【第34回】みちびと紀行 ~中山道を往く(板橋宿) みちびと紀行 【第34回】
JR埼京線の踏切を越えて、商店街をまっすぐ歩いていくと、やがて首都高の高架をくぐって板橋宿に入った。
日本橋から約10km、中山道第一の宿場町だ。
時刻は1:30pm、日本橋を8:30amに出立したので、ここまで5時間で着いたことになる。
活気がある商店街を歩いていると、昔日の面影がすっかり消し去られたかのように思いきや、よくよく目を凝らすと、石碑や案内板がひっそりと残っていて、確かにここが宿場町だったことを気づかせてくれる。
通りの右側に「板橋区立いたばし観光センター」があったので、町の情報を収集することにした。
ここには小さいながらも、要点を押さえた展示があって、板橋のまちの発展の歴史がよく理解できた。
陸軍板橋火薬製造所跡(出典:板橋区HP)
板橋の発展の歴史は、加賀藩前田家と関係が深い。
加賀藩は、参勤交代の折、中山道を使っていて、このあたりには加賀藩の広大な下屋敷があった。
金沢を出立して、北国街道と中山道を旅した大名行列は、一旦この下屋敷で休息をとり、装束を整えてから、江戸の町を、加賀百万石にふさわしい颯爽とした身なりと陣容で上っていったのだ。
下屋敷とは、今でいうと別荘のようなところで、22万坪(約72.6ha)もあったというから、相当広大な別荘だったようだ。
屋敷内には、石神井川が流れ、千川用水の水をあわせて、金沢の兼六園のような回遊式の大庭園があったらしい。
嘉永3年(1850年)には、会津藩主松平容敬・容保父子を招いた園遊会がここで行われ、鷹狩や屋形船の上での管弦など風雅を極めた催しだったようで、会津家の人びとから「桃源郷」と賞されたと説明があった。
さすが加賀百万石!
この広大な土地は、明治期になると陸軍に接収され、石神井川の水流で回る水車の動力によって火薬を作る陸軍板橋火薬製造所が設置された。
これを契機に、それまで農耕が主であった板橋に、初めて工場が進出し、軍の下請け工場が付近に集積するようになった。
さらに戦後は、跡地に数多くの学校や工場、研究所が入って、引き続き板橋の発展を支えることになった。
百万石の加賀藩が参勤交代で中山道を使ったこと、そしてここに広大な下屋敷を築いたことが、今の板橋の町の繁栄につながっている。
商店街を歩いていると、古家を改装したおしゃれな飲食店をちらほらと見かけた。
その中のひとつ、板五米店は、以前歩いたときには空き家になってだいぶ経つようで、すぐにも崩されてしまうんじゃないかと内心ひやひやとしていた。
けれど、今日見ると、大正建築の趣を残したまま見事にリノべーションされ、旧街道の風情を継承してくれている。
シャレたお店の中では、若者たちが忙しそうにお弁当を作って売っていた。
こうして若者たちが懐かしい建物に再び命を吹き込んで、思い思いのお店を開いているのは、見ていて楽しく頼もしい。
にぎわう商店街を進んでいくと、やがて板橋が見えてきた。
石神井川に架かるこの橋は、江戸時代に作られたときには文字通り、板で作った橋だった。
「江戸名所図会」では、太鼓橋のようなものが描かれていた。
橋桁の脇には「日本橋から十粁六百四十二米(10km 642m)」と書かれている。
距離が短いので、江戸から出立した人がこの宿場町に泊まるのではなく、これから江戸に入ろうとする旅人が、この板橋で、中山道の旅の最後の一夜を明かしたに違いない。
板橋の先を進んでいくと、「縁切り榎(えのき)」と呼ばれる場所に着いた。
榎が一本立っていて、江戸時代には、この榎の樹皮を剥がしたものを煮出した液体を別れたい相手に飲ませれば、きれいさっぱり別れられるとされていた。
この木の下を花嫁が通ると縁起が悪いとされていたので、皇女和宮の降嫁の際には、京都から中山道を下る行列がこの場所を避けるように、新たな迂回路が普請されたようだ。
僕が初めて中山道を歩いたのは8年前のことで、ここを通ったときに寄ってみたところ、榎の木の幹に釘が打たれているのを見つけてしまって、「丑の刻参りか?」とたじろいだことを覚えている。
そして、はしたないことではあったけれど、好奇心が勝ってしまって、掛けられている絵馬を読んでみたことがある。
予想通り、ドロドロした怨念のようなものが書かれていて、もやもやとした気分になった。
内容は、男女の関係のことが多かったが、「気に食わない会社の上司がどこかに飛ばされますように」とか、「お隣の〇〇家が引っ越しますように」というものもあって、失礼ながら、そのあからさまな人間模様が面白かった。
