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【第39回】みちびと紀行 ~中山道を往く(鴻巣宿) みちびと紀行 【第39回】

「北本宿」の碑の写真「北本宿」の碑、ただ「北本」という名の宿場は元から存在しない。

桶川宿から40分ほど歩くと、本宿交差点に「北本宿」と記された碑があった。
中山道69次では、桶川宿の次は鴻巣宿だが、中山道の整備が始まった1601年から1年間は、埼玉県北本市に宿場がおかれ、その後、5km先の今の鴻巣宿の位置に移設されたという。
もともとここに宿場があったことから「本宿」と呼ばれ、時代を経るごとに地名が変わり、いつしか「宿」の字がすっぽり抜けて、今の地名は「北本」になってしまった。
移設の理由は諸説あり、宿場が桶川宿から近すぎるからという説や、徳川家康の鷹狩りの休憩地「鴻巣御殿」が、今の鴻巣宿あたりに建設されたからという説がある。
いずれにせよ、鴻巣宿の先の熊谷宿までは、16.3kmもあるので、少しでも熊谷に近づけた方がよかったにちがいない。

東間の富士塚の写真「東間の富士塚」、この拝殿の方向に富士山がある

本宿交差点から20分ほど歩くと、境内に大きな塚を擁した浅間神社があった。
鳥居わきの「東間の富士塚」と書かれた説明板によると、東西約37m、南北27m、高さ約6mで、これまで僕が見た富士塚の中では一番大きい。
参道と石段と社殿は直線上に配置され、これを延長した先に実際の富士山がある。
この中山道は京都に続いているのに、同じく西にある富士山の方角には向かわず、ひたすら北に向かって歩くのは、どうにも不思議な気がする。
江戸初期に整備された中山道の大部分は、「東山道」という、奈良から陸奥国までを最短距離で結ぶ、律令時代からの幹線道路を活用していて、江戸からの道は、まずはこの東山道への合流を目指して整備されたのだ。

人形の町、鴻巣の写真人形の町、鴻巣に入った

浅間神社から20分ほど歩くと鴻巣市に入った。
全国のひな人形の約4割(平成29年度)がこの地で生産され、それを示すかのように、街道沿いにずらりとひな人形の店舗が並んでいる。

「ひな祭り」の起源は定かではないが、平安時代にはすでに紙で作った人形を川に流して災厄を祓う「流し雛」が儀式としてあった。
やがて女の子の人形遊びと結びつき、桃の節句に子どもの無病息災を願ってひな人形を飾る今の形に発展していったらしい。

鴻巣市産業観光館ひなの里の写真鴻巣市産業観光館ひなの里
「赤物」と呼ばれる玩具の写真「赤物」と呼ばれる玩具、赤は魔除けの色
桐製品の生産地の写真鴻巣は桐製品の生産地だった。桐のおがくずが人形に再利用された。

街道沿いに「鴻巣市産業観光館ひなの里」という場所があって寄ってみた。
鴻巣のひな人形の歴史がわかりやすく、そして雅やかに展示されていて、子どもも大人も楽しめる場所だ。
鴻巣では、江戸中期から農家の農閑期の収入獲得手段としてひな人形が作られ、「鴻巣雛」の名で江戸周辺に数多く出荷されていたらしい。
かつてこの地域は、桐たんすなどの桐製品の生産地でもあって、桐から出る大量のおがくずを糊で固めて朱色に塗った「赤物」と呼ばれる玩具づくりが盛んに行われていて、その技術もひな人形に応用されていった。

人形の顔の製造過程の写真人形の顔の製造過程
子どもを思う親心は昔も今も変わらないの写真子どもを思う親心は昔も今も変わらない

江戸期の経済の発展で町人の暮らし向きもよくなり、しだいにひな人形は豪華になっていく。
娘や孫の健康を祈って少しでも良質な人形を求めたであろうし、家同士のひな飾りの見せ合いもあっただろう。
やがて、そのひな人形も、幕府の緊縮財政のとばっちりを受けることになる。
質素倹約を旨とする「享保の改革」で、「奢侈(しゃし)禁止令」が出され、人形業者の取り締まりが厳しくなっていった。
さらに「寛政の改革」では、8寸以上の人形を飾ることが禁止される。
庶民の反発は大きかったようで、「それなら」と、小さいながらも華麗に作られた「芥子雛(けしびな)」というものが流行したらしい。
「こどもを悲しませるとはなんと無粋な」とでも思っていただろう。
日本人は子どもをとても大事にしていたようで、幕末から明治期にかけて日本を訪れた西洋人が残した手記をまとめた「逝きし世の面影」(渡辺京二著)によれば、多くの西洋人が「日本ほど子どもをかわいがる国を他に知らない」と記述していたそうだ。
子どもの喜ぶ顔と健康を願うひな人形は、庶民にとって「ぜいたく品」ではなく「必需品」だったのだ。
経済音痴の幕府を尻目に、こうしてひな人形づくりは綿々と続く。
明治・大正を経て、戦後は帰国する米兵のおみやげとしてもてはやされ、さらにベビーブームで爆発的に売れ、一大産業に発展していった。

