生はおおかた自宅のパソコンかスマホでオンライン授業でも受けているのだろう。
おそらく新入生は、いまだクラスメートにも会ったことがないはずだ。
なんという青春時代!
この個々に流れ去る時間と、行き場を失った青春期特有のエネルギーは、きっとこの先の人生のどこかで埋め合わせすることになるのだろう。
バブル期に青春を謳歌した僕は、なんだかとても申し訳ない気持ちになった。
高井戸宿に着いた。
この宿場は、下高井戸と上高井戸の二つでひとつの宿場となっていて、月初から15日までを下高井戸宿、16日から月末までを上高井戸宿がつとめていた。
かつては甲州街道第一番目だったこの宿場も、内藤新宿ができた後は、次第に素通りされるようになった。
今ある甲州街道は、車通りが激し過ぎて、宿場の雰囲気がみじんも感じられない。
意地になってあたりを見まわしていたら、車道側に「甲州道中一里塚跡」の説明板がひっそりとあるのを見つけた。
「この場所の前方、高速道路下に、日本橋から数えて四里目を示す一里塚がありました」とある。
都市化によってここまできれいさっぱり上書きされてしまった街道を歩くのは、今回が初めてだった。
首都高速は、やがて上北沢駅の辺りで、中央自動車道につながるべく大きく右にカーブを描いていった。
旧甲州街道は、その先環八通りの交差点から大通りと分かれ、ようやく落ち着いて歩ける道になった。
ふと見上げると、「芦花公園駅」という標識がある。
調べてみたら、この駅を南に行ったところに、明治・大正期の文豪、徳富蘆花が後半生過ごした住まいの場所があって、今は公園になっているらしい。
彼と夫人が愛した「武蔵野」の風景が、そこには残されているということだ。
(参照:蘆花恒春園HP URL:https://www.tokyo-park.or.jp/park/format/index007.html )
「武蔵野」、この言葉の響きにつられて、国木田独歩の「武蔵野」を読んだ。
1898(明治31)年、新宿駅ができてから13年後、この作品は「今の武蔵野」という名で発表され、のちに改題された。
独歩は渋谷村に住んで、秋から冬にかけて、毎日のように近郊を散歩し、彼が感じとった変わりゆく武蔵野の風景を、流麗な文体で描写している。
「昔の武蔵野は萱原のはてなき光景をもって絶類の美を鳴らしていたようにいい伝えてあるが、今の武蔵野は林である。林は実に今の武蔵野の特色といってもよい。」
この時はすでに、花札の「坊主」のような典型的なススキの原野の風景は消え去り、人々が住む、薪炭用の林がある田園地帯になっていたようだ。
「武蔵野に散歩する人は、道に迷うことを苦にしてはならない。どの路でも足の向くほうへゆけばかならずそこに見るべく、聞くべく、感ずべき獲物がある。」
独歩はとりつかれたように武蔵野を歩きまわる。
何が彼を魅了するのか、それを確かめるように。
そして、最後にこう、武蔵野の魅力を悟るのだ。
「大都会の生活の名残りと田舎の生活の余波とがここで落ちあって、緩やかにうずを巻いている」
彼が愛した武蔵野は、屹立とした自然の風景ではなく、自然にも都会にも接して生きる、人々の暮らしの暖かさ、美しさ、おかしさであると。
その大都会と田舎の接点は、西の郊外にじわじわと追いやられ、独歩と同世代の徳富蘆花が、都会の喧噪から逃れこの地に移住して以降も、東京は膨張し、西進を続けた。
メトロポリス東京は、この武蔵野という広大な後背地と引き換えに成立したのだ。
そして今や、令和の時代。
甲州街道沿いには、独歩や蘆花が愛した武蔵野の風景は見あたらない。
仙川を渡ると、旧甲州街道は、国道20号線に再び合流した。
マヨネーズの容器と同じく、網目模様でしつらえた、キユーピーの工場が左手に見える。
