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【第30回】みちびと紀行 ~中山道を往く(本郷) みちびと紀行 【第30回】

サッカー通りの写真サッカー通りを歩いていく

神田明神の鳥居の横、天野屋さんで甘酒を飲み干し、また中山道を歩き始めた。
左手に東京医科歯科大学を眺めがら進むと、やがて「サッカーミュージアム入口」という標識が見えてきた。
この交差点を右に入ると、日本サッカー協会(JFA)が運営する「日本サッカーミュージアム」がある。ここもこれまでは通り過ぎるだけのところだった。
さて、行ってみるか。

サッカーミュージアムの写真ミュージアムに入った。熱い思いは蘇るだろうか。

この博物館は、2002年のFIFAワールドカップの開催を記念して、2003年にオープンした。
2002FIFAワールドカップは、日本と韓国で開催された17回目のFIFAワールドカップで、初めてアジアで行われた大会であり、初の2カ国共同開催でもあった。
個人的なことではあるけれど、僕はサッカーが盛んな静岡の出身で、サッカーが、それまでの「野球一強状態」を打破してくれればいいと願っていた人間なので、Jリーグができて、しかもワールドカップが日本で開催されると決まって、拍手喝采したものだった。
それがいつのまにか、このスポーツと国際政治がなんやかやと絡まっている状況を知って、とってもシラけてしまった。
僕のサッカー熱が冷め始めたのは、ちょうどこの頃だったかもしれない。

博物館の入り口では、いかにもスポーツマンという感じの颯爽とした若者が、厳重なコロナ対策をして迎えてくれた。
館内は、3層構造で、1階と地下1階が無料、地下2階が有料展示ということだ。
全て見学すると60分かかるということなので、とりあえず無料展示だけを拝見することにした。
そこには、Jリーグやなでしこジャパンなど、日本のサッカーに関わる数々の品が整然と展示されていて、それらをサラリと見て通り過ぎていく。
サッカーファンであれば、きっとその展示物の一つひとつが、深い意味を持って感動を呼ぶのだろう。
僕のサッカー熱は、ここまで冷めてしまった。

サッカーミュージアムの写真2サッカーの歴史の重みが迫ってくる

さて、そろそろ出ようかと思って、最後の「日本サッカー殿堂」に行き着いたとき、初めて心が揺さぶられた。
日本のサッカー界に力を尽くした人々、運営側、選手側、そして後援者も含めて、歴代の人々のレリーフが奥に向かってずらりと並んで僕を出迎えていた。
そうなのだ。
日本では競技人口もわずかだったサッカーというスポーツの、国内での認知度を高め、選手を育成し、世界に通用するレベルにまで発展させ、熱狂的なサポーターを増やしてきたのは、ここに並ぶ人たちの地道な努力と、なにより一途なサッカー愛によるものだったのだ。

(参照:「日本サッカー殿堂 掲額者一覧」公益財団法人日本サッカー協会)
https://www.jfa.jp/about_jfa/hall_of_fame/member/

サッカーミュージアムの写真3確かにそうだ。説得力がある。

「サッカーが好き」というのは、こういうことを言うのだ。
僕はあまりにも、本来どうでもいいことに囚われすぎていた。
大掛かりなイベントだとか、国同士のいがみ合いに発展しがちな面だとか。
ひたすらにボールを追い、ゴールめがけてキックする。そして、仲間やサポーターと喜び、悔しさを分かち合う。
そんな、純粋にサッカーを愛する面々のパス回しのおかげで、今ではこれだけ多くの子どもたちが、広場や近所の空き地でボールを蹴っている。
こんな光景は、少なくとも僕の子ども時代にはなかった。
ものごとが、派手で大きくなると、そのことに囚われて、以前のいちずで純粋な情熱を見失いがちになる。
ここで草創期の日本のサッカーの展示を見ることができてよかった。
少しだけサッカー熱をよみがえらせて、再び中山道を歩き出した。

かねやすの写真江戸時代は歯磨き粉販売で繁盛した

本郷三丁目についた。 ここまでが江戸の町で、ここから先は江戸の外だと、僕の頭にはインプットされている。
この交差点にある「かねやす」ビルに、その名残の川柳が刻まれている。
「本郷も、かねやすまでは、江戸の内(うち)」
文京区の説明板によると、享保15年に江戸に大火事があり、大岡越前守が、この三丁目から江戸城にかけて、塗屋・土蔵造りの家屋を奨励し、屋根は茅ぶきを禁じて瓦と定めたらしい。
それ以降、江戸の町は、この本郷三丁目までが瓦ぶき、そこから先は板や茅ぶきの家並みとなったとのことだ。
改めて説明文を読むと、ここまでが江戸の内側だという認識があったうえで瓦屋根にさせたのか、瓦屋根の家並みがあるところまでが江戸にふさわしいモダンな町並みだと言いたいのか、よくわからなくなってきた。
この川柳には、一体どのような思いが込められているのだろう。

本郷の写真昔はここでよく古本を漁ったものだ

東京大学の赤門が見えてきた。
東大は、加賀藩の上屋敷だったところに建っていて、赤門はその表門だった。
加賀藩は、参勤交代のときは中山道を使ったので、この道沿いには、加賀百万石ゆかりのものが随所にある。
気になったのは、赤門とは反対側の通り。
年々店を閉めるところが増えていて、今やシャッター街になっている。
その多くは古本屋と喫茶店だ。
かつてこの本郷は、神田や早稲田とならび、「三大古書街」と呼ばれていたのに。
日本の最高学府の目の前にシャッター街、これは意味深だ。

高崎屋の写真江戸時代から今も続く酒店、高崎屋

やがて日光御成道(おなりみち)と中山道との分岐点、追分(おいわけ)に差し掛かった。
ここにはかつて、中山道の最初の一里塚があって、榎が植えられていたらしい。
日本橋から、もう4km弱も歩いたのか。
ここにある高崎屋さんは、江戸時代から続く酒店で、両替商も兼ねて「現金安売り」で繁盛していたと、文京区の説明板に書いてあった。
ちょっとわかりにくい説明だけれど、こういうことだろう。
両替商とは、いわゆる為替手形を扱った商人のことだ。
例えば、江戸の商人が大阪から商品を買ったとして、その代金の金貨や銀貨を大阪まで輸送するのは不便であるし、リスクが伴う。
そこで、江戸の両替商に代金を渡して、支払いを約束した為替手形を発行してもらい、その手形を受け取った売り手側の大阪の商人が、指定された大阪の両替商に持っていくことで、代金の支払いと受け取りを可能にした。両替商はここで手数料を稼いでいた。
当然、江戸にも大阪にも潤沢な現金がなければ成り立たない商売なので、現金をたくさん用意する必要がある。
そのため、この高崎屋さんでは、お酒を売る時には、「ツケ払い」をやめて、店頭での現金売り、その代わりの値引き販売を始める。その方がキャッシュがすぐに手元に入るからだ。
そして、その潤沢な現金を使って、両替商を始めたということだろう。
この両替商が明治以降には金融業に発展していく。
今の日本は、一足飛びに近代化したわけではなくて、こうした歴史の下積みがあったのだ。

日光御成道と中山道の追分の写真日光御成道と中山道の追分

道路標識は「さいたま、巣鴨」方面、ここを左に進む国道17号が中山道だ。
時刻は11:00am。
そろそろ昼ごはんのことが気になり出した。
さて、美味そうなところはないかな?
いっそうキョロキョロと、中山道を歩いていった。

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