【第46回】みちびと紀行~甲州街道を往く(半蔵門~内藤新宿) みちびと紀行 【第46回】
半蔵門を背に、甲州街道は、「新宿通り」という名で麹町をつらぬき、新宿まで続いていく。
新宿通りは武蔵野台地の尾根筋を通っていて、左右両側の道は坂になっている。
今ではビル街が続いてなかなか想像できないけれど、室町時代、太田道灌が江戸城を築いたころ、このあたりは、山の尾根から見下ろすように風景が広がっていたのだろう。
山城は、尾根筋の先端部分や最も高い場所を選んで築かれるものらしく、「守りやすく攻めにくい」という特徴があるそうだ。
道灌は、まさにその理論に従ったというわけだ。
JR四ッ谷駅がある四谷見附橋を渡る。
このあたりには見附番所が置かれ、北側には尾張徳川家、南側には紀州徳川家があって、江戸城防衛の要となっていた。
もともと新宿方面から江戸城への道は、防衛上の理由から、ここでクランク状に曲がっていた。
けれど明治以降になって、それでは「交通の障害」になるということで、新宿通りをまっすぐ通すこの四谷見附橋が、1913(大正2)年に完成した。
同じ「交通の障害」でも、江戸以前は、むしろその方が防衛上好ましいとされていたことがおもしろい。
ものごとの善し悪しは、その目的次第だ。
しばらく来ぬ間に、四ッ谷駅前には高層ビルができていた。
「コモレ四谷」という地上31階建てのオフィスビルで、四谷にはそれまで高いビルなどなく、高層ビルの「波」が赤坂の方からこちらまで押し寄せてきているようだ。
このビルの建設の際に、地中から埋蔵文化財が出てきて、その遺跡見学をさせてもらったことがある。
麹室(こうじむろ)や、江戸に生活用水を供給した玉川上水の跡がくっきりと見つかったのだ。
それまで「麹町」の名前の由来は、「麹を作る業者がいた」とか、「小さな路地(小路)が多かった」など、いくつか説が挙げられていたけれど、このときの発掘で、麹業者が実際にここにあったことが証明された。
ビルのわきには、玉川上水の跡がきちんと再現されていて、モダンなビルなのに、その土地の記憶を消し去ることなく、歴史の厚みをしっかりと今に伝えようとしている。
粋なはからいだ。
新宿通りは道幅が広く、特にこの四谷から新宿にかけては、舗道もゆったりして、どことなく優雅な雰囲気がある。
1903(明治36)年から1968(昭和41)年まで、ここには路面電車が走っていて、東京市(当時)は、事業者に軌道を開設する特許の条件として、業者の費用で道路の拡幅をさせた。
この道幅の広さは、そのときの恩恵なのだ。
路面電車がもし今も残っていたなら、このあたりはさらに風情のある楽しい街になっていただろう。
そういえば、僕は昔このあたりに住んでいた。
思い出したら、以前住んでいた界隈に行ってみたくなって、左側の小道に入っていった。
3分ほど歩くと「西念寺」があった。
ここは、「半蔵門」の名前の由来となった服部半蔵正成が開いたお寺だ。
このあたり、江戸時代は「伊賀町」と呼ばれていて、伊賀衆の組屋敷があったところだ。
西念寺は、もともと今の紀尾井町の辺りにあって、江戸城の拡張とともに、こちらに引っ越してきた。
この寺は、正成が、徳川家康の長男の松平信康の供養をするために建てたもので、信康の供養塔のわきに正成のお墓が静かにたたずんでいる。
信康は、家康がまだ浜松城にいたときに、武田勝頼と通じているという嫌疑をかけられ、織田信長に自刃させられた人物だ。(このあたり諸説ある。)
かつて正成は信康の守り役で、信康が自刃する際にその介錯をするはずだったものの、情が深すぎて介錯できなかったという逸話がある。
何はともあれ、そういったいわくつきの人物を、信長が生きているうちにおおっぴらに弔うのは、はばかられたことだろう。
家康に影のように従い、本能寺の変のあと、家康の「伊賀越え」の際に死線を切り開いた正成が、人生の最期に決めた仕事がこの信康の供養だった。