確かに人の縁というものは自分の力ではどうにもならず、縁結びの神様と同じように、縁切りについても神頼みしなければならないのだろう。
けれど、僕もそれなりに年齢を重ねて、人の縁というものも、案外自分で引き寄せていて、自分次第で良縁に巡りあうこともできれば、悪縁を絶つこともできるんじゃないかと思うようになった。
それはさておき、こういう「縁切りの儀礼」があることで気持ちの整理がつく人も多いはずなので、この場所はそういった「デトックス」という意義を認めて、もっと知られてもいいだろう。
ちなみに、江戸時代の離婚制度を調べてみると、これまでなんとなく持っていた「女性が虐げられていた」というイメージとは違って、実際はわりと理にかなった別れ方をしていたようだ。
というのも、江戸時代は結婚が個々人だけの契りではなく、家と家との結びつきでもあったし、仲人の面目もあったので、別れる時は、関係者一同による「熟談離婚」が大半だったらしい。
『三くだり半 ー 江戸の離婚と女性たち』(高木侃著)の中では、550通もの離縁状を分析した結果として、そう書かれている。
日本の婚礼は、もともと宗教とは関係なく、結婚式で神主さんが祝詞を上げるようになったのは、明治33年のことだったらしい。
キリスト教の牧師が結婚の司会をして献金を受けるのに目をつけた日比谷の大神宮(現在の東京大神宮)が、新しい事業として「神前結婚式」を始めたということだ。
かたや、結婚と宗教が固く結びついていたキリスト教国では、長い間離婚することができず、ヨーロッパで結婚は民事契約だとはじめて認められたのは1791年のフランスで、最後まで粘ったイタリアでは、なんと1973年まで離婚が認められていなかったそうだ。
「さて、最近はどんな願いごとがあるのだろう」と、懲りもせず絵馬に目をやると、なんとマスキングのためのシールが貼られていた。
いつからなのか、そういう方針になったようだ。
「個人情報保護」の観点なのか、あるいはマスキングしなければ思い通りに書けないというリクエストがあったのだろうか。
きっとそのシールの下には、以前よりいっそう過激な内容が書かれているのだろう。
怒りをすべてここに吐き出して、冷静な気持ちになってから、その縁が結ばれ、この場所に来るに至るまでの過程を振り返ってみるといい。
そして、その検証が、未来の良縁につながっていけばいい。
時刻は2:30PM、まだ日も高いし、そんなに疲れてもいない。
板橋には天然の温泉もいくつかあるので、そこまで歩いて行って、今日一日の歩き旅を温泉で締めくくろうというプランを思い立った。
中山道をそのまま北上していくと、車通りの激しい大通りにぶつかった。
今では、この大通りの国道17号の方が「中山道」として知られてしまっていて、僕が歩いている旧街道の方は、「旧中山道」と呼ばれている。
この呼び方に「「時代の遺物」あるいは「用済み」かのような響きを感じてしまうのは、思い過ごしだろうか。ともかく、長い歴史を刻んできた街道に対して、若干失礼なのではないかと思う。むしろ、新しく作った道を「新中山道」として欲しかった。
高度経済成長期はとくに、「道路建設=車道建設」だっただろうから、街道の呼び方にもそのスタンスが自然に表れてしまったのだろうか。
そんなことを思いながら、激しい車通りを横目に歩いていたら、ほどなく志村の一里塚に着いた。
国史跡に指定されている一里塚は全国で17ヶ所あり、志村の一里塚は、大正11年(1922年)にまっさきに国史跡に指定されたそうだ。
現在でも、毎月地元の町会の方々が手入れや清掃をしてくれているらしく、街道歩きをしている僕のような旅人にとっては、実にありがたいことで頭が下がる。
そして、このあたりの「車道建設」の図面を描いた人よ、この一里塚を残してくれて、ありがとう。
今日の中山道歩きは、ここで一旦終了とし、近くの「前野原温泉さやの湯処」で、疲れを癒してさっぱりすることにした。
志村の一里塚で左に入り、「一里塚通り」の坂道を下っていくと、「見次公園」という池を擁した大きな公園があって、そこを過ぎて首都高の高架をくぐり、再び坂道を上ると、目的地の温泉がある。 一里塚からは、歩いて10分ほどだ。
この温泉は、うぐいす色の濁り湯の源泉掛け流し、PH7.4の弱アルカリ性、塩分濃度の高いナトリウム塩化物強塩温泉ということで、浴後も身体がずっとポカポカしていた。
土曜日だったせいか、まだ時刻が3:30pmなのに、大勢の人が様々な風呂を楽しんでいた。
湯船の中で、一日の行程を振り返る。
今日の道中でのたくさんの発見、そしてそれらに対する自分のリアクション。
その一つひとつが、今の自分を理解することにつながっていた。