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【第42回】みちびと紀行 ~中山道を往く(深谷宿~本庄宿) みちびと紀行 【第42回】

朝の深谷駅の写真朝の深谷駅

3月下旬のある晴れた日、僕はまたJR深谷駅にやってきた。
時刻は9:30am、NHK大河ドラマ「青天を衝け」の効果なのだろうか、高崎線の電車から降りた乗客は、思いのほか多い。

今日は前回の続きで、この深谷宿から京都方面に向かって中山道を歩く。
本庄宿を抜け、県境を越えて群馬県の新町宿まで、22.5kmの道のりだ。
レンガの駅舎を出た観光客たちは、渋沢栄一記念館やNHK大河ドラマ館を巡るコミュニティバスの停留所に向かっていく。
僕だけひとり、群から離れて中山道の方角に歩いていった。

深谷本陣跡の写真深谷本陣跡、今は印刷屋さん

深谷宿の本陣跡があった。 「飯島印刷」となった敷地の説明版には次のように書かれている。

「本陣は、脇本陣並びに旅籠と違い、一般人は利用出来ず、即ち公儀の厳重な制約を受け続けました。中山道筋の貴人の通行の例としては年間、泊まり10件、休憩40件程で誠に少なく、為に本陣職の大半は、ほかに主たる職業を持っていました。飯島家は宝歴2年(1752年)より明治3年まで、足かけ6代にわたって、やむなく本陣職を続けざるを得ませんでした。」

文章全体から、本陣を続けることの切実とした難しさが読みとれる。
「本陣」とは、名誉職ではありながらも、実入りの少ないやっかいなものだったようだ。
僕のような通りすがりの旅人からすれば、街道筋に本陣の歴史ある木造建築が残っている方がわくわくするけれど、それも自分勝手な期待というものか。反省した。

七ツ梅の写真七ツ梅

すぐそばに、「七ッ梅」という何とも味のある酒造の建物があった。
七ッ梅酒造は、元禄7年(1649年)に近江商人の田中藤左衛門が創業し、かつては埼玉県でも1、2を争う老舗の蔵元だったものの、2004年(平成16年)に廃業したそうだ。
現在は、一般社団法人まち遺し深谷が保存と運営・管理を担っている。

(参照: https://www.machinokoshi.com/pages/2592666/introduction

昔の面影が残っている写真昔の面影が残っている
深谷シネマの写真深谷シネマ

この約950坪の敷地内には、喫茶店やBarや古書店などが集まっている。
古いものに囲まれるとなぜか心が落ち着くように、懐かしくリッチな時間を堪能できそうだ。
敷地の奥に入っていくと、映画館があった。
「深谷シネマ」といって、1日に4~5本ずつ、映画を順番に上映しているようだ。
小劇場によくある「尖った」ラインアップのポスターが並んでいる。
入り口に物腰の柔らかいご婦人がいて、聞けば映画館のスタッフだという。
この映画館は、60人まで収容できて、コロナ禍前はけっこう観客も多かったけれど、今はその半分くらいしかいないそうだ。
「それでも、東京からやってきて、一日じゅう映画をご覧になるかたもいらっしゃるんですよ。」
その声の調子がなんとも優雅で、この古い酒造の跡地に流れるゆったりとした時間に調和していた。

(参照: http://fukayacinema.jp/

深谷宿の西の入り口の写真深谷宿の西の入り口、常夜灯が残る

中山道の京都側の常夜灯を過ぎて、深谷宿をあとにする。
この季節、道の脇に色とりどりの花が咲き誇って、平和な気持ちになる。
あちこちの庭先で人がしゃがんで、花の手入れをしていた。
ひと仕事終わったのか、3人の女性が路肩に仲良く座りながら、花を眺めている。
「きれいな花ですね」と声を掛けると、「お兄さん、花の名前わかる?」と、しばらくなぞなぞを出された。

花の写真あちこちで花の手入れをしている
仲良し3人組の写真仲良し3人組
史跡 高島秋帆幽囚地入口の写真史跡 高島秋帆幽囚地入口

街道沿いに「史跡高島秋帆幽囚地入口」と書かれた碑があったので、ちょっと寄り道する。
高島秋帆(しゅうはん)は、長崎出身で、出島のオランダ人から砲術を学び、欧米のアジア進出の危機に備えるため、幕府に砲術の改革を進言した人物だ。
大河ドラマ「青天を衝け」では、玉木宏が秋帆役に扮している。
彼がオランダ人から洋式砲術を学び始めたのは16歳のとき、文化11年(1814年)のことで、1839年に起きたアヘン戦争よりもずっと以前のことだった。
この時代の日本は、鎖国とはいえど、海外への関心は高く、長崎にいた秋帆は、どん欲に情報を得た上で、早くから自分の「役割」にも気づいていたのだろう。
幕府に進言して、江戸近郊の徳丸ヶ原で洋式の砲術演習を行ったのが天保2年(1841年)、老中阿部正弘から「火技中興洋平開祖」と称賛されたのもつかの間、翌年には中傷によって逮捕され、3年間投獄されてしまう。
その後は獄を解かれ、この一帯を領していた岡部藩の「預かり身分」となっていた。
やがて、ペリー来航によって彼の先見性が証明され、幕府に重用される。
この時代、日本の隅々から、彼のような「憂国の士」が輩出されたことは、まさに幸運なことであったし、そのような状況を可能にした条件については、改めて検証する意義があるだろう。