それは正成自身の意向だけでなく、ひょっとしたら、家康の秘めた思いも引き受けてのことだったのかもしれない。
そんなことを想像しながら、お墓の前で静かに手を合わせた。
西念寺の先は、急な下り坂で谷のように落ち込んでいる。
13年前に住んでいたマンションの部屋には、僕から何代後なのだろう、「後輩」住人の洗濯物がはためいていた。
僕はここに住んでいた頃に体力作りに目覚め、仕事が終わってから夜間にジョギングしたり、近所の須賀神社で筋トレしたものだ。
数年前に「君の名は」という大ヒットしたアニメ映画を見る機会があって、ラストシーンの場所にどうも見覚えがある気がした。
調べると、やはり、この須賀神社の石段がモチーフになっていた。
そのことは、若者の間ではわりと有名なことらしく、一時期は「聖地巡礼」と称して、海外からも観光客が石段の写真を撮りに来てにぎわっていたらしい。
懐かしさにかられて須賀神社まで歩いていくと、そこには、屈強な若者がいてトレーニングをしていた。
邪魔をしないように遠巻きに眺めていたら、カエル跳びで石段を昇っていった。
僕とあの若者にとって、この場所は筋トレの聖地なんだろうな。
新宿通りに戻り、四谷三丁目を過ぎていく。
外苑西通りを越えたところに「四谷大木戸跡」があった。
大木戸は、江戸に出入りする人や荷物を監視するところだ。
そしてここから、甲州街道第1番目の宿場町、内藤新宿がはじまる。
名所江戸百景 内藤新宿
1697(元禄10)年、5人の浅草商人が、このあたりに新しい宿場を作りたいと幕府に願い出た。
将軍綱吉、老中柳沢吉保の頃で、都市町人が台頭し、元禄文化が花開いた時代だ。
幕府は5,600両の上納金を納めることを条件に許可を与え、宿場を開設することとなった。
新宿の幕開けだ。
それまでは、甲州街道の最初の宿場は、日本橋から約16km離れた高井戸宿で、「遠くで不便だから」というのが表向きの理由だった。
けれど実のところ、この地を新たな繁華街として開発し、商売によって利益を上げようというのが、浅草商人の計画だったらしい。
その思惑どおり、新宿は今に至るまで繁華街であり続けている。
街道の右側、新宿二丁目の太宗寺には、街道の入口に置かれた大きな地蔵菩薩像が今も残っている。
僕は、同じ大きさの地蔵菩薩像を東海道の品川寺、中山道の真性寺でも見ていて、これもその「江戸六地蔵」のひとつだ。
その隣には閻魔堂があった。
そのまま中をのぞいても暗くて見えないけれど、照明のスイッチを押すと、都内最大の閻魔像が正面に現れる。
わりとユーモラスな表情で、それほど怖くはない。
ところが、そのわきに浮かび上がる「奪衣婆(だつえば)」は、トラウマ級におそろしかった。
昔の人は、身近に地獄を見せることで、倫理感を保ったり、子供を教育していたのだろうか。
僕の子供時代は、すでにそういう状況ではなかったけれど、代わりに人間の怨念に満ちあふれた怪談話や、おどろおどろしい昔話は、低学年でもほとんどの子供たちは聞き知っていて、うぶな方ではなかった。
もちろん並行して「アンパンマン」や「ぐりとぐら」のようなのどかな絵本もたくさんあった。
けれど、どちらが人気だったかといえば、怖い話をせがむ子供たちの方が圧倒的に多かったように思う。
今はどんな状況なのか、詳しくは知らない。
新宿三丁目の「追分」についた。
内藤新宿はここで終わり、その先は、左方向に行く甲州街道と、伊勢丹の横をまっすぐ突き進む青梅街道に分かれる。
青梅街道は「甲州裏街道」とも呼ばれ、中野、田無、小平、青梅と続き、その先は大菩薩峠を越えて、甲府に結ばれる。
時刻は11:45、正午のチャイムに押し出されて、街に人があふれ出す前に、新宿を越えてしまおう。
照りつける太陽の下、ただひとり黙々と、甲州街道を歩き続けた。