享保時代の人形の写真享保時代の人形、色使いが地味
「質素倹約時代」のものの写真「質素倹約時代」のものだろう、華やかさがない

さて、今後ひな人形は、どのような道をたどるのだろう。
次々に消えていく伝統の灯、過去から現在につながるタテ糸の意識の希薄化、これにあらがうように、僕もこうして街道を歩いている。

県道164号と別れて左への写真県道164号と別れて左へ
JR高崎線の踏切の写真JR高崎線の踏切を越える

鴻巣宿の本陣跡から15分ほど歩くと、中山道は県道164号と別れ、左方向の県道365号・鎌塚鴻巣線となって、JR高崎線の踏切を越えていく。
時刻は3:45pm、日が傾いてきた。

箕田氷川八幡神社の写真箕田氷川八幡神社

しばらく歩くと「箕田氷川八幡神社」が見えてきた。古くは「綱神社」とも呼ばれていたらしい。
このあたりは「箕田(みだ)郷」と呼ばれ、嵯峨天皇の流れを汲む「箕田源氏」の発祥の地と伝えられる。

渡辺綱につながる系譜の写真
渡辺綱につながる系譜

僕を含む全国の「ワタナベさん」のご先祖と言われている「渡辺綱(わたなべのつな)」は、この地で生まれたのだ。
嵯峨天皇の皇子で、「源氏物語」の主人公の「光源氏」のモデルとも言われる「源融(みなもとのとおる)」の孫、「源任(みなもとのつかう)」が、初めてこの地に居を構え、その子「源宛(みなもとのあつる)」、「源綱(みなもとのつな)」と代が続く。
この血筋は、代々名前が一文字だった。
しかし、綱が生まれてすぐに母親が死に、父の宛も21歳の若さで亡くなり、幼くして綱は孤児になってしまった。
そこで、母方の里に引き取られることとなり、摂津国西成郡渡辺に移る。
そこから渡辺姓を名乗り、「渡辺綱」になったというわけだ。

渡辺綱の浮世絵の写真
渡辺綱の浮世絵(出典:立命館大学)

やがて青年になり、大江山の鬼「酒呑童子」退治や、京都の一条戻橋の上で鬼の腕を名刀「髭切りの太刀」で切り落とすという、鬼退治の伝説を作った。
まさに「鬼滅の刃」を振るっていったのだ。
それが事実かどうかはさておき、そういう逸話が残るほど武勇にすぐれていたのだろう。
ちなみに、都市伝説というのか、渡辺一族は鬼の天敵なので、「渡辺さんは節分の時に豆まきはしない(する必要がない)」とか、「『鬼は外』とは言わない(言う必要がない)」とか、言われているようだ。
実際に、僕の父も、「福は内」とは言っても「鬼は外」とは言ったためしがない。
「『鬼は外』とは言うな」という引継ぎはいっさいなかったから、どうしたものかと思っている。
いったい他の渡辺家はどうなんだろう。

箕田氷川八幡神社の拝殿の写真箕田氷川八幡神社の拝殿

鳥居をくぐり拝殿に進むと、賽銭箱に見慣れた渡辺家の家紋があった。
三つ星に一文字の家紋、通称「渡辺星」が、夕日を浴びて輝いている。
この場所は、僕につながっているタテ糸の先だったのだ。

家紋「渡辺星」を夕日が照らす写真家紋「渡辺星」を夕日が照らす

渡辺綱は、73歳という、平安時代当時としては長寿で亡くなった。
辞世の句はこうだ。
「世を経ても わけこし草の ゆかりあらば あとをたづねよ むさしののはら」
幼くして去ったこの地のことを、生涯忘れてはいなかったのだ。
僕がここに来たのは、ご先祖さまの遺言通りだった。

北鴻巣駅の写真北鴻巣駅で今日の歩き旅を終える

傾く夕日に手をかざしながら、JR北鴻巣駅にたどり着いて、今日の歩き旅を終える。
時刻は4:45pm。
今朝スタートした宮原駅からは、所要約8時間、歩数は37,740歩、距離にして22.4kmだ。
今日は一旦東京の自宅に戻り、明朝ここからまた中山道歩き旅をはじめよう。
電車に乗って外を見れば、これまで歩いた道のりの景色が、車窓を風のように流れていった。

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