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【第31回】みちびと紀行 ~中山道を往く(旧白山通り~巣鴨) みちびと紀行 【第31回】

大円寺の門の写真路地奥に見える大円寺の門、神社の鳥居にも見える

日光御成道との追分で右折すると、車通りが少なめになり、中山道は静かになった。
ここは「旧白山通り」とも呼ばれていて、地形に合わせてうねりながら続いているさまが、昔ながらの道の特徴をよく表している。
個性的なお店がぽつりぽつりと目に入ってきて、このコロナ禍がなければ、ほかにも面白い店が開店していただろうと思われて残念だ。

この辺りには、「八百屋お七」ゆかりのお寺がある。
「第11回みちびと紀行〜東海道を往く」では彼女について書き、その人物像をより深く知ることになった今では、素通りはできない。
立ち寄って手を合わせることにした。
(参照:「第11回みちびと紀行」 https://michi100sen.jp/specialty/michibito/011.html )

ほうろく地蔵の写真八百屋お七の身代わりに責め苦を受けているほうろく地蔵

まずは、都立向丘高等学校の隣、中山道からは路地の奥に見える、大円寺に寄った。
ここには「ほうろく地蔵」と呼ばれるお地蔵さんがいる。
由来では、放火の罪で火あぶりになったお七さんの罪業を救うために、熱したほうろく(素焼きのふちの浅い土鍋)を頭にかぶり、自ら焦熱の苦しみを受けたお地蔵様とされている。
お七が処刑された36年後に、渡辺九兵衛という人が、供養のために寄進したらしい。

街道を歩いていると、昔の日本人の精神性をうかがい知ることのできる痕跡によく出会う。
そのひとつが、地域ゆかりの人や動物、ときには物を供養するための石碑やお地蔵さんだ。
お地蔵さん一体を作るためには、適当な石を調達しなければならないだろうし、彫ってもらうにも石工を雇わなければならないだろうから、相当な出費と労力だろう。
しかも、放火といえば、当時の日本では最大級の罪で、同情する余地などなかったはずなのに、ここまで人々の心を動かしたものは、いったい何なのだろう。

八百屋お七の墓石の写真八百屋お七の墓石が三つ並んでいる

お地蔵さんに手を合わせてから、中山道をちょっと戻り、次は浄心寺坂を下って、円乗寺に向かった。
このお寺こそ、八百屋お七一家が天和の大火の時に身を寄せ、その避難中に恋仲になった寺小姓が住んでいたところなのだ。
マンションに囲まれたお寺の敷地に、お七の墓はあった。
なんと墓石が三つ。
中央の小さめの墓石が、寺の住職が供養のために最初に建てたもの。
向かって右側の大きめの墓石は、寛政年間に、歌舞伎で「八百屋お七」を演じた岩井半四郎が建立したもの。
そして、左の四角い墓石は、近所の有志の人たちが、お七の270回忌の供養で建てたものだ。
数え年16歳で炎につつまれた女性、お七。
その彼女のことを憐れんで、今でも記憶にとどめている日本人。
外国から来た人にとっては、理解しがたいことだろう。
ここには確かに、忠臣蔵や新撰組のストーリーとともに、日本人のメンタリティを解く鍵がありそうだ。

白山通りに合流する写真白山通りに合流する

東洋大学のキャンパスを過ぎて、中山道は道幅の広い「白山通り」に合流した。
JR巣鴨駅が視界に入ってくる。
時刻は11:42am、お昼時だ。
「コロナ対策しています」の貼り紙のある飲食店を、次から次へと横目に見つつ、「今の自分は何が食べたいんだろう」と自問自答しながら歩いていく。
ちょこっと脇を見ると、はっさくが無人販売で売られていた。
今や、農村だけでなく、都会に無人販売が登場する時代なのか。
ふと、さきほど通った東大前の本郷の街並みを思い出す。
シャッター街になるくらいなら、無人販売のボックスが並んでいた方がいいな。

白山通りの無人販売ボックスの写真白山通りの無人販売ボックス
染井吉野の碑の写真黒光りしている染井吉野の碑

山手線を眼下に見ながら、巣鴨駅の反対側を進んでいくと、線路沿いの桜の並木道に「染井吉野の碑」があった。
山手線巣鴨駅から駒込駅にかけた一帯は、江戸時代は「染井村」と呼ばれた農村だった。
ソメイヨシノはここで、オオシマザクラとエドヒガンという2種類の桜を交配させることで江戸時代の終わりに誕生し、ここから接ぎ木によって全国に広まった。
今では日本の桜の約80%を占めているそうだ。
「接ぎ木」とは、同じ遺伝子をもつ個体を複製することなので、全国にあるソメイヨシノは、ここにある桜と全く同じ遺伝子をもつクローンということになる。
違う種類同士の桜の交配だの、クローン技術だの、江戸時代の日本の「生物工学」はたいしたものだったのだ。

「東京の原風景」の写真「東京の原風景」

それもそのはず。参勤交代で江戸と本国を行き来した全国の諸藩は、こぞって江戸屋敷に庭園を営み、その数は、後楽園・六義園クラスのもので、少なく見積もっても約300はあっただろうと言われている。
なかでも、尾張徳川家の下屋敷だった新宿の戸山一帯は、約13万6千坪もある大庭園で、現在までに判明している日本史上最大の庭園だったらしい。
これらの大庭園が、やがて大きな公共施設の用地に変わり、明治期以降の近代化に貢献して、東京の街を発展させてきたことを思えば、いったい何が幸いするのかわからないものだ。
幕末に日本を訪れた、英国の植物学者だったロバート・フォーチューンは、「世界のどの都市も、緑の美しさにおいて、この江戸にはかなわない」と記録している。
まさに「世界の園芸植物センター」と言っても過言ではなかった場所が、この駒込・巣鴨エリアだったのだ。
江戸の園芸事情については、川添登氏の『東京の原風景』という本に詳しく書かれていて、菊人形の成り立ちや、ツツジ見物の観光があったことなども、興味深かった。
この平和な時代の最大の娯楽は、武士たちの庭いじりと、あらゆる花を愛でに出かける観光だったのだ。
まさに「花のお江戸」ということか。

真性寺にある「旧中山道はタネ屋街道」の説明板の写真真性寺にある「旧中山道はタネ屋街道」の説明板

しばらく進むと、真性寺の横に、「旧中山道はタネ屋街道」と書かれた説明板があった。
ここから先、板橋区の清水町にいたる約6kmの間に、タネ問屋が9戸、小売店が20戸もあったらしい。
旧中山道を通る旅人の中には、街道沿いの農家に立ち寄り、縁側を使わせてもらって弁当を食べる人もいて、農家の庭先や土間で見慣れない野菜を見かけると、国もとで栽培しようと、タネを欲しがる人も多かったようだ。
それがやがて、「タネ販売」という農家の副業に発展した。
この情報を事前に知っておいてよかった。
そこから先、中山道沿いに、確かに昔ながらの種苗屋さんをちらほらと見かけた。
中山道を通って全国各地へ、様々な植物のタネが広まっていったのだ。
街道と旅人は、商業だけでなく、農業の発展にも貢献してきた。
あたかも血管を通って栄養が運ばれていくように、全国の街道が、日本の発展を支えてきたのだろう。
京都まで続いている中山道と、タネを懐に入れて歩いていく旅人を思い浮かべながら、足を踏み出していった。

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