岡部藩陣屋跡にある「高島秋帆幽囚の地」の碑の写真岡部藩陣屋跡にある「高島秋帆幽囚の地」の碑

高島秋帆の名は、砲術演習が行われた江戸近郊の地に残っている。
その場所は今、「高島平」と呼ばれている。

中山道は右の道に続く写真中山道は右の道に続く
百庚申の写真百庚申

中山道に戻って進んでいくと、庚申塔がずらりと並んだ「百庚申(ひゃくこうしん)」という場所があった。
説明板によれば、万延元年の庚申の年(1860年)に、この地の有志13人が建てたものらしい。
この年には「桜田門外の変」があり、その前には黒船も来航していて、民衆も、これからどのような時代になるのかと不安が重なっていた時期だった。
「そういう背景から「神仏に頼ろう」という民衆心理が働いたのだろう」と説明板に書かれていた。
それにしてもおびただしい数の庚申塔だ。
この時代、このような地方の民衆が国を憂い、手の届かない国政に対して、いたたまれずに庚申塔を作り続けていたのか。
昭和の時代に日本に生まれ、自動的に得た参政権を持てあましている僕は、しだいに恥入る気持ちになっていた。

滝岡橋の写真滝岡橋を渡る

「滝岡橋」を渡って小山川を越えた。
花崗岩で作られた親柱は、威厳があってどこか懐かしい。
「きっと名だたる橋だろう」と思いながら渡り終えると、橋の袂に国の登録有形文化財に指定されたことを示す碑があった。
橋は昭和3年に作られ、かつてはこの親柱の中に灯りがともり、人々が集まって夕涼みをしていたらしい。
そんな楽しい思い出と一緒に、この橋をずっと守り継いで行きたかったのだろう。このあたりの自治会や老人会の方々が集まって、この橋を文化財として登録してもらうように県議に働きかけたと記されている。
観光資源とか、町おこしとか、そういうことではなく、「この橋を守りたい」という純粋な思いが伝わってきて、しばらくこの橋からの川景色を眺めていた。

本庄市街まであと1時間の写真本庄市街まであと1時間

時刻は正午をまわった。そろそろエネルギー補給が必要だ。
道路標識にはすでに「本庄市街」と表示されているけれど、歩きともなれば、あと1時間はかかる。
黙々と歩く。ひたすら歩く。
そして、ようやく本庄宿にたどり着いた。

本庄宿本陣跡の写真本庄宿本陣跡、今は石材店

本庄宿は、江戸から数えて10番目、中山道69次の中で一番人口と建物が多い最大の宿場町だった。
利根川の水運の集積地として経済的に栄え、中でも戸谷半兵衛(とやはんべえ)という人物は関東一の豪商として知れ渡っていた。
明治時代には、近代海軍の創設や日本赤十字社の創立に貢献した佐賀の七賢人のひとり、佐野常民が、沿岸防備の観点から「本庄に首都を移すべきだ」という意見書を政府に提出したこともあったらしい。
そんな過去の栄光が想像つかないほどに、町はひっそりとした昼下がりを迎えていた。

食堂モンキーの写真あったぞ!食堂モンキー

町を見てまわる前に、まずは腹ごしらえだ。
本庄宿には、「これぞ定食屋!」というお店がある。
4年前に偶然見つけて、記憶にしっかりと残っている。
決してお洒落ではない。けれど、なぜか心惹かれる店だ。
今もやっているだろうか。
記憶をたどりながら、閑散とした商店街を進んでいくと、店の前にしっかりとのぼり旗が立っていた。
「食堂モンキー」、コロナ禍の今でも健在だ。
ガラガラと引き戸を開けると、懐かしさに包まれた。
「はい、いらっしゃーい」
お父さん、お母さん、息子さん、3人が仲良くお店を切り盛りしている。
コロナ対策やら消費税やら、飲食店を取り巻く環境は、4年前に比べて格段に厳しさを増しているはずだ。
壁じゅうにずらりと貼られたメニューの短冊を眺めていると、そんな中でも客の願いを叶えようと頑張ってきた、まごころの痕跡がうかがえる。
「○○○って作れる?」
きっと、そんな客のリクエストで、ひとつひとつ新メニューの短冊が加わってきたに違いない。

映画ポスターの写真映画のポスターがあった

「しょうが焼き定食をお願いします。」
カウンター席から、厚手のプラスチックシート越しに厨房に注文した。
ジューっと肉を焼く音が食欲を刺激する。
うしろの座敷席では、3人の若者が、海底ケーブルの研究について難しい話をしている。
あとで店主に訊いたら、この町に早稲田大学のキャンパスがあって、この店に来る常連の学生さんということだった。
なんだかすごく頼もしい。将来が楽しみだ。

絶品!肉厚の生姜焼きの写真絶品!肉厚の生姜焼き

香ばしい醤油のにおいとともに、しょうが焼き定食が運ばれてきた。
「さあ、食べるぞ、食べるぞ!」
肉厚のしょうが焼き、ふっくらとした白米を、夢中でたいらげてしまった。

またここに来よう。の写真またここに来よう。

「食堂モンキー」という名前は、店を始めたご主人の生まれ年が「申年」ということで付けられた。
道と旅の神様は「猿田彦大神」なので、僕にとって「猿」は験を担ぐ意味合いもある。
このどことなく落ち着く「昭和空間」の磁力に引かれるのだろうか、映画関係の人が結構やってくるらしい。店には映画のポスターが貼ってあった。
街道沿いに残る古い建築物と同じように、この店にはこの店なりの、一つひとつのエピソードと歴史が刻まれている。
いつまでも残っていて欲しい。
そんな思いを込めて店の様子を写真におさめた。

(参照: https://casual-japanese-style-restaurant-226.business.site/

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