反対側にはひっそりと、「滝坂の碑」があった。
ここにはかつて断崖があって、甲州街道の難所として知られていた。
明治天皇が、行幸の際にここで落馬しそうになって、その後坂を切り崩してなだらかにする工事が行われたらしい。
その改修された道を、車が激しく行き交っていく。
野川を越えていく。
やがて旧甲州街道は、国道20号から左へと分かれ、再び落ち着いた道になっていく。
このあたりは「布田五ヶ宿」といって、五つの宿場がひとつの宿場として機能し、月の1日から6日までは上石原宿、7日から12日までは下石原宿、13日から18日までは上布田宿、19日から24日までは下布田宿、25日から月末までは国領宿が宿場をつとめた。
甲州街道と京王線の間にある商店街はどこも活気があって、人々の暮らしが垣間見える。
街道沿いには、「小島一里塚」が窮屈そうに佇んでいた。
調布を過ぎて行くと、「新撰組局長 近藤勇 生誕の地 上石原」と書かれたのぼりが道ばたに立っていた。
近藤勇といえば、中山道・板橋宿の胴塚や、東海道の岡崎にある首塚など、彼の死にゆかりのある場所には行ったことがあったけれど、生誕の場所に来たことはなかった。
以前僕は、新撰組にはあまり共感できずにいたけれど、最近になってなんとなく心惹かれるようになってきた。
彼らの旗印に浮かぶ「誠」の文字が、今の僕には染みてくる。
これまで主張してきた「信念」をその時々で翻し、その場その場の状況に合わせて演じてみせる処世術に、疲れてしまったのかもしれない。
甲州街道沿いの西光寺に、その近藤勇の坐像があった。
真一文字に結んだ口元が、近藤勇のイメージ通りだ。
近くにあった説明板によると、彼は、天保5(1834)年に上石原村の宮川久次郎の三男として生まれ、幼い頃より武芸に親しみ、後に天然理心流近藤周助に師事し、近藤家の養子となってその流派を受け継いだとある。
彼は最期に甲陽鎮撫隊を編成して、ここから故郷の村人に見送られながら、甲州街道を西に向けて出陣していったらしい。
板橋で処刑された後、会津藩主・松平容保が贈った法号に、彼の生涯と人となりがしのばれる。
その法号は、「貫天院殿純忠誠義大居士」という。
中央自動車道の高架をくぐって進んでいく。
ユーミンの「中央フリーウェイ」の冒頭に出てくる「調布基地」はとうの昔になくなって、今では伊豆の島々に向かう定期便の飛行場と、東京スタジアムになっている。
さらにその先、競馬場の標識を通り過ぎると、府中宿はすぐそこだ。
府中まで来て、ようやく宿場の面影を感じる町に出会った。
甲州街道と府中駅前通りの交差点の一角に、「明治天皇行在所跡」がある。
明治天皇は、明治13年から17年にかけて、この府中の行在所に仮住まいし、ウサギ狩りや鮎釣りをしたようだ。
そんなのどかな場所だった府中も、今やすっかり都会だ。
その行在所は、府中の商人、田中家のあった場所で、「柏屋」という屋号の脇本陣だった。
跡地はビルになっている。
「もうなくなってしまったのか」と残念に思いながら辺りを見まわしたら、「柏屋」という屋号を掲げたお店が、通りの反対側にあるのを見つけた。
こうして昔から今に続く「縦糸」が残されていることがうれしく、楽しい。
時刻は5:20pm。
日本橋からここまで9時間半、5万3千歩、約41kmの歩き旅だった。
真夏日に歩くのはさすがにしんどかったけれど、首都高の日陰の恩恵と、ちょこちょこ食べながら歩いたことで、疲労感はあまりない。
今まさに行われているオリンピックの選手たちにはとうていかなわないものの、僕自身の体力でここまで来れたことがうれしい。
甲州街道歩き第一日目としては上出来だ。
そんな達成感をおみやげに、京王線府中駅から新宿行きの急行電車に乗りこんだ。